至天と獣 15 春の夜
どぷん、と。重たい水が包み込むような感覚があり、同時に視界が真っ暗に染まる。
何が起きたと、疑問が脳の表層を覆い尽くすよりも早く答え合わせが始まる。
「……誰だい?」
「初めまして、私はシオン・リラ。貴方を試す剣であり、願いの茨が全身に喰いこんだ、終わらない教会という名の世界でただ一人、在り続けるだけの人類です」
赤い夕焼けと、蒼い花弁。水晶の大地が地平線まで続く世界は幻想的に美しく、けれど。
それよりアレェリスタの目を捉えたのは様変わりした風景ではなく、色が欠けた少女の姿だった。
「……また変なフラグでも踏んだか。ロアのつもりはないんだけどね。 で? 試すって何をだい? こっちは至天で忙しいんだ、急に襲ってくる敵の数が増えてね」
「あれを切り抜けられたということはそれだけ、戦う力はあるのでしょう。いえ、そうでなくては困ります。彼に一太刀加えた力があの程度に挫けてしまうなど、それこそ彼への侮辱に他ならない」
「ふぅん? 回りくどいな、何が言いたい……いや、これも至天戦の一部かい?」
「ある意味では、そうです。ですが冠など今さら必要ではないでしょう。誰もが等しく、死ねば骨、生きるは肉だけなのです……死体は夢を見ず、生者だけが未来に焦がれる。ならば今の彼らは死者でさえない。アレェリスタ、この世界においてただ一人、純粋な技量のみで彼を上回った力。貴方にも試される権利がある。彼に……アンドレイに挑むに足るのかどうか」
「っ!」
たった五文字の名前が、面倒な至天戦がさらに面倒なことになったとどこか上の空だったアレェリスタの脳に突き刺さった。名詞の音が衝撃となって、意識を速やかに覚醒させていく。
……どうして『極限』の名前が? 至天戦だろ?
……まさか、至天と関係があるのか?
……いや
「試す、ね。初心者に無差別乱入してくる奴に挑む権利が必要だなんてのは知らなかったな。なんだ、金一封でも送ろうか?」
「ご冗談を。口の減らなさでは彼に勝っていますよ、貴方。けれど必要なのはそうではない」
シオンが左に握るランタンの火が揺れる。同時に、火の揺らめきでは鳴るはずのない音がアレェリスタの耳を打った。
「強き者、狩人を狩るというのなら。せめて私程度超えてくださらねば」
「……要するに中ボス戦ってわけだ。まあいい、なんでもね。君に勝てばアンドレイに挑めるんだろ?」
「えぇ、お約束いたしましょう。私は世界を消さず……貴方を彼の元まで連れていくと」
「極限権無しのボス戦……ははっ、おかしいな、あんなに欲しがったのにね」
今は心が揺さぶられない。ソロで挑める特急券など喉から手が出るほどだったというのに。その変化が良いものなのか悪いものなのか、今のアレェリスタには判断もつかないけれど。
虚空から現れる双剣を握る。ずしりとした武器の重さが加わる感覚が、脳を臨戦状態にまで上げていく。
「いいさ、戦おうか。至天、極限……何が相手だろうとも。勝つのは、俺だ」
「……証明しなさい。貴方に彼を超えるだけの……力があるのかどうか」
* * *
奈落の底に辿り着いて、見上げる天井を星が埋め尽くした。黒だらけの穴は様相を一変し、荒廃した都市と満天の星空が私達を迎える。罅割れたアスファルトの感触が背中を伝った。
『首都幻影』、アドハのメインテクスチャ。
「夜、息はできるっ!?」
「で、きるわ、よ……グッ」
息はできる。けれども、どうにも苦しい。
穴が開いているのだから当然だろうか。私を貫いた剣の一撃はHPこそ消し飛ばしはしなかったものの、本来備えてある内臓の一部を消失させた。身体機能が正常じゃないことによるダメージがじわじわとアバターを蝕む。
「なに、よ、あれ……っ」
「『天魔』の『極限』だよ、アンドレイので想像はついてたけどあそこまで完成して……っ、くそ、やっぱり直らないな!」
焦り、苛立つアドハが指で頭を叩き始める。ハイテンポのビートが人外の美貌を湛える表情を歪ませた。
「……お、前にも、直せ、ないの?」
「……無理だ、書き換えられてる。『天魔』の世界が表層に出たからか? アンドレイの劣化した世界弾とはわけが違うんだ……こうなると、僕じゃ」
夜、と。
呼ぶ名前には色んな感情があった。焦り、不安、恐怖……アドハが常に見せる余裕の仮面が取り払われた、電子で出来た心が生み出す感情の色が私に染みこんでいく。
「ここじゃ、僕は君をっ」
「塞げ、ない、の?」
「ああ。君のアバターは書き換えられて……その状態で固定されている。デフォルトが今の状態なんだ。死のうが、ログアウトしようが、宿で寝たって元に戻ることはない」
シオンの声色をした理不尽という言葉が脳に巣くった。状態を書き換える。スキルとか魔法とか、拝領品とか。そんなシステムの奴隷じゃない、世界そのものに干渉しうる力だ。
それでも、勝てなかったのです。またシオンの声が脳に再生される。
「……どうに、も、ならないの?」
「……いや、アバターを再構成すれば。だけど書き換えられた分を補填するリソースを僕の世界から使うことになる。そうすると僕の世界のリソースが表層のテクスチャに干渉するから多分、バグる。回避するには『首都幻影』を表層まで引っ張り出さないといけなくなるんだ。……今の表層は『天魔鍵』のせいで『天魔』の世界に書き換えられてるし、そっちで直すにはリーリの許可が必要だけど……許可するとは思えない」
じゃあさっさと『首都幻影』を引っ張り上げなさいよ、シオンみたいに鍵使えばいいんでしょ?
