1.3.3.(第11節)「犯人の左手、探偵の右手」
死者の声は、迷宮の地図を指し示す。
告発された巨悪の名は、探偵の覚悟を鋼へと変える。
だが、証拠なき真実は、闇に響く虚しいこだまに過ぎない。
残された二つの死体を前に、探偵は再び世界の骨格を剥ぎ取り、犯人が遺した、ただ一つの致命的な矛盾を暴き出す。
論理の亀裂に刻まれた、右と左の非対称。それが、見えざる暗殺者の輪郭を闇の中に描き出す。
ギデオンの店の奥、澱んだ空気の中で、アニマが再生した音声は、死者からの最後の遺言だった。それは、殺された評議会上級顧問ゼノンの、生々しいまでの覚悟と無念が刻み込まれた声。技術魔術師ギルドの頂点に立つ男、マキナ卿の名が、都市を蝕む災厄『論理の錆』を兵器転用しようとする巨悪の首魁として、明確に告発された。
沈黙が落ちた。響くのは、解析装置の冷却ファンが発する単調な唸りと、店の外で降り続く錆色の雨音だけ。ロゴスは、硬い椅子の背に身を預けたまま、虚空を睨んでいた。彼の心の中では、ソフィアの死の記憶と、ゼノンの最後の言葉が、不協和音を奏でながら渦を巻いていた。二つの事件は、もはや疑いようもなく、マキナ卿という一点で繋がっている。長年彼を苛んできた過去の亡霊は、今や復讐すべき明確な敵の姿をとっていた。
「……野良犬。とんでもねえもんを掘り当てやがったな」
最初に沈黙を破ったのは、腕を組みながら壁にもたれて一部始終を聞いていたギデオンだった。彼の嗄れた声には、いつもの皮肉に加え、隠しきれない緊張の色が滲んでいた。
「マキナ卿が黒幕だ、か。そいつは、絡繰の竜の尻尾どころじゃねえ。竜の心臓そのものに手を突込んじまったようなもんだ。この音声データが奴の手に渡れば、お前さんたちはもちろん、このガラクタ屋敷も、跡形もなく消し飛ばされるだろうぜ」
「分かっている」ロゴスは低い声で応じた。彼の瞳には、もはや過去への逡巡の色はなかった。そこにあるのは、解き明かすべき謎の巨大さと、それを前にした探偵としての、冷徹で純粋な闘志だけだった。「だが、この音声は証拠にはならん。審問庁に持ち込んでも、ゼノン顧問がマキナ卿を陥れるために捏造したデータだと一蹴されるのが関の山だ。ヴェリタスなら、そう言うだろう」
「違いない」ギデオンはキセルの灰を床に叩きつけた。「奴らは秩序を守るためなら、真実だろうがなんだろうが握り潰す。物証だ。奴らを動かせるのは、物理法則で証明できる、揺るぎない物証だけだ」
「だからこそ、必要なんです」
それまで黙って佇んでいたアニマが、静かに、しかし力強い声で言った。彼女は、自らの頬を伝った涙の跡を拭うこともせず、そのサファイアの瞳でロゴスを真っ直ぐに見つめていた。その瞳には、主を失った悲しみと共に、彼の遺志を継ぐという、鋼のような決意が宿っていた。
「ロゴス様。あなた様の力で、どうか、マキナ卿の罪を暴くための、決定的な証拠を見つけ出してください。私の主が遺したこの声が、ただの虚しい囁きで終わらないために」
彼女の言葉は、ロゴスの心に最後の錨を下ろした。そうだ。感傷に浸っている暇はない。過去の罪に苛まれている時間もない。目の前には、解くべき謎がある。そして、その謎を解き明かすことを、涙ながらに懇願する依頼人がいる。探偵にとって、それ以上に必要なものなど、何一つなかった。
「……ああ、分かっている」
ロゴスは立ち上がり、ギデオンが格闘している作業台へと歩み寄った。
