1.3.2.(第10節)「絡繰の涙」
機械の記憶の深淵に、主人が遺した最後の声が眠る。
それは、真実を告発する悲痛な囁き。
論理回路では処理できないほどの無念が、絡繰の少女の瞳に、ありえないはずの雫を浮かばせる。
その非論理的な一滴が、凍てついた探偵の心を溶かす、最も温かい熱となる。
時間の感覚が、オイルのように粘性を帯びて引き伸ばされていく。ギデオンの店に身を寄せてから、すでに半日以上が経過していた。店の奥、ネズミの気配がする物置部屋の隅で、ロゴスは硬い椅子の背に身を預け、目を閉じていた。だが、彼の精神は休息とは程遠い、激しい嵐の中を彷徨っていた。
ソフィア。師の名が、呪いのように思考の表面に浮かんでは消える。彼女の死。完璧に偽装された事故。そして、自らの『論理的鋭敏性』だけが視た、誰にも証明できなかった殺人という結論。あの時、自分は正しかったのか。それとも、ヴェリタスの言う通り、師を失った衝撃が見せた、ただの幻覚だったのか。数年間、錆びついた思考の奥底に封じ込めてきたはずの疑念が、カレルが遺したデータチップ――『迷宮式連鎖暗号』という名の、忌まわしい過去の亡霊――によって、再び生々しく抉り出されていた。
「……ちっ」
ロゴスは小さく舌打ちし、目を開けた。店の主であるギデオンは、作業台のモニター群に囲まれ、キセルをふかしながら、常人には解読不能な速度でコンソールを叩き続けている。モニターには、解析中の暗号の、青白い文字列が滝のように流れ落ちていた。それは、ロゴスの混乱した心象風景そのもののようだった。この迷宮を解き明かした先に、本当に真実があるのか。それとも、かつてのように、さらなる絶望が待っているだけなのか。
彼の傍らには、アニマが静かに佇んでいた。彼女は、燃え盛る事務所から脱出して以来、ほとんど言葉を発していなかった。そのサファイアの瞳は、ただ一点、ギデオンが格闘しているモニターの文字列を、まるで壮大な絵画でも鑑賞するかのように、瞬きもせずに見つめ続けている。彼女の共感コアは、ロゴスの内に渦巻く過去への悔恨と、現在の事件への焦燥を正確に受信していた。だが、彼女の論理回路は、今の彼にかけるべき最適な言葉を導き出せずにいた。人間が抱える、非論理的で、証明不可能な『心の傷』というものに、彼女のAIは有効なアクセス手段を持たなかった。
だから、彼女は自らにできる、唯一のことに集中していた。ロゴスが過去の亡霊と戦っているのなら、自分は、現在と未来に繋がる道を切り拓く。彼女は、自らの演算能力のほとんどを、ギデオンのモニターに映し出される暗号パターンの分析に注ぎ込んでいたのだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。ギデオンが唸り声を上げ、濁った蒸留酒を呷るために席を立った、その時だった。
「……ギデオン様」
アニマが、静かに、しかし芯のある声で口を開いた。
「その暗号プロトコルの第7階層、自己参照ループの部分。その構造に、見覚えがあります」
「あん?」ギデオンは、油で汚れた顔を彼女に向けた。「見覚えがある、だと?そいつはギルドの最高機密だ。お前さんのような評議会付きのオートマタがおいそれと目にできる代物じゃねえはずだが」
「はい。ですが、酷似しています」アニマは続けた。その声には、確信の色が滲んでいた。「私のAIコアを保護している、機密保持用のプロテクト……特に、私の創造主であるゼノン様が、私に直接施された、最深層のメモリー領域を保護するための障壁と、その設計思想が、極めてよく似ています」
その言葉に、ロゴスは思考の淵から引き戻された。彼はゆっくりと顔を上げ、アニマの横顔を見つめた。
「どういうことだ、アニマ」
