5. 果てしなく長い熱帯夜
そんなある日のこと。
「由加梨ちゃん。食べようか……て、あれ?」
相原が風呂から上がると、由加梨はソファに寄りかかったまますうすう寝息を立てていた。
(可哀想に……。緊張でよほど疲れてるんだな)
側に寄り、由加梨の寝顔を眺める。
閉じた瞳の睫は長く、メイクを落としていても由加梨の愛らしさは変わらない。
相原は思わず由加梨の長い髪に触れようとして、その手を引っ込めた。
(危ない……。このままじゃ俺、今夜も眠れないぞ……)
「あ……。相原さん。すみません……私、寝ちゃってた」
由加梨が目を覚まし、寝ぼけ眼をこする。
その時。
グラリと由加梨の体が傾いだ。
「由加梨ちゃん……!」
とっさに相原は由加梨の体を抱き寄せた。
「す、すみません……貧血みたいで」
そう呟いた由加梨は青白い顔色をして、どこか弱々しくしどけない。
「由加梨ちゃん……」
「あい、相原さ、ん……?」
由加梨がうわずった声をあげた。
相原が由加梨を抱き締めている。
もはや、相原の我慢は限界に達していた。
由加梨を固く抱き締め、口づける。
それは二人にとって初めての口づけではなかった。
しかし、明らかに今夜の口づけは今までとは違う。
二人にとってそれは果てしなく長い熱帯夜が始まろうとしていた。
◇◆◇
由加梨がうっすらと目を開けると、眩しい光が差し込んできた。
(ここは……?)
由加梨がぼんやりした思考を巡らせたその時。
「おはよう。由加梨ちゃん」
「あ、相原さん……」
傍らには由加梨に腕枕をしている相原がいた。
そして、由加梨は自分が何も身につけていないことに気がついた。
相原のシングルベッドの上。
東側の窓から明るい日射し。
昨夜の出来事を思いだし、由加梨の顔が赤らむ。
由加梨は思わずケットを手繰り寄せた。
そんな由加梨を相原は優しく愛おしく抱き締める。
「相原さん……」
相原の胸の中で思わず呟いた由加梨に
「俺のことはこれから『彬良』って呼んで欲しい」
と、相原は笑んだ。
「あ、彬良、さん……」
由加梨にとってそれはどこか面はゆい響きだった。
「由加梨ちゃん」
「彬良さん……」
どちらからともなく口唇を寄せ、口づける。
これが二人の記念すべき初めての朝だった。
◇◆◇
「うーん。そのご予算ではなかなか……お望みの物件はありませんね」
不動産会社の営業社員がパソコンを操作しながら言う。
由加梨は相原のおかげで、変わらず大学・バイトに通いながら、不動産会社に何度も足を運び、新しい引っ越し先を探していた。
しかし、安価で良い物件は当然なかなか見つからない。
前の部屋は築40年以上・駅から徒歩約十五分の文化住宅ということもあり、月四万四千円だった。由加梨にはそれ以上の家賃を出すのは厳しく、しかし、きょうびそんな良心的な物件は滅多にない。
「焦っちゃだめだよ、由加梨ちゃん。引っ越しは一大イベントだ。それと、連帯保証人は確か……」
「はい。母方の伯母が唯一、昔から私の理解者で。前のアパートの契約の時も伯母が保証人になってくれました」
「じゃあ、保証人の件は心配ないんだね?」
「はい。いつでも契約書を送ったらサインするって、この前、連絡がありました」
しかし相原は、由加梨に焦らないようにと根気よく説得した。
由加梨との共同生活。
それはもう『同棲』と言って良かった。
由加梨と二人の生活にも自然と慣れて、その生活は相原にとってはすこぶる心地よい。
新婚生活て……こんな感じなのかな。
そんなことさえ思い浮かび始めていたその頃。
それは、起こった──────
◇◆◇
お父さん。
お母さん。
由加梨は学者さまにならなくてはいけないの?
由加梨は……。
本当、は……。
………………・・・
「由加梨ちゃん……!」
由加梨がいつもの夢から目覚めると、傍らで相原が心配そうに由加梨を見つめていた。
「ここは……」
「救急病院だよ」
相原が呟く。
由加梨は間仕切りされた四人部屋の白い病室の中で、ベッドの上にいた。
「軽い脱水症状だそうだ。今、投薬中の点滴が終われば帰れるよ」
由加梨の細い左腕には、大きな点滴針が刺さっている。