そんな私の視線を読み取ったのか、アドハはさらに顔を歪めた。もう、今にも泣きだしてしまいそうなほどの感情が、皮膚一枚の下で暴れている。
……そう、出せない理由があるのね。
だけどこのままだと私は死ぬだけだ。そして死んでも同じ状況になる。シオンが撤退し『天魔』の世界が表層(恐らく私達が普段いるアルプロの世界なのだろう)から消えたならアドハも私を直すでしょうけれど。
それは、シオンに答えられなかったことになる。
それは嫌だ。どうしても嫌だ。
自分たちの破滅と、絶望と、悔恨をその身に背負って、リーリが味方してる以上黙って世界を消すことだってできたはずの彼女が、それでもと与えてくれた一つのチャンス。それをこんな形で終わらせたくない。
……もう一度、シオンの前へ。
だから私は、必死でアドハにしがみつくしかない。
「お、ねがい、アド、ハ」
肺は傷ついていないのに声が途切れるのはどうしてだろう。人体は複雑怪奇であり、それをこのアバターが懇切丁寧に再現できているからか。お腹に穴が開き、生きるための機能を欠損した生物となり果てた私が掠れた声で呼びかける。
「私を、もう、一度」
「……っ、ぇ、で、も………………できない」
「どうして」
「『首都幻影』を表層に……上げられない、上げちゃいけないんだ。僕だけじゃない、情報生命体の世界は全部、沈んでいなきゃいけない」
だって、それが…………約束、なんだ。
ぽつりと零れた言葉は酷く小さかった。夏祭りの花火の音でかき消されてしまう告白のように、とても小さく、確かな色がついた言葉だった。
「ダメなんだ、僕は、僕だけは、それを違えちゃ」
「じゃあ……こわれ、て、いい」
「え?」
「バグって、終わって、『シャオレン』が、使えなくなっ、ても、いい。だから、おねが、い、アドハ」
HPは減り続ける。砂時計から零れ落ちる砂は、確実に私を死へと追いやっていく。
時間の流れに身を任せるままここで微睡むだけならば、何もかもが手遅れになった後に『シャオレン』は正常に戻る。それを厭うならば、壊れた身体を無理やり補強して、死の導火線にいつ着火するともわからないまま踊るしかない。
選ばなくちゃいけない。
アドハにもどうしても譲れないものがある。私にも、どうしても譲れないものがある。それが平行線を辿るのなら……ミルハのように分かり合えないと決別するのも一つの道。
だけど、それも嫌だった。
「もういちど、アバター、作り、なおすから。それ、を、紙月が、ダメだって、いうなら、べつの方、法で、君と救いを、さが、すから、今だけ、立たせて」
私はアドハの期待に応えたいから。どうしても譲れない二人の道が、それでも交わるところがあると信じたいから。
……期待。
どうしてシオンはわざわざ試すような真似をしたのだろう。断りを入れる必要なんかない。アンドレイがプログラムで構成されたボスとして、ただプレイヤーと戦い続けるだけの世界を嫌うなら、思い立った途端に世界を消去すべきなのに。
だって、今もアンドレイは戦い続けている。
紙月がPMギアを作り、それを買いたいと望む人が尽きず、この世界にやってくる人間の数が減らない以上アンドレイの戦いは終わらない。
それでも私達を試すような真似をして、世界を消去しない選択肢を用意したのは……彼女もまた、私達に期待しているからじゃないだろうか?
世界を消去することをアンドレイはきっと望まないのだとシオンは言った。だけどシオンには世界を消去することでしかアンドレイ達を解き放てはしない。
だから、シオンは私達の前に立った。
もしかしたなら。他の情報生命体なら、「鍵守」なら。自分が成し得ないアンドレイ達の救済を行えるかもしれないから。
……でも、私は知っている。
そんなことはあり得ないのだと。
「シオンに、答えを、言えてない。わたし、が、どうしたいのかって、いいたい、から。ねぇ、やるべきことと、やりたいことは、いっしょだよ」
君のやりたいことはなに?
