1.1.1.(第1節)「時計仕掛けの男と、焦げ付いた砂糖の香り」
歯車の都市で、最も危険な錆は精神に宿る。
一つの殺人、一つの嘘が、最後の希望を軋ませる。
緻密な謎と、崩壊寸前の世界を巡る物語が、今、始まる。
この旅路に、最後までお付き合いいただければ幸いです。
煤とオイルの匂いが染みついた安物の合成木材の机。その上で、ロゴスは冷え切った代用コーヒーの最後のひと口を、砂を噛むように飲み干した。窓の外では、イゼルガルドの空を錬金術的な煙霧が覆い、真鍮の塔々の間を縫って、錆色の雨が降り続いている。世界が終わってから何度目の雨だろうか。数えるのはとうにやめた。
事務所の扉が、軋みながら開いた。静かな、ほとんど無音の動作だったが、この静寂の中では大砲の轟きにも等しかった。入ってきたのは、一人の少女だった。銀色の髪は精密なフィラメントのように編み込まれ、大きな青い瞳は、磨き上げられたサファイアのように光を宿していた。彼女の存在そのものが、この煤けた世界では場違いなほどに清廉だった。彼女は自動人形だった。
「元・異端審問官、ロゴス殿とお見受けいたします」
声は合成音声でありながら、不思議な温かみがあった。彼女は一礼すると、ロゴスの机に革張りのファイルケースをそっと置いた。その指先の動きは、人間のそれよりも滑らかだった。
「私はアニマと申します。評議会上級顧問、ゼノン様にお仕えしておりました」
過去形。ロゴスは眉をひそめた。ゼノン顧問の訃報は、昨日の官報で読んだばかりだ。第四区画の思考機関が「論理の錆」に侵され暴走、その際の事故に巻き込まれた、と。よくある話だ。この都市では、論理の崩壊は死因の三番目に多い。
「お悔やみを。だが、弔慰金なら審問庁へ」
「いいえ」アニマは静かに首を振った。「これは、依頼です」
彼女がファイルを開くと、中から一枚の写真が滑り落ちた。現場写真だ。破壊された思考機関の残骸、飛び散った歯車、そして、その中央で無残な姿を晒すゼノン顧問の遺体。公式記録通りの、悲惨な事故現場。
「審問庁は、これを事故と断定しました。原因は、思考機関の経年劣化による論理回路の連鎖的ショート、と」
「それが妥当な判断だろう。俺の目にもそう見える」
「ですが、一つだけ」アニマは白い指で、写真の一点を指し示した。「ここに、焦げ付いた砂糖の香りがあった、と最初の現場記録にはありました」
ロゴスは目を細めた。砂糖。思考機関の燃料は高純度のエーテル蒸気だ。そこに砂糖が存在する理由はない。
「記録では、顧問が個人的に持ち込んでいた菓子類が、暴走の熱で燃えたのだろうと。ですが、ゼノン様は極度の糖分アレルギーで、執務室に砂糖を含むものを一切置かれませんでした」
沈黙が落ちた。雨音と、アニマの胸元から聞こえる微かな時計仕掛けの鼓動だけが、部屋の空気を震わせる。
ロゴスは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。彼は目を閉じる。意識を集中させると、世界の表層が薄皮のように剥がれ、その下に隠された論理の骨格が、青白い光の格子として浮かび上がってくる。これが彼の能力、「論理的鋭敏性」。かつては彼を星付きの異端審問官へと押し上げ、そして今では彼を社会の底辺に追いやった呪われた才能。
彼は、脳裏に焼き付けた現場写真を再構成する。歯車の配置、残骸の飛散角度、エーテルの残留濃度……すべてが「事故」という結論を指し示している。だが、アニマがもたらした「焦げ付いた砂糖の香り」という一つの情報。それを入力した瞬間、完璧に見えた論理の格子に、ピシリ、と一本の亀裂が走った。
それは、髪の毛よりも細く、しかし、決して見過ごすことのできない、明確な矛盾の光だった。
「……面白い」
ロゴスは振り返り、数年ぶりに、心の底からそう呟いた。彼の瞳には、錆びついていたはずの探求の光が再び灯っていた。
「その依頼、受けよう。ただし、報酬は真実だ。それ以外は何もいらん」
アニマのサファイアの瞳が、わずかに見開かれた。彼女の論理回路は、この男の行動原理を理解できずにいた。だが、彼女の共感コアは、彼の言葉の奥にある何かを確かに感じ取っていた。
「ありがとうございます」彼女は再び深く一礼した。「我が主の無念は、あなた様だけが晴らせると、私の回路が……いいえ、私の心が、そう告げておりました」
心が、と自動人形は言った。ロゴスは、その非論理的な言葉に、新たな亀裂の予兆を感じていた。この事件は、ただの殺人ではない。イゼルガルドの根幹を揺るがす、何か巨大な矛盾の始まりに過ぎないのかもしれない。
新作『コギト・エルゴ・モルテム』の第一話をお読みいただき、誠にありがとうございます。
歯車の都市イゼルガルドで始まったこの謎が、皆様の心に少しでも響きましたら幸いです。
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絡繰探偵と自動人形の少女の運命を、どうか見届けてください。




