守谷ルイ(もりやるい)
燦々と輝く太陽と、木漏れ日が心地よい。
そんな絶好のお散歩日和の中、私のはぁはぁという息遣いがすごい。
「食べて運動、即運動、これぞ美と健康の秘訣……!」
サラダと魚肉ソーセージで満腹ではないけれどそれなりに満たされた私は、できれば即お昼寝したい気持ちを叱咤して、学園内を早足で歩いている。
制服のまま運動するのは美意識に反するので、外に出る前にさっさと体操着なるものに着替えてきた。
昼休憩の終わりまではまだ時間がある。一分一秒でも無駄にしないのがシャーロット・ロストワンである私。
「せいぜい優雅にヒレカツ定食を食べているが良いわ、サリー! さっさとダイエットを成功させて、果林に彼氏の一人や二人作ってあげるわよ。あの子が死にたくなくなれば、晴れて私はお役御免。この体から去れるというものだわ」
果林が死にたいと願ったのはおそらく環境のせいだろうから、痩せるだけで万事解決するとは思えないけれど。
それでも美しさは自信に繋がる。
「どんな見た目であっても、他者に臆する必要なんて一つもないのだけれど、あなたの場合は……それはできないようだし」
私の声は、きっと果林に聞こえている。
そして私の息切れと、全身の筋肉痛も伝わっているはず。
筋肉痛と、軽いジョギングでも起こる片腹の痛さ。
これぞ、生きているという感じ。
私はゆっくりと歩く速度を落として、足を止めた。
空を見上げると、悠々と枝を伸ばした木々に生い茂る葉が、風にさわさわと揺れている。
学園の敷地はかなり広くて、整然と並んで植えられている木々の隙間から、木漏れ日が落ちている。
「この国は、命の危険はないけれど、あなたの世界は掃き溜めのようだわ」
果林を小馬鹿にする兄という名前の屑と。
浮気をする父親と。
果林を愛しているようでいて、自分のことしか考えていないように見える母親と。
それから、果林を敵視するクラスメイト。
その中で、一人ぼっち。
「しばらく私に任せて、ゆっくり休みなさい。安心なさい、私は子供と小動物には優しいのよ」
ふう、と、息をついた。
額に浮かんだ汗を拭う。
明日からタオルが必要ね。
一ヶ月もあれば完璧な美貌を手に入れることができるはず。そうしたら、私は役目を終えることができる。
「私は私の役目を果たすわ。ずっとそうして生きてきたもの。今までも、これからも」
私の在り方は、セルジュ様に咎められて、婚約を白紙に戻されてしまうようなものだったけれど。
でも自分が間違っているとは思わない。
「よし!」
私は気合を入れた。
感傷に浸っている時間が勿体ない。この一歩は小さな一歩だけれど、一歩進めばカロリーを消費することができるのだから。
「昼休みなのに運動をしているとか、偉いぞ!」
再びジョギングという名の競歩を始めた私の後ろから、軽快な足音が近づいてくる。
背後から走ってきて私の横に並んだのは、見事な上腕筋を曝け出した、日に焼けた肌の眩しい筋肉質の青年だった。
男性にしては長い黒髪を一つに縛っていて、縛った黒髪の下は短く刈り込まれている。
黒いタンクトップに浮き出た大胸筋が目に眩しい。
ハーフパンツから伸びる足も、しっかりと太くて逞しい。
私の国にもこのような体格の方々は多くいた。騎士と呼ばれる者たちである。
青年は、私の国にいた騎士に勝るとも劣らない体格をしている。
「蒼依の妹の、果林だったか、確か」
「……そうです、けど……」
呼吸が乱れているので、話しかけないでほしいのだけれど。
ぜえぜえひいひいしている私と違って、青年は息一つ乱していない。
「運動部に興味がないか?」
青年は良い笑顔で言った。
魚肉ソーセージ先輩といい、初対面で名前を名乗るよりも前に運動部に勧誘してくるこの男といい、この国には変わった男性が多いみたいだ。
