『孵化〜その掌で〜』【Daddy~圭亮~】⑤
真理愛の入院中に、圭亮は一人暮らしのマンションを引き払い実家に戻った。
通勤は少し不便にはなるけれど、もともと通えない距離でも何でもないのだ。
遠方の大学に進学したのを機に家を出て、就職して地元に戻ったときにも実家に住むつもりはなかった。
親の方もそれが当然だと思っていたようだ。
もし圭亮がずっと同じ部屋に住んでいなければ、あの手紙は宛先不明で配達されなかっただろう。
その場合、真理愛の存在を知ることもなかったのかもしれない。
運命の分かれ道というのは、ごく平凡な人間にも待ち受けているのだ、と圭亮は改めて痛感した。
「ただいま」
退院した真理愛を引き取って、実家で両親と暮らし始めて約一か月。なんとか四人の生活にも慣れてきたところだった。
「圭亮! おかえり、ちょっとこっち! こっち来て、早く!」
玄関ドアを開けた圭亮に、待ち構えていたように良枝が捲し立てた。何時になく興奮した様子の母に、圭亮は慌てる。
「な、何? 真理愛に何か──」
「いいから来て!」
引き摺られるようにリビングルームに足を踏み入れた圭亮の目に、真っ先に飛び込んできたのは父の姿だった。
「ほーら、真理愛ちゃん。お星さまキラキラ!」
真理愛と床に広げた絵本を挟んで向き合って座り、顔の横で掌を揺らしている。
そして──。
政男の真似なのか両手を半端に上げている真理愛の顔に浮かぶ、少しぎこちない、しかし確かな笑み。
父親の、祖父バカ全開の滑稽とも思える姿に呆れる暇もなかった。それどころではない。正直なところ、意識の隅にもなかった。
「真理愛が、笑って、る……?」
「そうなの! あの絵本、お父さんが買って来たんだけど、気に入ったみたいで。じーっと見てるから、星の絵だからってお父さんが手振りしたら、真理愛ちゃんが!」
「ああ、おかえり圭亮。真理愛ちゃん、パパだよ」
その声が合図のように、真理愛が圭亮に顔を向けた。
「圭亮! 何怖い顔してんだ。笑え!」
政男の小声での叱責に、咄嗟に引き攣った笑顔を作った圭亮に、真理愛もまたあまり上手くない笑みを浮かべる。
──それでも、可愛い。
「……真理愛」
押し寄せた複雑な感情に、それ以上は言葉にならない状態の圭亮を見やり、政男が真理愛に何か囁いてキッチンに向かった。
飲み物を入れたコップを持って戻って来た政男に、真理愛が手を伸ばす。
「真理愛ちゃん、ほら牛乳。零さないようにな」
「じーじ! エプロン忘れないで」
良枝がすかさず注意するのに、政男は反対の手に持っていたエプロンを示して言い返す。
「じーじと呼んでいいのは真理愛ちゃんだけだ。ばーさんにじーさんと呼ばれる覚えはないわ」
「だって、『お父さん』だと真理愛ちゃんが覚えるのに困るじゃない。だから私は『じーじ』って呼ぶわよ!」
「父さん、っと、『じーじ』の負けだな」
軽口を叩く圭亮に、政男は床の絵本を拾い上げて渡して来た。
「これ。寝る前に読んでやれ。読み聞かせは大事らしいぞ」
「わかった。ありがとう。……星の絵本? 絵が綺麗だな」
ありがたく受け取って頷き、ぱらぱらと捲ってみる。
「こういうのは全然詳しくないから、本屋さんで聞いたんだ。小さな子には、見てわかりやすいのがいいだろうって」
「そうだよな~」
寝るための支度をすべて済ませた真理愛の手を引いて、ベッドに向かう。
今は、圭亮が高校時代まで使っていた自室が、二人の寝室になっていた。真理愛がもっと大きくなったら、個室を与えられるだけの余裕もある。物置同然になっている空き部屋があるのだ。まだまだ先の話になるけれど。
圭亮は、繋いだ手とは反対側に持つ絵本を真理愛が見ているのに気づいた。
「ん? うん。真理愛、この絵本好きなんだよな? ねんねするまでパパが読んであげるよ」
その言葉に、真理愛が圭亮の顔を見上げて笑った。今日見た中で、一番自然な、笑顔。
「……真理愛」
圭亮の胸にあるこの感情の名は、なんだろう。