2. 二人だけの世界
「素晴らしかったですね! 『ボレロ』の主演ダンサー、女性とは思えない力強さで。さすがは貝塚バレエのプリンシパルだわ」
由加梨が、『CLAIR』の明るい窓際の席で、ご機嫌にそう言った。
「あ、ああ。そうだね」
一方、相原は水を飲みながら、心臓がバクバクいっている。
(ま、まずい……)
『ボレロ』はモーリス・ラヴェル作曲、モーリス・ベジャール振り付けの作品だ。
事前にユーチューブで何度も観て予習はしていたが、しょせん付け焼刃。それ以外の演目もコンテンポラリー(創作バレエ)が中心で、素人にはかなり難解なバレエだったのだ。
それでも、由加梨は何か楽しそうに感想を喋っている。
つぶらな瞳をくりくり動かしながら、表情豊かに喋る由加梨は、普段以上にやはり可愛い。
その時。
「失礼します」
黒いワンピースに白いエプロン姿のウエイトレスがアメリカンフルーツワッフルとホットのアールグレイにカフェラテを運んできた。
「あ。もう一組、フォークとナイフ頂けますか?」
と、由加梨が言った。
「シェアなさいますか?」
「はい」
何の躊躇もなく由加梨がそう答えるとウエイトレスは、一枚の小皿にナイフとフォークを持ってきた。
「ここのフルーツ新鮮ですし、ワッフルもサクサクッとしててすごく美味しいんですよ。相原さんもよろしければどうぞ」
それは、チョコレートソースがかかり、細かくカットされた苺やベリーが添えられ、生クリームがのった二枚のシンプルな四角いワッフルだった。
由加梨は一枚のワッフルを四分の一ずつにカットして、フルーツと共に小皿に盛り、相原の前に差し出した。
「あ、ごめん。有難う……」
そう言うだけで、相原は精一杯だった。
「頂きましょう」
由加梨はナイフとフォークを動かし、美味しそうにワッフルを食べ始めた。
その光景を相原はぼーっと見ていたが
「食べないんですか? 相原さん?」
と、可愛らしく小首を傾げる由加梨にハッとフォークを手にして、ワッフルを一口食べてみた。
「美味い!」
相原は思わずそう言った。
辛党の相原にもその味の良さが際だって感じられる。
「俺、普段、甘い物あんまり食べないんだけど、これは美味いよ」
「良かった」
由加梨が嬉しそうに笑う。
「相原さん」
「うん?」
ワッフルを頬張りながら相原が相槌を打つと
「今日は何で誘って下さったんですか?」
何の気もなしに由加梨がストレートにその問いを口にして、カタンとフォークを相原は落とした。
「え、ええと……。三宅さんは普段からよく浅見とバレエとか音楽とか……の話してるし。話が合うかなと、思って……」
それは、苦しい言い訳だった。
なにしろ、バレエは解釈の難しいコンテンポラリーはもちろん、メジャーな演目の『ボレロ』さえよく理解できなかったのだから。
そもそも本当にバレエだけが目的なら、何も由加梨を誘わなくても気の合う浅見と観に行く方が自然だ。
けれど
「ほんとですか?! 嬉しい! 私の友達、バレエに誘っても誰も乗ってくれなくて。相原さんは、他にどんな作品がお好きなんですか? 音楽は何を聴かれます? クラシックお好きですか?」
由加梨は喜々として尋ねてきた。
その『好きな作品』に関する話題については、辛うじて対処できた。
由加梨を誘うに当たって、由加梨の好きなバレエ演目や音楽などについて、浅見が事前にあれこれ相原にレクチャーしていて、その予習は抜かりなかったからだ。
由加梨がカップに二杯半のアールグレイを頂いている間中、二人の話は盛り上がっていた。
しかし。
「……あ」
由加梨が手元のスマホを見た。
「相原さん。せっかくですけど、今日はこの辺で」
由加梨が済まなさそうに言う。
「何か用事があるの?」
「えーと、もうすぐスーパーの特売時間なんです。今日は卵がひとパック150円、トマトが三個で200円、牛肉がグラム128円でゲットできるので、逃したくないんです」
由加梨が、それまでの天真爛漫な笑顔から、引き締まった顔をして言った。
(俺は、スーパーの特売以下の存在か……)
そう相原は思ったが、仕方がない。
「ワッフルのお代金、これでお願いできますか?」
由加梨が、千円札を一枚、二つ折りの黄色い財布から出してテーブルの上に置いた。
「あ! それはいらないよ! 俺が出すから」
「でも……。バレエのチケット代も出して頂いていますし……」
「俺もワッフル、シェアしてもらったからいいよ! 美味しかったし」
相原は、必死で言った。
「その代わり。……今度の休みにまた、三宅さんを誘ってもいいかな?」
「私、講義とバイトでいっぱいいっぱいですから……。時間が合えば」
由加梨が綺麗なパステルピンクの七分丈サマーカーデを羽織りながら、申し訳なさそうに答えた。
(ヤバイ! ヤバイ! ヤバイ! 三宅さんが行ってしまう)
相原はてんぱっていた。
しかし、バッグを手にした由加梨を見た瞬間、思わず口に出していた。
「君と一緒に、君の好きなものを二人で観たいんだ」
由加梨は、きょとんとした顔になった。
(遠回し過ぎたかな……。これ以上俺には……。でも)
相原は、死ぬ思いで叫んだ。
「俺は……、俺は君が好きなんだ!」
その相原の一声に由加梨がビシッと固まった。
「え、ええと……」
由加梨は俯いて、次の言葉が出てこない。
その間、相原はジリジリと時の経過を待った。
しかし、ややあって
「私も……。一人でぼっちお茶するより、相原さんと一緒の方が楽しいです……」
紅い顔をして俯いたまま、由加梨がか細い声でそう答えた。
「え? そ、それって……」。
その相原の呟きに、由加梨は紅い顔をして俯いたままだったが
「俺と……つきあってくれる?」
絞り出すような相原の問いに、由加梨は更にボンと赤らめながらも、微かに頷いた。
「三宅さん」
「相原さん……」
由加梨が視線を上目遣いにやや上げる。
二人は見つめ合い、完全に二人だけの世界を作っていた。