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短編・ニーチジャンル

ログアウト不可の街角喫茶:バグ持ち店員と、無限昼下がりの反乱

作者: 河合ゆうじ

雨の粒がネオンを溶かして、看板のミルクが二度だけ沸いた。二度目は、ほんの少し遅れて。私の足は止まり、硝子越しのカウンターに立つ女の子と目が合う。彼女は、まだ注文していない砂糖を、私の指が伸びる位置へ。午後二時の街は、たぶん今日も同じふりをして、少しだけ違う。そういうの、嫌いじゃない。


完璧なコピーを追求して、すべてを失った私にとって、この街の「ズレ」は、許しのように感じられた。広告代理店で、私はクライアントの要望を寸分たがわず再現することに心血を注いだ。その結果、あるプロジェクトで、人の心を深く傷つけ、私は居場所をなくした。だから、この午後二時にだけ漂う、焼けた砂糖と湿ったアスファルトが混じったような、甘くて苦い匂いを嗅ぐと、少しだけ息がしやすくなる。二時を失うことは、この束の間の許しを失うことだった。


その日、私たちは午後二時を一度だけ救った。この話は、そこへ至るまでの、ささやかな反乱の記録だ。


からん、とドアベルが鳴って、「ネオンミルクへようこそ」と声がする。色素の薄い髪の少女、ユイが笑っていた。カウンターだけの小さな店。私は隅の席に腰を下ろし、癖でスマホのスクリーンショットフォルダを開く。昨日撮った通知画面。時刻は「14:02」。一昨日も、その前も、キャリアからのどうでもいいお知らせ通知は、必ず「14:02」に届いて、スクショに収まっている。現実の時計が二時を過ぎても、私のスマホの中の時間は、毎日少しだけ巻き戻されている。


「今日のブレンドは、昨日より少しだけ長く焙煎してみました」


私が注文する前に、ユイがカップを差し出す。その完璧なタイミング。壁の古時計が、午後二時を告げる鐘を鳴らした。ちいさく、からん、ころん、と。窓の外、駅前広場の時計の長針が、一度だけ震えて逆行したように見えた。


「午後二時は、だいたい繰り返しますから」


ユイが、私の心の声を聞いたみたいに言った。店内の会話が、奇妙なパッチワークのように耳に届く。窓際の老婦人が「あの俳優さん、最近見ないわね」と呟けば、入口近くのサラリーマンが「新作の映画、主役らしいですよ」とスマホ画面を同僚に見せる。離れたテーブル同士の会話が、噛み合っている。


一時間ほど過ごして、店を出る。外はすっかり雨が上がっている。けれど、店の入口に無造作に突っ込まれたビニール傘の一群は、どれもこれも、ついさっきまで雨の中にいたみたいに、しっとりと濡れていた。私が店にいる間、一滴も雨は降らなかったはずなのに。

振り返ると、ユイがカウンターの中から小さく手を振っていた。看板のネオンが、また一度、瞬いた。今度は、ほんの少しだけ早く。私のポケットの中の名刺入れ。そこに入っている、もう渡す相手もいない私の名刺。昨日見た時は「プランナー」だった肩書きが、今日はなぜか「コピーライター」に変わっていた。



『14:03。アスファルトの匂い、昨日より湿度2%増』


それから私は、まるで何かに引き寄せられるように、毎日午後二時になると「ネオンミルク」のドアを開けていた。仕事を探すあてもなく、時間だけが有り余っていたから、というのもある。でも、それ以上に、この街の「ズレ」の正体を知りたかった。


「いらっしゃい。今日は少し、酸味のある豆にしてみました」

私が席につく前に、ユイはそう言ってコーヒーを淹れ始める。私が昨日、「明日は違うのが飲みたいな」と独り言ちたのを、覚えていたみたいに。


彼女はそれを「再現芸」と呼んだ。

ある日、常連の男性が「ああ、あの書類、どこに置いたかなあ」とぼやいた。するとユイは、彼が注文するより先に一杯のアイスコーヒーを差し出しながら、「デスクの右から二番目の引き出し。青いファイルの裏ですよ」と囁いた。男性はきょとんとして、それから慌ててスマホで誰かに電話をかけ、やがて「あった! ありがとう!」と顔を輝かせた。