「ギデオン。カレルのチップの解読は続けろ。だが、それと並行して、俺は思考を整理する。マキナ卿は、完璧な偽装工作を行った。だが、どんな完璧な絡繰にも、設計者の癖や、意図せぬ歪みが必ず生じる。俺は、それを見つけ出す」
彼は、作業台の隅から一枚の大きな羊皮紙とチョークを手に取ると、店の比較的片付いた床にそれを広げた。そして、彼はその場に膝をつき、目を閉じた。
「アニマ。君が記録した、第四区画の思考機関施設の現場データを、もう一度、可能な限り詳細に再生してくれ。エーテル濃度、残留魔力反応、破壊された部品の配置、その全てだ。そして、カレル・アンベルクの部屋の状況も」
「はい、ロゴス様」
アニマは頷くと、自らのAIコアに記録された二つの凄惨な現場のデータを、感覚情報としてロゴスの脳に直接リンクさせるかのように、静かに語り始めた。彼女の淡々とした、しかし正確無比な報告が、ロゴスの思考を現実のしがらみから解き放ち、純粋な論理の世界へとダイブさせていく。
意識が、深く、深く沈んでいく。
世界の表層が剥がれ落ち、彼の精神の前には、二つの事件現場が、青白い光で構成された論理の骨格として、同時に浮かび上がった。
一つは、第四区画の思考機関施設。巨大な機械の残骸が広がる、広大な空間。暴走したエネルギーが描いた破壊の軌跡が、物理法則に従った美しい曲線として彼の網膜に映し出される。公式報告書が言う、『完璧な事故』の光景だ。
もう一つは、カレル・アンベルクの部屋。狭く、乱雑な空間。プロの暗殺者が残した、効率的で、無駄のない殺意の軌跡。そして、その後に続いた、素人じみた、焦りの滲む捜索の痕跡。
ロゴスは、この二つの論理風景を、彼の精神の中で、まるで二枚の透明な設計図を重ね合わせるように、じっくりと比較検討し始めた。
マキナ卿は、ゼノンを殺し、カレルを殺した。だが、その手口は、あまりにも異質だった。
ゼノンの死は、壮大で、複雑で、緻密な計算に基づいた『事故』として偽装されている。それは、思考機関の構造を完全に把握した、一流の技術魔術師でなければ到底不可能な、知的な犯行だ。マキナ卿本人が設計したと言っても過言ではないだろう。
一方、カレルの死は、単純で、暴力的で、直接的だ。背後からの奇襲による、一撃での刺殺。そこに、知的な駆け引きの要素はない。ただ、目的を遂行するための、冷たい効率性だけが存在する。
なぜだ?なぜ、同じ人間を口封じするという目的のために、これほど手口が違う?
ロゴスの思考が、深く、核心へと迫っていく。彼は、二つの現場に残された、人為的な介入を示す黄金色の『論理の亀裂』に、再び意識を集中させた。
第四区画の亀裂。それは、第二安全弁を外部から破壊した、極めて微細な亀裂だった。その亀裂の入り方、深さ、そして破壊エネルギーが加えられた角度。それは、まるで精密機械を扱う外科医のように、正確無比だった。無駄な力は一切かかっていない。最小限のエネルギーで、最大の効果を生むための、計算され尽くした一撃。ロゴスの脳裏に、マキナ卿の、あの穏やかで、知的な顔が浮かんだ。彼なら、やるだろう。
次に、カレルの部屋の亀裂。それは、ドアの錠前をこじ開けた乱暴な亀裂と、カレルの背中を貫いた、一直線の、躊躇いのない亀裂だった。特に、その刺殺の軌跡を示す亀裂には、独特の特徴があった。刃物は、右の肩甲骨の下から侵入し、斜め上へと突き上がり、心臓を貫いている。常人にはない、強力な腕力。そして、その角度。それは、極めて練度の高い、左利きの人間が行った場合にのみ現れる、特有の軌跡だった。
左利き……?
