3. 決意する夏の朝
相原はさっきからそわそわと手元のスマホをいじっている。
(そろそろかな……)
そう思った矢先に
「あ、あの……」
リビングの入り口で由加梨の声がした。
「あ! うん。うん……何?」
「あの……、お風呂。ありがとうございました」
「風呂、ゆっくり入れた?」
か細い由加梨の声に相原の声もうわずる。
「はい。いいお湯を頂きました」
湯上がりの由加梨は相原の部屋着を借りて着ている。それはトップスはダボダボで、ボトムはウエストが今にもずり落ちそうだ。
「今日は疲れたよね。もう遅いから今夜は休んだ方がいいよ。寝室のベッドのシーツと枕カバー替えておいたからベッド使って。俺はリビングのソファで寝るから」
「そんな! 相原さんはお仕事もあるのに、ソファなんて疲れも取れません。私がソファで寝ます!」
「いや、そんな気を遣ってくれなくても」
「気を遣ってるのは相原さんじゃないですか」
そう言うと、由加梨はソファに座っている相原の隣に座った。
「ゆ、由加梨ちゃん」
「相原さんもお風呂に入ってください。とにかく私がここで寝ます」
そう言うと、由加梨は相原から薄い毛布を奪った。
「明日は非番だから大丈夫。シーツを替える日に寝室使う日を交代するとか、そういうルールを追々決めよう。だから、今日は君はベッドで休んでくれ」
相原はあくまで由加梨をいたわる。
「もし、夜中に腹減ったり、喉渇いたりしたら冷蔵庫、適当にあさってくれて構わないから」
「ありがとうございます」
「俺、今から風呂入るから」
「じゃあ……私。お言葉に甘えてもう寝ますね。おやすみなさい」
「おやすみ」
そう言って、由加梨は寝室へと消えた。
どっと相原の全身の力が抜けた。
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(あー、なんでこんなことになったんだ)
湯船に浸かりながら相原は考える。
この初夏に由加梨と付き合い始めて、まだ約ひと月。
その間、デートは何度かしたが、まだまだ『恋人同士』というほどの関係ではない。
由加梨を部屋に入れるのは、今日が初めてだ。
なのに、いきなり『泊まり』だなんて……。
しかも、これは今夜だけではないのだ。
当分、由加梨を部屋に泊めることになるだろう。
そうなった今日の顛末に、相原は想いを巡らせ始めた。
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「今日の演奏会も素敵でしたね!」
「ああ。綺麗な音楽だったよ」
由加梨とのデートの帰り、由加梨を部屋まで送っている時だった。
「あれ? 消防車?」
「近いみたいですね。うちのアパートの方向だわ」
何気なく由加梨が呟いた。
消防車が何台も、サイレンを鳴らしながら目の前を通り過ぎていく。
静かな住宅街がざわついている。
よく見ると少し遠くに黒煙があがっていた。
「まさか……」
由加梨が不意に駆け出した。
「由加梨ちゃん!」
慌てて相原は由加梨の後を追う。
住宅街の中を走り、ブロック塀の角を曲がると黒山の人だかり。
辺りは火事特有の焦げ臭いにおいと、黒煙がもうもうと立ち込めている。
「いやぁああ……!!」
由加梨の悲鳴が辺りに響いた。
絶句する相原。
目の前で紅蓮の炎に包まれているのは、二階建ての古い文化住宅。
その一室は由加梨の部屋だった。
消防車の放水、警察・消防の捜査。マスコミの取材。
全てが終わるまでには、随分時間がかかった。
全焼──────
アパートは、黒い骨組みだけを残し、灰と化した。
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ただ呆然とする由加梨に相原は必死で声をかけ、そして、自分の部屋へと連れ帰った。
実家と不仲だと聞いている由加梨が今、一番頼れるのは自分しかいない。
家具も服も貯金通帳も何もかもを由加梨は失くした。
とにかく、今夜の宿をどうにかしなければならない。
ホテルをとってやれれば一番良かったのだが、今夜一晩だけというわけにはいかないとすれば、自分の部屋に泊めるのが一番手っ取り早いのは違いない。
由加梨も相原がとるホテルに泊まることには異議を唱えた。そんな経済的負担を相原にかけたくはない由加梨としては結局、相原の部屋に泊まるという相原の提案を最終的には受け入れた。
勿論、相原にやましい下心などあるわけがない。
……と思われているからこそ、余計に相原は自分の行動を律する必要があった。
由加梨と付き合い始めてこのひと月、結んだ関係はハグまでだ。
由加梨はもうすぐ二十歳とは言え、まだ学生。
ゆっくりと仲を育んでいくつもりだ。
(やっぱり何もできるわけが。していいはずがない……)
相原は温くなった湯船の中で溜息をついた。
◇◆◇
(あれ……)
何かいい匂いにつられて、思わず相原は鼻をかいだ。
「あ。相原さん。おはようございます」
由加梨の言葉に相原はやっと目を醒ました。
リビングのソファで一晩を明かした相原は、昨日の騒動もあり、さすがに怠さを感じている。
しかし。
「わ! 美味そう」
テーブルの上には、こんがりチーズが程よく焼けたピザトーストにふんわりスクランブルエッグ、トマトサラダ、食べやすく綺麗にカットされた林檎とオニオンスープにミルクと珈琲があった。
「すみません。冷蔵庫覗いて、お台所借りました。こんなものしか作れなくて……」
「全然こんなものじゃないよ! 大体、あの冷蔵庫の中身でよくこれだけ作れたね」
男の一人暮らしの相原の冷蔵庫の中には、ろくな材料は入ってなかったはずだ。
「冷蔵庫の残り物でお料理作るのは得意なんです。自炊は貧乏生活の基本ですから」
恥ずかしそうに由加梨は笑うが、それは美徳以外の何物でもないだろう。
「うん! 美味い!」
相原はご機嫌で由加梨の作った朝食をあっという間に平らげていく。
「でも由加梨ちゃん。自分の分は?」
しかし、迂闊にもやっとその時、由加梨はホットミルクを口にしているだけで、食事が一人前しか用意されていないことに相原は気付いた。
「あ……。食欲が、なくて……」
由加梨は目を伏せた。
自分の住むアパートが全焼したのだ。
由加梨の気持ちもわかる。しかし、食は生活の基本だ。
「こんな時だからこそ、しっかり食べないと」
相原は、珈琲を飲み干すと言った。
「新しい住居が見つかるまでここにいてくれて俺は全然構わないから」
相原は由加梨の目を力強く見つめる。
「相原さん……」
由加梨の目がみるみるうちに潤んでいく。
やがて、ぽつぽつりと由加梨の瞳から雫が落ちた。
「由加梨ちゃん。大丈夫! 頼りないだろうけど、俺が精一杯力になるから」
(可哀想に……。よほど心細かったんだな……)
思わず前のめりになって由加梨の背を撫でさすりながら、相原は思う。
(俺は彼女より六歳も年上なんだ。俺がしっかり彼女を支えないと)
本来、頼れる騎士タイプではない相原なのだが、愛する由加梨を前にすると、沸々と心に強い想いが沸き起こってくる。
陽射し眩しい夏の気配を感じながら決意する、そんな七月のある朝のことだった。