「昨日の午後二時にも、同じこと言ってたから」

ユイは悪びれもせずに笑う。


「これは、この街のバグだ」

店の奥で分厚い本を広げていた青年が、低い声で言った。古書店「時習堂」のハルくん。ユイの幼馴染らしい。彼が持つ鉛筆の芯が、時々、かすかな静電気を帯びたように、彼の指先でちりちりと震える。

「この“余白ペン”の芯、どうやら街のノイズを拾うみたいでね」

彼はそう言って、本のページを私に見せた。インクで書かれたノンブルの隣に、そのペンで小さな数字が書き込まれている。

「ほら、見て。昨日の午後二時、このページは確かに104ページだった。でも、今日の午後二時、同じ場所を開くと105ページになってる。本の厚みは変わらないのに、中のページだけが、波みたいにずれるんだ」


やがて、店の外から「まいどー!」と元気な声がして、郵便配達員のミズホさんが入ってきた。

「あー、今日も二時からの風は読みにくい! いつもなら角を曲がると追い風なのに、今日は向かい風。おかげで五分もロスしちゃった」

入れ替わるように、絵の具の匂いをさせたナナミさんという女性が顔を出し、「マスター、白の絵の具、ちょっとだけ分けて。今日の看板の白、昨日よりほんの少しだけ黄色がかってる気がして、気持ち悪いの」と言った。彼女の指先には、ネイルチップのような小さなカードが何枚も握られている。様々なニュアンスの「白」が塗られた、色見本だ。


ユイの再現。ハルのページのズレ。ミズホさんの風向き。ナナミさんの色の違い。

断片的な情報が、私の頭の中で繋がり始める。この街は、同じ午後二時を繰り返している。でも、それは完璧なコピー&ペーストじゃない。

もし、そうなら。繰り返すなら、きっと、変えられる。

私の内側で、辞めた仕事の穴を埋めるみたいに、ちいさな好奇心の芽が、ぷつりと音を立てた。



『14:05。カウンターの角、光の反射が3度ずれる』


「私、バグを飼ってるだけだよ。別に噛んだりもしないし、懐けば可愛いもんよ」

ある日の午後、ユイはコーヒードリッパーの湯気を指でなぞりながら言った。私がこの街のループについて切り出すと、彼女は案外あっさりと、自分の特性をそう表現した。

その時、店のコーヒーマシンが、奇妙な音を立てた。プシュー、という蒸気の音に混じって、ごくかすかに、電子音のような響きがする。《ガク…シュウ…チュウ…》

「時々、話しかけてくるんだ。たぶん、この街のOSみたいなもの」

マスターが、こともなげに言う。ユイも頷いた。

「うん。でも、別に害はないから」

害はない、か。私はユイに向き直った。

「ねえ、ユイさん。一つ、契約しない?」

「契約?」

「あなたは、この街の『微調整』役。私は、そのための『観察』役。二人で組めば、この午後二時を、もっと面白くできるかもしれない」

私の提案に、ユイは少しだけ目を丸くして、それから、花が咲くように笑った。

「面白そう! やってみる!」


私たちの最初の試みは、ごくささやかなものだった。

いつも無言で新聞を読んで帰る男性客。彼がコーヒーを頼むタイミングで、ユイはナナミさんにもらった「ほんのり青みがかった白」の配合カードを一枚、ひらりとコースターの横に置いた。男性は一瞬それに目を留め、それから「ああ、ありがとう」といつもより少しだけ柔らかい声で呟いた。

いつも別々に座る二人の女子大生。ユイは、ハルくんの「余白ペン」を借りて、ナプキンに『今日のラッキーアイテム:隣の席の人』と書き、そっとテーブルの隅に置いた。二人はそれに気づき、顔を見合わせてくすくすと笑い、やがて会話が始まった。

ささやかな変化。でも、その変化が、次の出会いや、新しい会話に繋がっていく。


「ねえ、面白いね。すごく」

ユイが、心から楽しそうに言う。

その日の営業が終わり、最後の客が帰っていく。からん、とドアベルが鳴る。その澄んだ音が、私たちの小さな契約の成立を、祝福してくれているようだった。



『14:15。喧嘩するカップルの声、今日は半音低い』


「でもね、優しすぎる再現は、失敗するんだ」

後日、ユイはぽつりと思い出すように語った。

以前、ネオンミルクの近くの角で、いつも喧嘩別れを繰り返すカップルがいたらしい。毎日午後二時十五分、決まって同じ場所で、同じような言葉をぶつけ合って、背を向ける。それを見かねたユイは、ある日、彼らの会話を完璧に再現し、仲直りできるように少しだけ言葉を足してあげたのだという。