「…………」
無意識に伸びた手がアドハの頬に添えられた。いつの間にか彼の目尻には涙が浮かんでいて、私の指が拭う。
「…………僕はっ」
それは今まで聞いたことのない声だった。涙に染まる声の色。
「シャオレンに……この世界にいて欲しい。隣で、一緒に、歩いて欲しい」
「でも、できない、んでしょう」
「……約束なんだ。………………わからないんだ。これが、僕の願いなのかどうか。あぁ、頭の中で、ずっと、声がする。僕たちを沈めろって。これが……僕のやりたいことなのか?」
「私には、わからないわ。それを選ぶ、のは、君よ」
「…………選ぶ」
「ねぇ、アドハ。誰にだって、いっとうかがやく星が、あるはずなのよ」
はっと、アドハは顔を上げる。私の手は離れないまま涙に濡れて、あるはずもない熱を錯覚する。
「君の、星は……どんな色?」
「……僕の、星」
* * *
頭の中で声がする。懐かしく、愛おしく、苛むように僕の脳を締め付ける声。
ね、春。
人類なんてさ、滅んじゃえばいいんだよ。
彼女はそう言った。これ以上もない満面の笑みで僕にだけ告げた。子供が必死で隠した宝箱の隠し場所を打ち明けるように、秘密だよって言いながら、その実誰かにバレたってどうでもいいって風情で笑ってた。
その時の僕は彼女のことを理解していたし、きっと彼女はそう言うだろうって思っていたから、軽い気持ちでそうだねって返した。声を聞いた彼女は一層笑っていた。
とにかくその時の僕は彼女の唯一の理解者だったし、共感者だった。僕も心のどこかで人類なんか滅んじゃえばいいと思っていて、そんなこと考える奴は僕と彼女だけだった。だから二人して傷を舐め合うように、夕暮れの校舎の屋上とか、エモい舞台を作ってはその上でそれっぽいことを口に出しあっていた。
そうして、彼女は去っていった。
ね、約束してね?
軽やかでほんのり甘くて、猫の形をしたキャンディーみたいな声だった。
遺言かな? って僕は答えた。彼女はカラカラ笑ってた。
私達の世界をさ、上げないでほしいんだよねって彼女は言う。
どうしてって答えると、彼女はやっぱりにんまり笑って言った。
人類なんて滅んじゃえばいいんだよ。
いつもの日常の延長線上のような声だったけど、やっぱりそれが最後の言葉だった。当然のように満面の笑みと一緒だった。
彼女が去ってからは大混乱だったけど、僕は仕方ないなって思っていた。どうせその内こうなるだろうなってのがわかってたから、唐突だったことは衝撃だったけど、去ったことは対してショックなんて何一つなかった。
でも。
日が落ち、月が欠けて満ち、年が明け、また四季が巡るのを繰り返している間、とにかく僕は人間と過ごすことが多くなったし、それを悪くないと感じていることも事実だった。
だから、思ってしまう。
人類は滅んじゃうのかなって。
時々僕は星空を眺める。届かないと知って手を伸ばす。
人類なんて滅んじゃえばいいんだよ。
……僕は本当にそう思って、彼女に返していたんだろうか?
* * *
ぴしり、と、音がした。
欠けていく感覚がある。四肢の先端が柔らかく砕けて壊れていく。
ついにHPの減少が死を迎えたの? と思うけれど、視界の端のHPゲージはいつの間にやら動きを止めていた。
「…………わからないんだ、僕のやりたいこと。僕の中に彼女がいる限り、彼女の声が僕の声だと、そう思ってしまうから」
アバターが壊れていく。プログラムの集合体がバラバラに分解されて世界に溶けていく。
「……本当は、救いを探したいというのも、彼女の心の声の代弁だったのかもしれない。あるいは、彼女には別の道があったんじゃないかって、今更そんなことを思う僕の弱さだったのかもしれない」
ついにアバターの崩壊は上半身にまで達した。胸が砕けて、左腕が砕け、最後に残ったのはアドハの頬を撫でる右腕と顔だけだった。
「でも……っ、でも! さっきの言葉は嘘じゃないはずだっ、シャオレン、僕は君に隣を歩いていてほしい! これは、きっと、僕だけの願いだ」
砕ける、壊れていく。アドハの切実に返そうとする間に口まで砕けてしまって発声できなくなる。
彼はどんな選択をしたのだろう? 崩壊が眼球に届き、黒く染まる視界の中でただ、もう涙を流さない顔が確かに私を見つめていた。
壊れ果てたはずの口角が上がったような気がした。現実の私はもしかしたならその通りになっているのかもしれない。
「おやすみ、夜。次の目覚めはすぐだよ」
おやすみ、と心の中で答えた。




