6. 初冬の夕暮れに溢れる笑み
「彬良さん……。どうしてここに……?」
「浅見がLINEくれたんだよ。君がバイト中に倒れて、この病院に搬送されたって。それで仕事はキリのいいところで半休にして駆け付けた」
「すみません……」
「由加梨ちゃん。だから言っていただろう。もっと食べて、もっと休むようにって。あの火事以来、バイトも増やして……あれだけ止めたのに」
「すみません……」
「それでなくても君はいっぱいいっぱい働いて、大学の勉強も真面目にやっているじゃないか。無理がたたったんだ。倒れても当然だよ」
由加梨は、もはや言葉もなく涙目になっている。
自分は頑張らなくてはいけない。
奨学金を借り、学費も生活費も全て自分の肩にかかっている。
両親と同じように大学教授になることを強いられているが、自分は将来、社会福祉士の『心理セラピスト』になりたい。
その夢を叶える為に。
自分は頑張らなくてはいけない。
自力での大学受験を決め、入学以来ずっと今までそう自分に言い聞かせて必死に頑張ってきた。
しかし、入学して約一年半余り。その見えない無理、綻びが出てきたのかもしれない。
由加梨は途方に暮れた。
家もなくし、体も壊し、これからどうやって生きて行けばいいのか……。
「由加梨ちゃん」
その時だった。
相原が、ベッドの上の由加梨の左手を突然、その大きな節太い両手で握り締めた。
「俺と結婚を前提に正式につきあってくれ」
その瞬間。
由加梨は目を大きく見開き、固まった。
相原は、バクバク鳴る心臓を冷静に沈めながら言った。
「君はまだ大学生で、結婚なんて考えたこともないと思う。でも、俺はもう君以外の女性とのつきあいは考えられない。もし、この先も俺とつきあってくれるのなら、結婚を前提として考えて欲しい」
相原と由加梨はただ見つめ合う。
「返事は……今すぐでなくていいんだ。まずは、体を治してほしい」
相原はそれ以上何も言わなかった。
ただ、黙ってぎゅっと由加梨の左手を握り締めた。
由加梨は相原の温かい手のぬくもりを感じながら、相原の誠実な瞳をいつまでも見つめ返していた。
◇◆◇
「お疲れ様でした! 作業全て終了しました。ここに確認の判子お願いします」
由加梨は、目の前の書類に判を押した。
「引っ越しおめでとう。三宅、良かったな。いい物件が見つかって」
「はい! 粘った甲斐がありました」
ここは、二階建て築三十余年で駅から徒歩十分の文化住宅の一階。家賃は月四万五千円の2Kタイプ。由加梨が前に住んでいた物件とほぼ同条件だ。
その部屋を由加梨は、火事から約半年後にようやく見つけ、バイト先の引越センターに依頼して今日、引っ越した。
その引っ越し作業を、バイトスタッフの一人として浅見も手伝った。
肝心の相原はというと、流行り始めたインフルエンザに早くも罹患し寝込んでいる。それでも、引っ越し作業を手伝うと言い張る相原を何とか大人しく寝かせてきた今朝の由加梨だった。
「いっそ相原さんとこにそのまま居つけば良かったじゃん」
「そ、そういうわけにはいきません!」
純情な由加梨は顔を赤らめる。
「でも。相原さんとは結婚するんだろ?」
「はい……。籍は入れます。来月の私の成人式に」
由加梨は、噛みしめるようにそう呟いた。
「それにしてもスピード婚だな。そんなに早く決断して良かったのか?」
「いいんです。彬良さん、ですから」
由加梨は俯いて、はにかんだ。
「じゃあ、どうして一緒に暮らさないんだ?」
「まだ学生だからです。それに私、今はこれ以上彬良さんに甘えたくないんです。私は……」
由加梨は、しっかりとした口調で呟いた。
「夢を諦めたくないんです」
火事で焼け出され、体を壊し、夢が自分の手から零れ落ちていきそうだったあの時……。
彬良がプロポーズしてくれた。
その時の感動は言葉には出来ない程、衝撃的なものだった。
だからこそ、夢を叶えなければならないと思う。
いや、叶えるのだ。
その為には彬良に甘えず、出来るところまで自分の力を信じよう。
あの時そう自分に由加梨は誓った。
その誓いを由加梨は一生忘れない。
「おめでとう。三宅」
「浅見先輩、ありがとうございます!」
初冬の夕暮れ、陽はもう陰ってきている。
彬良は今頃少しは熱が下がっただろうか。
今日ここに無事引っ越しできたささやかなお祝いに、今夜は彬良の好きな海老天入りの鍋やきうどんを愛情一杯こめて彬良にふるまおうと由加梨は思う。
アパート前のアスファルトに伸びる自分の長い影を見つめながら、由加梨は幸せ溢れる笑みを零した。
了