兄は愚か、妹は脆弱
サリエルは、私の(私のではなく果林の、だけれど、ややこしいので私のと表現しよう。不本意だけれど)悪趣味で見たこともないぐらい小さいベッドに座って、何もない空間から四角くて薄っぺらい箱のようなものを取り出した。
何もない空間からにょっきりと黒い箱がはえてくる光景というのは不思議なものだけれど、サリエルは天使なので不思議な力の一つや二ついくらでも使えるのだろう。
「シャーロット、俺は君に協力しよう。君のために特別なダイエットメニューを開発することにする」
サリエルは四角い箱――ノートパソコンを開くと、カチャカチャとキーボードを打って何かを調べ出した。
私は床に散らばった服をどうしようかと思案したあと、新しい下着と衣服を両手に抱えた。
「任せたわ、サリー。私はダイエットの専門家ではないし、この国の食べ物や風習をしらない。知識は大切よ。そのあたりはあなたに任せるわ」
「諜報員として」
「ええ。凄腕の諜報員として」
サリエルはほくほくと、表情を綻ばせている。
といってもあまり表情が変わるわけではないけれど、サリエルの周りにお花が飛んでいる気がする。
天使というのは馬鹿なのかもしれないけれど、同時にとても素直らしい。
御しやすいわね。助かるわ。
「それでは、サリー。私はお風呂に入ってくるわね。この小さい家にも、あるのでしょう、お風呂。あるわよね、お風呂」
たいして動いていないのに、汗で体がべどついている気がする。
それにぼさぼさの髪も洗って綺麗にしたい。
洗って乾かして、梳かせば、もうすこしなんとかなる筈だ。
「いってらっしゃい、シャーロット。問題を起こさないように」
「問題なんて起こさないわよ。果林として生活すれば良いのでしょう、しばらくは。私がこの体を完璧な造形美へと変化させたら、果林も死にたいとは思わなくなるはずよ」
私は着替えを持ったまま、肩を竦めた。
それは本来なら、果林が自分自身で努力しなければいけないことだ。
だが、努力ができず死のうとしたところに、私が呼ばれた。
それならば、私も私の役割を果たそう。
どのみちシャーロット・ロストワンはもう死んでしまったのだし、メンタル最弱の白沢果林を、私の力で一人前の淑女に育て上げるのが、私の最後の使命、というやつなのだろう。
私は部屋を出た。
どういうわけか、私の中の何かが、部屋の外に出ることにたいして拒否感を覚えているようだ。
ざわざわと、不快感が背中や足の表面を這いまわっている気がする。
これは――果林が、こわいと、思っているのかしら。
(しっかりなさい、果林。ただ部屋から出ただけでしょう。部屋から出ただけで暴漢に襲われる可能性があるほどに、あなたの国の治安は悪いのかしら)
だとしたら由々しきことだ。
果林は暴漢の住処で生活をしているということになる。
扉を開けると、これは動物の小屋かなにかかしら、というほどに狭い通路があった。
通路の先には階段がある。
通路には扉が二つ。これまた小さい。扉の前に、扉を開閉する役割の使用人の存在さえない。
暴漢の住処で暮らしているとしたら、使用人などは勿論いないだろうけれど。
「……人の気配はしないわね」
扉を開けただけで誰かに襲われるほどに危険な場所なら、サリエルも私を一人で送り出したりはしないだろう。
お風呂は――確か、一階にあるわね。
果林の朧げな記憶を頼りに、私は階段を降りた。
それにしても狭い。階段も狭い。ふくよかな私の体がはまりこんで、身動きがとれなくなってしまうのではと思う程に、あまりにも窮屈だ。
階段をなんとか降りると(階段を降りるだけではあはあ息切れしているので、本当になんとか降りた)そこには恐らく、リビングと思しき場所があった。
リビングには、ソファセットがある。それから、キッチンと、ダイニングテーブル。
悪趣味な花柄のソファに、青年が座っていた。
(誰なの? ちょっと、果林。誰なの、これは。暴漢なの?)
暴漢にしては、ひ弱そうである。
フチなしの眼鏡に、白い肌。黒い髪は、果林と違って艶々で、長い前髪が額の中央で分けられている。
顔立ちは、それなりに整っているのかもしれない。
といっても、私は、皇太子セルジュ様の婚約者だった。
セルジュ様はそれはそれは美しかったし、セルジュ様の側近の方々も、私の家族も皆美形揃い。
あとはまぁ、サリエルも、綺麗な顔をしている。
それなので、その青年は顔立ちはまずまずだけれど、ただそれだけだ。
「……お前が部屋の外に出てくるなんて、珍しいこともあるな」
青年が、ふん、と鼻で私を笑いながら、小馬鹿にしたように言った。
サリエルも眼鏡をかけているけれど、青年も眼鏡をかけている。
眼鏡率が高いわね。
そんなことを思いながら、私は青年の顔をじろじろと観察した。誰なの。暴漢?
『兄です』
まぁ。お兄様なのね。
先に言いなさいよ、果林。
でも、きちんと言えて偉いわね。
私は時々言葉を話す妖精さんであるところの果林を褒めた。
蚊ぐらい気の弱い果林なのだから、話ができただけで結構なことだ。
「ごきげんよう、お兄様」
私は挨拶をした。いつもどおりの挨拶である。
公爵家でも、兄とすれ違う時はきちんと挨拶をしていた。
「……気持ち悪い、やめろ」
「まぁ」
青年は、腕をさすりながらとても嫌そうに顔をしかめた。
私は目を見開いた。開いた口がふさがらない。果林は蚊ぐらい精神が弱いけれど、そのお兄様とやらは、礼儀も知らない愚か者だわ。
私の中の果林が、何故か怯えている。
礼儀知らずの愚か者に怯える意味が分からない。
挨拶もできない人間は、お座りとお手がきちんとできるという意味においては、犬にも劣るのである。