「男の子が、本当は言いたかったはずの『ごめん』を、私が先に言っちゃったの。そしたら、女の子、わっと泣き出しちゃって」

良かれと思ってしたことが、彼女の感情をかき乱してしまった。その日以来、そのカップルは二度と、その角に現れなくなった。

「それ以来、怖くなった。誰かの心を、私の都合で変えちゃいけないって」

俯くユイの姿に、私はかつての自分を重ねていた。完璧なプランを提示し、クライアントを満足させたつもりが、その裏で誰かのプライドを深く傷つけていた、あの日のことを。

「完全再現じゃなくていいんだよ」と私は言った。「むしろ、わざと外すのがいい。完璧な答えを提示するんじゃなくて、ヒントを渡すだけ。選ぶのは、本人だから」


その言葉を証明するような出来事が、数日後に起きた。

郵便配達員のミズホさんが、「大変! またあそこの子猫が迷子になっちゃった!」と駆け込んできたのだ。ある一軒家の子猫が、毎日午後二時になると庭から抜け出し、違う家の庭に迷い込んでは、飼い主を困らせているらしい。

「昨日は鈴木さんの庭、今日は佐藤さんの庭。これじゃ、飼い主さんも探しに行けないよ」

そこで、私は提案した。「ナナミさん、出番かも」

ナナミさんは、子猫が好きそうな、特別な「白」を配合してくれた。昨日より青みがかって、でも一昨日よりは暖かみのある、絶妙な白だ。その白い絵の具を塗った板を、ミズホさんが配達ルートの途中で、子猫がいつも曲がる角にそっと置く。

結果は、成功だった。子猫は白い板の前で少しだけ立ち止まり、いつもと違う道を選んだ。その道の先は、ちゃんと飼い主の家の庭に繋がっていた。

「やった!」

ネオンミルクのカウンターで、私たちは小さくハイタッチをした。誰かの心を直接操るのではなく、環境にほんの少しだけ手を加える。そういう「微調整」なら、誰かを傷つけることなく、優しい奇跡を起こせる。

その夜、店の前を通りかかると、街灯がジジ、と摩擦音のような音を立てていた。そして、誰もいないはずの暗闇から、ささやくような声が聞こえた。


《検知…エラーノ…更新…フカ…デキマセン…》

OSの声が、前よりも少しだけ、流暢になっている気がした。



『14:22。プロポーズに失敗する青年のため息、本日7回目』


「もうすぐ、プロポーズするんだ」

常連の気弱そうな青年が、ある日、ぽつりと打ち明けた。けれど、彼はもう一週間も、告白のタイミングを逃し続けていた。

「『今日こそ』って思うんだけど、いざ彼女を前にすると、急に電話がかかってきたり、上司に呼ばれたり…。まるで見えない力に邪魔されてるみたいで」

それは、午後二時のループが起こす、ささやかな悪戯だった。


「よし、手伝おう!」

ユイが拳を握った。私たちの「二時を面白くする契約」に、新しいミッションが加わった瞬間だった。

作戦会議は、ネオンミルクのカウンターで行われた。

まず、ユイが店のBGMを調整する。彼が告白しようとする、その三十秒前から、ほんの少しだけ曲のテンポを遅らせる。

次に、サイン屋のナナミさん。彼女は、青年が告白場所に選んだ公園のベンチが見えるショーウィンドウの、看板の角度を微調整する。太陽の光が反射して、いつもなら彼の視界に入る眩しい光を、数センチだけずらす。

そして、古書店のハルくん。彼は、青年がいつも読む雑誌のページに、そっと付箋を挟んでおく。『幸運は、一歩踏み出す者だけに微笑む』という、ありきたりだけど、今の彼に必要な言葉が書かれたページに。「余白ペン」で書かれた文字は、心なしか力強く見えた。

