白沢蒼依
私は、半眼で眼鏡の青年を見下ろした。
会話を続けようか、それとも無視して風呂に行こうか一瞬悩んだけれど、これが兄かと思うと、とても耐えきれない。こんな愚か者が、私の兄。
ロストワン家の私の兄は、それはそれは良くできた、素晴らしいお兄様だった。
これでは、果林が死にたくなる気持ちも分かるわね。
こんな狭い家で、こんな愚かな兄と暮らしているのだもの。耐えられないわよね。
「お兄様、あなた、お名前は?」
「前から馬鹿だと思っていたが、とうとう頭がおかしくなったのか? そんな体型の上に、頭まで悪いとか、本当にお前は僕の妹なのか。不細工」
「私は、名前を聞いているのです。それ以外の言葉は不要。答えなさい」
愚かな兄は、質問の意味さえ理解できないのかしら。
ソファから立ち上がるとわざわざ私の正面までやってきて、私を罵ってくる青年に、私は飽きれてやれやれと肩を竦めた。
「どういうつもりだ、果林」
「あなたのような挨拶の前に罵倒をしてくるような愚か者を、兄と呼びたくないのよ。だから名前を教えろと言っているの。お分かり?」
「ふざけるな! 馬鹿で不細工のくせに、偉そうに」
「名前を教えるつもりがないのなら、今日からあなたのことは、眼鏡と呼びましょう。よくよく観察してみたのだけれど、あなたの身体的特徴は、眼鏡ぐらいしかないわ。私のことを身体特徴で呼ぶあなたは、私からも身体的特徴で呼ばれても文句はないわね」
果林の兄こと、眼鏡は、私を気味の悪いものを見るような目で見下ろした。
「お前……! 本当に頭がおかしくなったのか、果林。不細工で底辺の癖に。良いか、絶対学校では話しかけるなよ。お前が妹だと知られるなんて、嫌だからな」
「あら、それは良かったわ。私も眼鏡のあなたのことを、兄だと思いたくないもの。兄とはどういう存在かを調べなおして、でなおしてらっしゃい」
これ以上の会話は不要だ。
愚か者と話をしていても仕方ない。私はお風呂に入りたいので、邪魔をしないで欲しい。
それにしても、果林の兄とは、どうしようもない男ね。
『……お兄ちゃんの名前は、蒼依。私と違って、とても優秀で、成績も良くて、生徒会をしています』
記憶を頼りにお風呂場に向かう私に、果林が言った。
果林の声は震えている。よほどさっきの眼鏡が怖いのだろう。理解できないわね。
リビングを抜けて、お風呂場の脱衣所に入ると、私は一人になった。
これは囚人用の独房なのかしらと思えるぐらいに狭い脱衣所には、大きな鏡がある。
私は今着ている服をぽいぽい脱ぎ捨てて、脱衣所の床に置いてある古びたカゴに入れた。
カゴ、洗濯機、タオル、洗面所。
洗面所の蛇口からは、水が出る。歯ブラシとドライヤーが、洗面所の戸棚の中に入っている。
「知らない道具でも、使い方は分かるわね」
鏡にうつったふくよかな少女を眺めながら、私は呟いた。
もちもちした肌と、ぷるぷるした顎。
胸は大きい。お腹もお尻も大きい。太腿もむちむちだ。
「ふくよかでも、身だしなみに気をつかえば良いのに。あなたはそれさえしないのね、果林」
頭が悪い。不細工。運動もできない。
良いところが、一つもない。
お前が妹なんて、恥ずかしい。
――何度言われたか、分からない。
ふと、そんな記憶が脳裏をよぎった。果林のものだろう。
私は鏡の中の少女を見つめながら、溜息をついた。
「……罵倒されるのが嫌なら、あなたが変われば良いのに」
結局、あなたは何もしていないのではないかしら、果林。
死ぬことを選ぶ前に、罵倒されないように努力をするべきだったのよ。
私なら、そうする。
「でも……」
幼い頃から罵倒され続けたら、努力をしようという心さえ、折れてしまうものなのかしら。
私にとって、蒼依は他人だ。
だからどうとも思わないのだけれど――例えば私が、実のお兄様から罵倒をされつづけたとしたら。
私のお兄様は愚か者ではないので、そんなことはしないのだけれど。
とりあえず、お風呂に入ってさっぱりしよう。