いきなり運動部に勧誘してきた青年を、私はジロリと睨んだ。
知り合いではないわね。
蒼依のことを知っているのだから、紅樹先輩と同じ生徒会の関係者か、蒼依と同じ三年生の先輩なのでしょうけれど。
まさかこの体格で同学年ということはないだろうし。
「あぁ、悪ぃな。急に話しかけられて吃驚しただろ? 俺は守谷ルイ。蒼依の友人で、水泳部の部長をしてる。水泳は良いぞ、果林。俺と一緒に泳がねぇか?」
この騎士風の方は、王国騎士というよりは傭兵に近い。
なんせ口調が粗雑だ。
水泳とは何かしら。
水泳。
水泳とは――水の中で泳ぐこと。
体にぴちぴちの衣服を身に纏って、ほぼ裸のような格好で水の中でする運動が、水泳。
「へ、変態だわ……!」
「俺が? それとも水泳が?」
「守谷先輩と言いましたかしら。見ず知らずの淑女を突然全裸で興じる運動に誘うなんて、変態の極みですわよ」
「ルイで良いぞ、果林。お前は今日から俺の部員だからな。それに妙な言い方をしないでくれねぇか、水泳だ、水泳」
「ぐいぐい距離を詰めないで下さらないかしら! どうして私がそのような行為をしなければなりませんの」
私はルイ先輩を振り切ろうと走る速度を上げた。
息切れがすごい。今日だけですごい痩せそう。
守谷先輩は歩いているぐらいに余裕の表情で私の隣を同じ速度でついてくる。圧が強い。
「果林、君の運動に対する情熱が俺には強く伝わってきた。なんせ昼休みにわざわざ体操服に着替えて校内をマラソンしているぐらいだからな。だけどな、その体型で急に走ったら膝を痛めるぞ」
「知ったような口を聞かないでくださる? 体の痛みぐらい根性でなんとでもしてやりますわ」
「なんとかならねぇんだよ、これが。膝やら足首やらを痛めると、歩くことも大変になるぞ。そこで、水泳だ」
「……はぁ、……」
私はぜえぜえしながら返事をした。
「水泳は良いぞ、果林。体に負担は少ないのに、運動強度が高い。すぐに痩せられる」
「全裸で水の中でする運動にそのような効果が?」
「全裸じゃねぇけどな、残念ながら」
「それならやります」
「肉体美を手に入れたければ水泳部が一番良い、なんせ今人手も足りねぇんだよな。プール掃除の手伝いもしてくれると助かる」
「だから、入部します」
「果林、是非入部を……って、本当か? 偉いぞ、果林。じゃあ今日の放課後、水泳部まで来てくれ」
たとえほぼ裸を晒しての運動だろうとなんだろうと、すぐに痩せられるのならそれに越したことはないわね。
サリエルは頼りにならないし。
どこからどう見ても運動に精通していそうな傭兵のような青年、ルイ先輩の方が役に立ちそうだもの。
入部を了承すると、ルイ先輩は爽やかな笑顔を浮かべて、私に何度も手を振ってものすごい速さで走り去っていった。
置き去りにされた私は校舎に掲げられている大時計を見上げる。
「やばいですわ」
はじめての言葉が口から飛び出した。
やばい?
やばいとは、非常によろしくない、ということ。
これも果林の記憶だ。
気をつけなければいけないわね。果林の記憶と私の記憶が混同してしまったら、自分が誰なのかわからなくなってしまうかもしれない。
私はシャーロット。
でもなんとなく、新しい言葉を口から紡ぐのは楽しいような、くすぐったいような、奇妙な感覚になった。
「着替えて、授業に戻らないといけないわね。まだ間に合うわね、大丈夫」
私は校舎に向けて足を進めた。
一歩足を踏み出したところで、前方の休憩用のベンチにサリエルと紅樹先輩が並んで座っているのを見つけて、全速力でその前を通り過ぎようと決意した。
なんだかめんどくさい予感がすごくする。
というか、なんで仲良く並んで座っているのかしら。
魚肉ソーセージについて語り合っているのかしらね。もしかして。