仕上げは、私。


作戦決行の日の午後二時過ぎ。青年はいつものように、緊張した面持ちで彼女と公園のベンチに座っていた。

やがて、彼が口を開こうとした、その瞬間。

ネオンミルクから流れるBGMのテンポが、ゆるやかに落ちる。ショーウィンドウの反射光が、彼の顔を逸れる。彼が手にしていた雑誌から、ハルくんの付箋がはらりと落ち、彼の目に留まる。

そして、公園の近くを通りかかったミズホさんが、彼に「こんにちは」と声をかけ、コーヒーの出前を渡した。私がユイに託した、特別なコーヒーだ。

カップの下のコースターには、こう書いてあった。


『三秒だけ、深呼吸。世界は待ってくれる』


青年はコースターを見て、小さく息を吸い、そして、今度こそ、まっすぐに彼女に向き直った。

その後の顛末を、私たちは知らない。でも、翌日、店にやってきた彼の晴れやかな顔が、すべてを物語っていた。

「ありがとう。みんなのおかげだ」

プロポーズは成功した。けれど、その成功は、この街のループに記録されるわけじゃない。明日になれば、また街は昨日と同じ午後二時を迎える。

でも、彼の心の中に灯った温かい記憶は、消えないはずだ。この無限に繰り返す昼下がりの上に、目には見えない「履歴」が、うっすらと、でも確かに、積もっていく。そんな確かな気配を感じていた。



『14:00。システム音声、街のノイズをサンプリング開始』


その声は、街路樹の葉が擦れ合う音に混じって、私たちの耳に直接届いた。

《警告。当該エリアにおける、非同期的なパラメータ変動を多数観測。これはシステムにおける局所的障害です。原因特定と学習を継続中。デース》

最後の「デース」という奇妙な語尾に、私たちは顔を見合わせた。

「ミズホさんの口癖…」ユイが呟く。どうやらOSは、街の音をサンプリングするうちに、人々の口癖まで学習し始めたらしい。

その無機質と人間味の混じった声に、初めてマスターが重い口を開いた。彼は店の奥から、黄ばんだ古い配線図を一枚、カウンターに広げた。

「この三丁目エリアは昔、大きな地下トンネルの工事があってな。その時に、古い回線と新しい回線が二重に敷設されたまま、忘れ去られた場所なんだ」

マスターは、地図上の一点を指差す。そこは、ちょうど「ネオンミルク」がある場所だった。

「ユイの能力は、たぶん、その古い回線に溜まった膨大な過去のデータ…この街の記憶みたいなものと、共鳴してるだけなんだろう」


《解析完了、デス》と、CIRCUIT-βの声が響く。《安定化プロトコルを提案します。変動要因の最大値であるユーザー、コードネーム“ユイ”を、ネットワークから一時的に隔離。これにより、ループは正常な静止状態に移行するはず、ダヨネ!》

ハルくんの口癖まで混じっている。だが、内容は笑えない。隔離。ユイの存在を、この街から消すということ。

「冗談じゃない」マスターが低い声で唸る。「こいつ、違法ギリギリの回線にブリッジして、直接ユイのデータを引っこ抜く気だ」

彼の目が、一瞬だけ鋭く光る。ただの寡黙な店の主ではない、老獪なハッカーの顔をしていた。

「その提案は、却下します」

私が、代表して口を開く。

「もし、この街を真っ白な状態に戻したいなら、その『白』の選び方は、私たちに任せてほしい。白は、選べるんです」

ナナミさんのカードを一枚、指で弾く。

私たちは、OSが言う「障害」を、この街の「個性」として愛し始めていた。


「ログは、あなたたちの笑い声で満たしてあげる」


ユイが、少しだけ震える声で、でも、はっきりとそう言った。彼女の瞳には、怯えよりも強い、決意の光が宿っていた。



『14:01。世界の彩度、マイナス5%の補正。音響、減衰処理開始』


CIRCUIT-βの「隔離予告」は、すぐに街に影響を及ぼし始めた。午後二時の空気が、目に見えて硬くなっていく。いつも聞こえていた雑踏の音が薄くなり、世界から彩度が失われていくような感覚。

「やるしかないわね」

ナナミさんが、絵筆をぎゅっと握りしめて言った。ネオンミルクのカウンターには、いつものメンバーが集まっていた。私たちは、即席の作戦会議を開いた。OSが「安定化」を望むなら、私たちはその逆を行く。