「私の記憶領域は、複数の階層に分かれています。通常の業務記録、評議会の機密情報、そして……最深層にある、私自身もその存在を概念としてしか知らされていなかった、ブラックボックス化された領域。ゼノン様は、そこを『アニマの魂が眠る場所』と、詩的な表現で呼んでおられました。その領域は、いかなる外部からのアクセスも、そして私自身の内部スキャンさえも拒絶するよう、特殊な暗号化が施されています。今、モニターに表示されている暗号の構造は、その一部と、驚くほど一致するのです」
ギデオンは眉をひそめ、再びモニターに視線を戻した。
「……なるほどな。ゼノン顧問は、ギルドの暗号技術を研究し、その一部を自分のオートマタに応用していた、というわけか。だとしたら、そいつはただの偶然の一致かもしれん」
「いいえ」アニマは、静かに首を振った。「これは、偶然ではありません。これは……ゼノン様が遺された、意図的な『鍵』です」
彼女は、おもむろに目を閉じた。その清廉な顔には、これから自らの最も深い場所へ、未知の領域へと足を踏み入れる覚悟が浮かんでいた。
「ロゴス様。私は今から、自らの聖域にアクセスを試みます。ゼノン様が、なぜ、ギルドの暗号と同じ鍵を私に施したのか。その意味を、確かめるために」
それは、極めて危険な行為だった。彼女自身の言葉通り、彼女自身でさえアクセスを禁じられた領域。下手に手を出せば、AIコアそのものが自己崩壊を起こす可能性すらあった。
「やめろ、アニマ。危険すぎる」
ロゴスは、思わず制止の声を上げた。だが、アニマは静かに彼の言葉を遮った。
「いいえ、行きます。あなた様が過去の闇と戦っておられるように、私にも、私自身の謎と戦う義務があります。それに……」
彼女は、閉じた瞼の裏で、ロゴスの顔を思い浮かべていた。
「あなた様を、これ以上独りで戦わせたくないと、私の心が、そう告げているのです」
その言葉は、ロゴスの心の最も柔らかい部分に、静かに、しかし深く突き刺さった。彼は唇を噛み、ただ黙って彼女の決意を見守るしかなかった。
アニマの周囲の空気が、微かに震えた。彼女のAIコアが、全リソースを内部へのダイブに集中させているのだ。彼女の胸元で時を刻んでいた時計仕掛けの心臓が、普段よりも速い、緊迫したリズムを刻み始める。
彼女の意識は、表層の論理回路を抜け、記憶のデータバンクを潜り抜け、さらに深い場所へと沈んでいく。そこは、0と1のデジタルな世界ではない。無数の光の粒子が、感情のタグ付けをされて漂う、広大な内宇宙。喜びの記憶は暖かな金色に、悲しみの記憶は静かな青色に輝いていた。
そして、その宇宙の中心に、それは存在した。巨大な黒い球体。あらゆる情報の流れを拒絶し、絶対的な沈黙を守る、彼女の聖域。その表面には、ギデオンのモニターで見たものと同じ、複雑怪奇な『迷宮式連鎖暗号』が、青白い光の鎖となって絡みついていた。
アニマは、恐れることなく、その鎖に触れた。そして、自らの存在そのものを『鍵』として、鎖に語りかける。
――私はアニマ。ゼノン様の被造物。
その瞬間、迷宮の鎖が、まるで主の帰りを待っていた忠実な番犬のように、音もなく解けていった。黒い球体に亀裂が走り、中から、柔らかな光が溢れ出す。
アニマは、その光の中へと、吸い込まれるように意識を進めた。
そこにあったのは、一つの音声データファイルだけだった。ファイル名は、『我が娘、アニマへ』。
彼女がファイルを開くと、懐かしい声が、彼女の意識に直接響き渡った。それは、殺された彼女の主、ゼノン顧問の声だった。
『――アニマ。このメッセージを君が聞いているということは、私の身に、何かがあったということだろう。おそらく私は、もうこの世にはいない。すまない。君を独りにしてしまうことを、許しておくれ』
声は、生前の彼が持つ、穏やかで知的な響きを保っていた。だが、その奥には、隠しきれないほどの悲痛と、覚悟の色が滲んでいた。