その単語が、ロゴスの思考に、小さな、しかし決定的な不協和音を生じさせた。彼は、脳内の記録データを検索する。技術魔術師ギルドの公的なデータベース。ギルドマスター、マキナ卿の個人ファイル。彼の経歴、論文、そして、公の場で署名を行う際の映像記録。
「……見つけた」
ロゴスは、閉じた瞼の裏で、呟いた。マキナ卿は、子供の頃の矯正にもかかわらず、その筆跡や仕草の端々に、元々は左利きであった痕跡を残している。だが、彼がギルドのマスターとして公の場でペンを握る手は、常に右手だった。彼は、完璧な右利きとして振る舞っている。
だが、カレルを殺した暗殺者は、紛れもなく左利きだ。
二つの現場の『論理の亀裂』が示す、致命的な矛盾。
「……そういうことか」
ロゴスは、ゆっくりと目を開けた。彼の瞳は、もはや目の前の羊皮紙ではなく、その向こう側にある、事件の真の構造を見据えていた。
「どうかなさいましたか、ロゴス様?」
彼の様子の変化に気づいたアニマが、心配そうに問いかける。
「……アニマ。犯人が分かった」
「マキナ卿、では?」
「ああ。首謀者は奴だ。だが、実行犯は別にいる」ロゴスは立ち上がり、床に広げた羊皮紙に、チョークで二つの人型を描き始めた。「マキナ卿は、二つの殺人現場で、それぞれ別の『手』を使った。ゼノン顧問を殺したのは、奴自身か、あるいは、奴の指示を完璧に理解できる、右利きの、極めて優秀な技術者だ。思考機関に細工をし、完璧な事故を演出した。これは、マキナ卿の『右手』と言える」
彼は、もう一つの人型を指し示した。
「だが、カレルを殺したのは、全く別の人間だ。思考や理論を必要としない、ただ命令に従って人を殺すためだけの、暴力装置。プロの暗殺者。そして、そいつは左利きだ。これが、マキナ卿の『左手』。彼は、自らの手を汚すことなく、この『左手』を使って、邪魔な証人を消した。カレルの部屋を荒らしたのは、おそらくこの暗殺者だろう。奴は、マキナ卿から『カレルを殺し、奴が持つデータを奪え』としか命令されていなかった。だから、データの隠し場所が分からず、素人のように部屋を引っ掻き回すしかなかったんだ」
ロゴスの推理は、全ての矛盾を、一つの美しい論理の輪の中に収めてみせた。アニマのサファイアの瞳が、驚きに見開かれる。彼女の論理回路が、彼の言葉の持つ意味の深さを、そして、その結論に至るまでの思考の飛躍を、畏敬の念をもって処理していた。
「では、私たちが追うべきは……」
「そうだ」ロゴスは、チョークを握りしめ、左利きの暗殺者の人型を、強く円で囲んだ。「マキナ卿本人を直接追い詰めるのは、まだ無理だ。奴は、完璧な論理の鎧で守られている。だが、この『左手』は違う。こいつは、マキナ卿と我々を繋ぐ、唯一の物理的な接点だ。この暗殺者を見つけ出し、その口を割らせれば、あるいは、奴が使った凶器や、マキナ卿との繋がりを示す物証を手に入れることができれば、ヴェリタスの、あの鉄壁の規則主義をこじ開けることができるかもしれん」
彼の声には、確信が満ちていた。長年彼を苛んできた、証明不可能な『論理の亀裂』という呪われた才能。だが今、それは、原作『琥珀のパイプ』で名探偵が用いた、利き腕という古典的なトリックの分析と結びつき、揺るぎない状況証拠へと昇華されようとしていた。
「ギデオン!」
ロゴスは、作業を続けていた情報屋に声をかけた。
「新たな依頼だ。高くつくぞ」
「……聞こえてたぜ、野良犬」ギデオンは、振り返らずに応じた。「面白え推理じゃねえか。で、何を探せばいい?このクソ広いイゼルガルドで、『左利きの暗殺者』を、か?干し草の中から、特定の針を探すようなもんだぜ」
「もっと絞り込める」ロゴスは、獰猛な笑みを浮かべた。「ギルドに雇われ、邪魔者を消すような裏仕事を引き受ける、腕利きの暗殺者。そして、左利き。お前の情報網なら、候補者は数人に絞れるはずだ。違うか?」
その言葉に、ギデオンは初めて手を止め、ゆっくりと振り返った。彼の皺だらけの顔に、商人のそれとは違う、純粋な好奇心に満ちた笑みが浮かんでいた。
「……ああ、全くだ。お前さんとの取引は、いつだって退屈しねえ」
彼はキセルの煙を天井に吐き出すと、再びコンソールに向かった。今度は、暗号解読とは違う、都市の裏社会の血生臭いデータベースの扉を開くために。
闇の中に潜む、マキナ卿の『左手』。その輪郭が、今、確かなものとして浮かび上がろうとしていた。ロゴスの右手には、真実への道をこじ開けるための、新たな鍵が握られていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第十一話、いかがでしたでしょうか。
ついに、ロゴスの推理が、事件の実行犯へと迫ります。原作『琥珀のパイプ』のトリックを翻案し、彼の特異能力が具体的な犯人像を導き出しました。
しかし、相手はプロの暗殺者。ここから、物語はさらに危険な領域へと踏み込んでいきます。
もし、この先の展開にご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。