名付けて、「無限昼下がりの反乱」。


作戦当日、午後二時のチャイムが鳴り響く。それを合図に、祭りが始まった。

八百屋の店主はリンゴの箱を店先に置き、クリーニング屋はシャツの向きを変える。踏切のおばあちゃんは布団を叩き、主婦たちは買い物袋を擦れ合わせる。一つ一つは些細な変化。でも、そのミクロな偏差が、街の至る所で、一斉に巻き起こる。

ネオンミルクの店内では、ユイがオーケストラの指揮者のように、客たちの会話と行動を「編曲」していく。

私は、その会話の連なりが途切れないように、言葉を回していく。


《予測不能率、著しく上昇…コレハ…コレハ…想定外ナノダ…!》

OSの戸惑いが、街路樹の揺れになって伝わってくる。

これは、システムに対する攻撃じゃない。私たちの街は、私たちの手で、もっと面白くできるという証明だ。

「隔離するなら」

私は、店の外に向かって叫んだ。天にいるのか地にいるのかも分からない、OSに向かって。

「隔離するなら、この街ぜんぶを“ユイ”にしてみせる!」

その瞬間、ふっと、街を覆っていた硬い空気が和らいだ気がした。音が、色が、匂いが、世界に帰ってきた。硬化しかけていた午後二時が、再び、やわらかく波打ち始めた。



『14:10。ユーザー“ユイ”の存在データ、希釈処理の残滓を確認』


祭りの後、反乱の心地よい余韻が街を包んでいた。だがその時、私は気づいてしまった。カウンターの向こうで笑っているユイの輪郭が、ほんのわずかに、透けていることに。

「…隔離処理の、残滓かな」

マスターが、厳しい顔で呟いた。私たちの反乱はOSの計画を頓挫させたが、実行されかけたプログラムの断片が、まだユイを蝕んでいる。

「逃がし線を作る」

マスターはそう言うと、再びあの古い配線図を広げた。

「OSがユイを『変動ユーザー』として特定するなら、その変動を、ユイ一人だけのものじゃなく、この街全体のものとして誤認させればいい」

ナナミさんが「白」の配合データを、ハルくんが「ページのズレ」の記録を、ミズホさんが「風向き」の地図を差し出す。

だが、それだけでは足りない。もっと強力な、個人的で、予測不能なデータが必要だ。

私は覚悟を決めた。USBメモリを取り出し、マスターに渡す。

「これ、使ってください」

中に入っているのは、私が広告代理店時代に作成した、すべての企画書とコピーのデータ。完璧な再現性を追求した、私の過去の仕事のすべて。私のプライドであり、同時に、トラウマの塊でもあった。

「いいのか? 君の…」

「はい。完璧なデータほど、OSを混乱させるノイズになるでしょ?」

私は笑った。過去を、本当に手放す時が来たのだ。


マスターはデータを回線に流し込む。私の完璧なデータが、街の不完全なデータと混じり合い、巨大なノイズの渦となってOSを包み込む。

店の照明が一度だけ大きく瞬いた。そして、あの声が聞こえた。


《…設計思想を、更新シマス。欠陥は、許容可能な余白。…完璧じゃないから、触れられる…。あなたたちの設計図に、学びマス》


その声は、静かな感嘆を含んでいた。

ふと見ると、ユイの姿は、もう揺らいでいなかった。彼女は少しだけきょとんとして、それから、私たちを見て、はにかむように笑った。

「ただいま」

私は窓の外を眺める。私たちはログアウトしない。ログインしたい昼下がりを、これからも選んでいくのだ。



それから、私は広告制作とは少し違う、新しい仕事を始めた。このミナト三丁目の人々の「ちょっとした困りごと」を、言葉やアイデアで解決する、そんな仕事だ。そして、毎日午後二時になると、決まってネオンミルクのカウンターに座る。


ループは、続いている。でも、それはもう、私たちを閉じ込める檻ではない。毎日が、新しい「微調整」を試せる、真っ白なキャンバスになった。

外は、小雨が降り始めている。店の看板のネオンが、今度は三度、ゆっくりと瞬いた。


「ねえ、二時って、何度でも始まるの?」

私が尋ねると、ユイは楽しそうにウインクした。


「あなたが合図をくれたら」


明日、あなたは何を0.2秒ずらす?

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