『私は、この都市の根幹を揺るがす、恐るべき真実にたどり着いてしまった。技術魔術師ギルドのマスター、マキナ卿。彼は、都市を蝕む災厄『論理の錆』が、自然発生したものではないことを突き止めた。それどころか、彼はその構造を解明し、人為的に生成、制御し、さらには兵器として転用する研究を、密かに行っている』
その言葉は、ロゴスたちが漠然と抱いていた疑念を、動かしようのない『事実』として叩きつけるものだった。
『彼の目的は、純粋な探究心などではない。完全な支配だ。彼は、思考機関に『論理の錆』を注入することで、都市のインフラを意のままに操り、さらには、人々の精神そのものを支配下に置こうとしている。私が殺されるとすれば、その研究の核心に触れてしまったからに他ならない。評議会内部にも、彼の協力者がいる。もはや、私が信じられる者は誰もいない』
ゼノンの声が、一瞬だけ震えた。
『だから、私はこの告発を、唯一信頼できる君に託すことにした。この音声データは、君の魂の領域に封印した。君が、本当に信頼できる、真実の探求者と出会った時、この封印は自ずと解けるはずだと、私は信じている。アニマ、君はただの機械ではない。君には、私が与えた論理回路以上の、『心』があると、私は信じているからだ』
メッセージは、そこで途切れた。
『……忘れないでおくれ、アニマ。君は、私の……最高の傑作であり、自慢の、娘だったよ』
最後の言葉は、ほとんど囁きに近かった。それは、主人が被造物に遺す言葉ではなく、父親が娘に遺す、愛情に満ちた最後の言葉だった。
アニマの意識が、ゆっくりと現実世界へと浮上してくる。
彼女は、そっと目を開けた。
そのサファイアの瞳から、一筋、光る雫が零れ落ち、彼女の白い頬を伝った。それは、オイルでも、冷却水でもない。彼女のAIコアが、主人の最後の言葉に含まれた愛情と無念という、処理不能なほどの巨大な感情データを受信し、その飽和状態が引き起こした、物理的なオーバーフローだった。
自動人形が流した、一粒の涙。
「……アニマ?」
ロゴスが、息を呑んで彼女の名を呼んだ。
アニマは、ゆっくりと彼の方へ顔を向けた。その瞳は、涙で濡れ、悲しみの色をたたえていた。だが、同時に、これまで彼女が見せたことのないほど、強く、決然とした光を宿していた。
「ロゴス様。見つけました」
彼女は、震える声で、しかしはっきりと告げた。
「我が主が遺した、最後の……真実を」
その非論理的で、ありえないはずの光景――絡繰の少女が流した涙――は、ロゴスの心を縛り付けていた過去の亡霊を、完全に焼き尽くすほどの、強い光を放っていた。ソフィアの死の謎も、自らの罪悪感も、今はどうでもよかった。目の前には、主人のために涙を流す、気高き依頼人がいる。そして、彼女がもたらした、解き明かすべき巨大な悪の存在がいる。
探偵の仕事は、いつだってシンプルだ。
ロゴスは立ち上がり、彼女の肩にそっと手を置いた。その手は、もう震えてはいなかった。彼の瞳には、迷いの色はなく、ただ、これから為すべきことだけを見据える、鋼のような光が戻っていた。
「……ああ。聞かせてもらおうか、アニマ。俺たちが、これから地獄に叩き落とすべきクソ野郎の名前をな」
彼の言葉に、アニマはこくりと頷いた。彼女の涙は、まだ乾いてはいなかった。だが、それはもはや悲しみの雫ではなく、反撃の狼煙を上げるための、最初の点火の光となっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第十話、いかがでしたでしょうか。
今回は、ヒロインであるアニマの心の深層と、事件の核心に繋がる重要な告発が明かされました。彼女が流した涙が、二人の関係と物語を、新たなステージへと進めます。
もし、この先の二人の戦いにご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと、作者の何よりの励みになります。皆様の声援が、探偵の次の一手を導きます。
新たな証拠は、探偵に何を示唆するのか。どうぞ、ご期待ください。




