シャーロット様、はじめての筋肉痛
朝だ。
小鳥たちが囀り、窓からは陽光が降り注ぐ、爽やかな朝。
晴れ渡った空が私を祝福してくれている。シャーロット様、万歳。シャーロット様、お美しい。シャーロット様、完璧な淑女、だと。
「ぃたあああい……っ」
そんな素晴らしい朝なのに、私は趣味のよろしくないベッドの中ではじめての痛みに悶絶していた。
「ど、どうしたんだ、シャーロット。病気なのか? 人間は病にかかるが、痛みというのは何だ、虫垂炎か?」
「ちゅうすいえんって何よぉ……っ! これは病気なの、サリー、体が痛いわよ、ぎしぎし軋むのよ」
ずっとノートパソコンの画面と睨めっこしながら朝を迎えたサリエルが、椅子から立ち上がると私の元やってくる。
病気。ちゅうすいえん。何だか分からないけれど、私は死ぬのかしら、恐ろしげな響きの病名で。
「痛いのは、腹部では?」
「お腹は痛くないわよ、いえ、痛いと言えば痛いのだけれど、足と横腹と背中を動かすと、ギシギシ痛いのよ」
「…………筋肉痛」
サリエルは両方の手で、指先を伸ばして長方形をつくると、指でできた長方形の真ん中から私を見て言った。
なんだか体の中まで見透かされている気がする。
天使というのは病気の診察もできるのかしらね。
「きんにくつうとは、何?」
知らない単語だ。
そう思ったのだけれど、果林の記憶が頭に入ってくる。
筋肉痛とは、運動の後に起る筋肉の痛みのこと。普段動かさない筋肉を動かした結果、筋肉やその周辺組織が炎症を起こすこと。
果林。筋肉って何? どうしてそんなに筋肉に詳しいの?
『筋肉……良いですよね……』
昨日ぶりに、たまに単語を発する妖精さんこと果林の声がした。
どこかうっとりと、果林は筋肉と言った。
果林には筋肉がないのに。好きなのに、体にはない。どういうことなの。
「筋肉が好きなの……!?」
「落ち着け、シャーロット。筋肉痛では死なない。俺は別に筋肉愛好家ではない。これは運動不足の人間に良く起る症状だ」
私は果林と話をしているのだけれど、サリエルには果林の声が聞こえていないらしい。
別に私はサリエルのことを筋肉愛好家とは思っていないのだけれど、丁寧に否定してくるので、とりあえず頷いておいた。
果林はまた頭の奥へと引っ込んでしまったらしい。
今度用事があるときには、筋肉で釣ってみようかしら。
「昨日私は、お風呂に入って、スクワットを十回したわね。……それだけなのに、筋肉痛が起るとか、どれだけ運動不足なのよこの体は」
「筋肉業界では、筋肉痛はご褒美とも言われている」
「朝から意味不明なことを言わないで。何よ、筋肉業界って」
「痛みが起るということは、つまり、それだけ筋肉が鍛えられているということ。運動の効果が出ているな、シャーロット。この調子だ」
「こんなに体が痛いのははじめてよ……新しい靴でダンスを一時間以上踊ったときだって足の痛みはあったけれど、我慢できたもの。痛すぎるわよ。こんなに痛いのに、起きなくてはいけないの?」
ベッドから起き上がるのが辛い。
爽やかな朝に無様さを晒している私。こんなに情けないことははじめてだ。
でも、朝から夜まで寝ているというのは、私の美学に反する。
私は両手をベッドについて、なんとか起き上がった。
こんなに痛いのに、体は昨日と同じだ。特に痩せている気はしない。ぷにぷにぽよんぽよんである。
「シャーロット、今日は月曜日。君は高校一年生だ」
「こうこう、いちねんせい……」
思い出してきたわよ。思い出したといっても果林の記憶なのだけれど。
私立花水木学園に入学したのは四月で、今は五月の終わり。
白沢果林は昨日誕生日だった。私と同じ。十六歳の誕生日に私は死んで――果林は、死のうとしたのね。
「学園なら分かるわ。私も通っていたもの。私たちの国の場合は、貴族の交流と高等教育目的としていて、学園に通うのは一年間だけ。でも、この国は三年間通うのね。それも、貴族ではなくて、庶民たちが」
「この国には、貴族はいない」
「あら。では誰が、土地をおさめているのかしら。……まぁ、良いわ。国の成り立ちについては、学園に通えば教師が教えてくれるのでしょう。……支度をして、学園に向かうわよ、サリー。あなたは一緒に来るの?」
「もちろん。君を一人にはできない。俺も、誰かに擬態をして学園に紛れ込むつもりでいる」
「学生として?」
「……それは、無理があるだろう」
サリエルは眉を寄せて言った。
確かに、サリエルは十六歳には見えない。
私はぎしぎしいう体を叱咤しながら、制服に着替えた。
紺色のブレザーには、朱色のラインが入っている。金糸で縫われた学園のエムブレムが、中々可愛らしい。
しかし、窮屈だ。
ふくよかな体に、生地の硬い制服が食い込む。
小さな鏡の前で髪をとかした。
髪を切りに行きたいわね。どうにも、伸ばしっぱなしでボサボサしていて、良くない。
「果林は頭が悪いことも気にしていたのよね。けれど、シャーロット・ロストワンは家庭教師も裸足で逃げるぐらいに優秀だったのよ。安心なさい」
制服に着替えると、体が拒否感を覚えていることに気づいた。
ざわざわして、どうにも落ち着かない。
果林はきっと、学園も嫌いだったのだろう。嫌いというか――怖い、というか。
私は鏡の前で、自信たっぷりに微笑んだ。
ふくよかでまん丸だけれど、目鼻立ちが整っているせいで、そうして微笑むだけで果林の顔は愛嬌があって可愛らしく見える気がした。