『孵化〜その掌で〜』【Daddy~圭亮~】④
「圭亮。あの子が退院したら、一緒に実家に帰って来なさい」
「父さん、でも──」
「……あの子はお前ひとりで育てるのは無理だ。たとえ空きがあったって、すぐに保育園に入れられる状態じゃないと思う。おそらく特別なケアがいる。ただでさえ仕事をしながらの単身での子育ては大変なのに、今のお前にそこまでできるわけないだろう」
政男は六十歳になる年度末だったこの三月に定年退職しているが、在職中は福祉分野にも携わっていた。
福祉のプロとまでは言えないが、圭亮とは比べ物にならない知識と経験は有している筈だ。
「そうよ、圭亮。昼間はうちで私とお父さんが面倒みるから。あなたは一緒に居る時間だけ大事にしてあげて」
「父さん、母さん。親不孝者でごめん」
項垂れる圭亮に、政男は何でもない風に告げた。
「何言ってるんだ。絶対無理だと諦めてた孫ができたんだぞ。むしろ喜ぶところじゃないか?」
「そうよねぇ。圭亮は結婚もしないと思ってたから」
両親が孫を望んでいたらしいことなど、圭亮は今の今まで知らなかった。
匂わされた覚えも一切ない。
確固とした独身主義というわけではないが、圭亮には二十九歳になる今まで結婚願望はまったくなかった。
本音を言えば、子どもも特に好きなわけではない。欲しいと思ったこともなかったのだ。
これまで交際してきた数人の女性とも、結婚の話題はさり気なく避けるようにしていた。
相手を縛る気もないが、何より縛られたくなかった。責任を負わない、自由な立場で彷徨っていたかった。
いざ言葉にしてみれば、三十目前だというのに恥ずかしい限りのいい加減さではあるが。
その空気を読んでか、あるいは単に魅力がないと見限られたからか、圭亮は常に振られる方だったのだ。
そういえば、今日子も向こうから離れて行った。
彼女と付き合っていたのは、就職した年の夏から翌春に掛けてだった。
二年目に入った頃から会う間隔も空いて行ったのだが、仕事が楽しく、また忙しくなり追うこともしなかった。
特にこれという、きっかけになった出来事はなかったように思う。
彼女からの連絡が途絶えがちになり、会う頻度が下がって行ったのは当然感じていた。だからと言ってどうしても繋ぎ止めたいと努力することもせず、なんとなくそのまま疎遠になって自然消滅してしまった、気が。
別れたときの記憶さえ曖昧な自分に愕然とする。娘、の母だった彼女に対する、あまりにも薄い想いに。
……今日子が妊娠を知ったのはいつだったのか。何故、黙って一人で産んだのだろう。
そこでようやく思い至る。
もしあの頃、子どもができたと打ち明けられていたら? 圭亮はまだ二十三、四だった。「結婚しよう」と、「産んでくれ」と迷いなく告げる自信などなかった。
いや、今でさえ即答できる気がしない。
今日子がそこまで見通していたのかはわからない。別れたあとで気がついて、もう産むしかない状態だったのかもしれない。
それでも彼女にとって圭亮は、我が子の父親として信頼するに足る存在だとは見做されていなかったのではないのか。
──最後の最期になるまで。