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入れかわり

「アーニャ、泣かないで」

 私はイーサンの声を聞いて目を開けた。今、アーニャと聞こえた。


 ここは、伯爵家の庭園の裏側だ。あまり人が来ないところだ。庭師もあまり来ない。私の目の前にはイーサンが立っていた。爵位を持っているイーサンだ。私の夫のイーサンだ。私の記憶の中にあるイーサンより少し若い。結婚する前か結婚直後。その頃のイーサンに見える。


 私は自分の頬に涙が流れ、みっともなく鼻水も出ているのに気づいた。


「そんなに泣かないで。アーニャ」


 イーサンは私を覗き込んでそう言った。


 ――アーニャ?


 ――私はあなたの妻のキャロラインよ。

 

 私はなぜ自分が泣いているのかも分からなかった。記憶を探っても、過去にイーサンの前でこれほど泣いたことはなかったと思う。


 わたしはハンカチーフで涙と鼻水をそっと拭いた。涙にかすんだ目に、ハンカチーフの刺繍が映った。Aと刺繍されている。これはアーニャがいつも持っているハンカチーフにとてもよく似ている。


 ――なぜ、私がこれを自分の手に持っているのだろう。


 私は周囲を見まわした。でも、誰もイーサンの他には誰もいなかった。

 

 ――こんな寂しいところで私とイーサンは何をしているのだろう。


「これはもう決まってしまったことなんだ。僕の意思じゃない。僕にはどうしようも出来ないんだよ。僕の気持ちは君と同じだ」

 

 イーサンは私の頬の涙をそっと拭った。そして、私を抱き寄せてぎゅっと抱きしめた。


 ――どういうこと?

 

 私は今、どういう状況なのかさっぱり分からなかった。私はアーニャのハンカチーフを持っている。イーサンは私をアーニャと呼んだ。アーニャはここにはいない。ここにいるのは私とイーサンだけだ。


 ――もしかして、もしかして。よく考えるのよ、キャロライン。私はさっき馬車に轢かれて多分死んだわ。今は、もしかすると私がアーニャなのだろうか。


 私の身体に衝撃が走り、身震いした。


 ――なんでっ?


 私がパニックになりかけたその時、私を抱きしめていたイーサンは、私の顔を上向きにして私に口付けをした。今まで、イーサンは私に一度もそんな口付けをしたことはなかった。あまりに情熱的な口付けで、私は驚きのあまりに身動きが取れなかった。



 情熱的な口付けで息が出来ない程だ。イーサンと私自身の荒ぶる息に、私は倒れてしまいそうな衝撃を受けていた。


 ――何がどうなっているの!?


 イーサンは私のドレスのデザインを眺めた。


 私たちはいつも胸元が大きく開いたドレスを着ている。だってそういうデザインが流行りなのだから。アーニャのドレスだってそう。私とアーニャはお互いのドレスのデザインについて何時間でも楽しく話せた。でも、婚約時代も結婚生活の間も、実際に私が身につけているドレスのデザインがそういう意味で役に立つことは皆無だった。そもそもイーサンは、私の体にそういう意味で触れたことが今まで一度もない。ほとんどの場合、私が存在していないかのように視線すら送らない。


 エスコートされる時に背中に軽く手を添える、人目がある、衆人の目に晒されて必要のある時に腕を組む、ものを受け渡しする時にすっと手がかすめる。それだけが今までのイーサンと私のかかわりだった。


 頬にキスをされたのは結婚式の時の一度だけだ。口には一度もない。私は驚きのあまりにみじろぎ一つ出来なかった。よく考えると私はイーサンの妻なので何の問題もない。でも今、イーサンがかすれた声でささやくのは、アーニャの名だ。


 イーサンは意を決したというように私の目を見つめてささやいた。


「この手紙は僕が持っていてはならない。君に返すよ」

 イーサンの瞳が涙で潤み、さざなみのように涙が目尻を震わせている。初めて見るイーサンの表情だ。


 イーサンは胸ポケットから手紙のようなものを取り出して、私に渡した。


「手紙?」

「そう、君が僕にくれた手紙だ。これを僕が持っていてはならないと思う。手紙は読んだ。君の気持ちは分かった。でも、この手紙は返すよ」


 私はイーサンから手渡された『手紙』というものを見つめた。私の手の中にあるものは、Aのイニシャルが刺繍された、レースの縁取りが美しいハンカチーフ。それと小さくAとだけ書かれた封筒。封筒の中には手紙が入っているのだろう。


 アーニャが手紙を書いてイーサンに渡した?


 その時、私たち二人はビクリとした。

 ハッとしてお互いに顔を見合わせてあたりを見まわした。私たち二人のものではない声が唐突に聞こえて、私たちがいる場所に近づいてきた。


 ――誰かがくるわっ!


「キャロラインお嬢様っ!」

「マリア、待っていて。イーサンとアーニャがお庭に出るのが見えたのだけれど、探してくるから待っていて」


「早くお戻りにならなければ。今日はお父様に大事な話があると言われておりましたよ。」


 ――キャロライン………………。

 ――本物の私とマリアがここまでやって来るのだわ!



「アーニャ。手紙はアーニャが持っていて。君の気持ちは分かったから。じゃあ、ここで僕はお別れだ」

 

 イーサンは慌てたようにそう言うと、走るように音も立てずに木々の向こうに去った。


 私は握りしめたAのイニシャルのハンカチーフで手紙を包んで、その場から離れた。この場所は伯爵家の庭なので知ってはいる。記憶を頼りに私はメインの小道に合流できる場所に急いだ。薔薇のトンネルのような小道があったはずだ。そこに向かおう。


 マリアから声をかけられたのはその時だ。私はゆっくりと振り返った。


「あら、アーニャお嬢様。アーニャお嬢様を先ほどからキャロラインお嬢様がお探しになっていましたわ」


「そうなの。悪いことをしたわ。ちょっと気分がすぐれないので、私は先に帰ると伝えてもらえないかしら」

「まあ、大丈夫でございますか?わかりました。キャロラインお嬢様にそうお伝えしますわ。お気をつけて」


 私はマリアにうなずくと、足早に伯爵家の美しい薔薇の小道を歩いた。私が女主人だった伯爵家の小道だ。一番早く外に出ることができる道を私は知っている。


 なんとか裏道から敷地の外に出ることができた。普段は使用人しか使っていない道だ。アーニャは友人としてよく私と遊びに来ていたので、使用人の誰もがアーニャである私を見かけても、咎めたりはしなかった。


 敷地の外は馬車道といっても、やはり伯爵家の森につながる私道といってもいいような道だ。私ははやる呼吸を抑えて、ハンカチーフの中の手紙を取り出した。手が震えてしまって、封筒の中からなかなか手紙を取り出せない。


 倒れてしまいそうな動揺を抑えきれない。でも、手紙を見ずに倒れてしまうわけにはいかない。何がなんでも、私はアーニャの書いた手紙を読まなければならない。


 そばに大きな木があった。そこまで歩いて近づき、木の根元にそのまま座った。足元には可愛らしい花が咲いていたが、今の私の気分は花を愛でる余裕などまったくなかった。大きく息を吐いた。意を決して手紙を広げて読み始めた。



誤字報告本当にありがとうございます。修正いたしました。

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