至天と獣 14 これが私達の終わり
シオンの足元から花びらが舞い上がった。
世界が変わる……いや、上書きされる。
水面に波紋が広がるように、シオンを中心に世界が書き換えられていく。蒼い花弁で埋まる大地は足裏の感触をごつごつとした剥き出しの大地から整然されたリノリウムを思わせる均一に変わり、空を封鎖する枝、そこから漏れる木漏れ日は最初からなかったかのように綺麗さっぱりと消えていく。森林の名を冠するギルギルギルが誇る大自然は、瞬く間にその様相を変容させることを強要された。まるで絵画の表面を破り捨てて下から新しい絵を暴き出すように。
残ったのは、空白。
世界の終わりとはこうも寂しいものなのだと教えるような空っぽ。
地平線まで見渡せるほど、私の視界を邪魔するものは無かった。たかだか数メートル前でさえ隠してしまう巨大樹達の影はどこにも無い。
花弁が降り、地面が蒼く染まる。花弁の隙間から僅か見える大地は淡く水色に光っている。どこか、零晶に似た光。もしかしたならこの花びらの下は全て水晶のように変化しているのかもしれない。
空は赤い。どこまでも赤く、赤い夕焼け。神秘的な赤が花弁に対抗するように世界に色を落とす。
けれど目立った変化はそれだけだった。
それ以外は何もない。
絶対的な緑の王国は、ここに何もない場所へと変換された。
その様変わりに見覚えがある。
「……S、GA?」
世界そのものが全く別の世界に喰い破られていく光景。この空間の主はどちらなのかと一目で証明する現象は、深化した狂いの拝領品とよく似ている。
「……いいえ。言ったでしょう、私達に悪魔の加護など無いと。確かに悪魔の力ではありますが……これは世界。悪魔の鍵によって呼び起こされた、『天魔』の世界」
ぱっと、シオンが手を広げる。目を焼く赤を背景に、逆光がその顔を影で覆いつくせば、私に彼女の表情を確認する術など無く。
けれど。
「ここが私達の終着。掌に掴めない砂金のように零れ落ちるだけの全て。たった一つの……終わりの形です」
きっと、笑っているのだろう。
声は軽やかに重く濡れた感情を乗せず、見えない顔には泣き出しそうな笑みが張り付けられているのだと脳は想像する。多分、外れてはいない。
笑顔は喜びだけを表すものではないから。
シオンは確かに笑っている。どこまでも、虚しい笑みで。
「『天魔』の世界……」
無意識に呟く言葉は転がるように足元へ落ちる。
情報生命体が行った人類のシミュレーション、その舞台となった、情報生命体ごとのメインテクスチャ。
つまり……ここが、シオンが、アンドレイが……生きた世界。
……この、空っぽが?
彼女たちは『夜』と呼ばれる何かと戦った末に敗北し、そこで全てが終わった。シオンから漏れる断片的な情報を繋ぎ合わせるならそう捉えるしかない。
だけど、この有り様はどういうことなの?
『夜』というのが比喩や仮称で、その実態が人類を根絶せしめる……戦争でも、病でも、あるいは技術の暴走でも、大災害だとしても。多少は生きた痕跡が残るはずだ。都市、住居、施設……知恵を持った人類が大自然に順応して生きていくのは難しいから、繫栄していくには自然を超えた足跡を刻んでいかなければならない。アンドレイの装備やシオンの服装を見るに、原始人のような生活をしていたわけではないだろうし。
いや、もしそうだとしても。自然環境一つさえないのはあり得ない。海面上昇で全てが海に沈んでしまったとしたって、そこには海があるというのに。
……足元を覆うのは不自然な均一。まるで均したかのような、人工的な平坦を持つ水晶の大地。
海も山も大地もなく、水色に光る水晶と地平線、そして夕焼けだけで構成する幻想的に美しい虚無に。
「人間が、生きられるの……?」
「生きられなかった。だから、私達は終わったのです」
漏れた言葉にすぐさま反応するシオンの声が何もない世界によく響く。
笑みは収まり、けれど言葉には虚しさが残っていた。無意識だろう、彼女はため息を吐き出し、押された空気と混ざる。
シオンが遠い目で私越しに世界を見た。
「こんな風になると知ってしまったとして、それを受け入れなければ進めなかったとして。彼は銃を下ろしました。その選択は正しく……でも。……貴女はどうしますか? 抗いますか、受け入れますか。それとも別の道を模索しますか? どの道を辿ろうとも、私達の歩む先は死と絶望だけが玉座に居座り、判決の時を待つだけだと言うのに」
「……死」
「それでも命を繋ごうと泣き叫ぶ彼の決断を……どうして私が、否定などできるのでしょう」
シオンが左手を掲げる。いつの間にかその手には、蒼い光を収めるランタンが握られていた。ゆらゆらと揺れる蒼は花弁と同じ色を放つ。
とんと、シオンが足で地面を叩く。
ランタンが震え、蒼い波動を放つ。波動は幾ばくもなく世界に散り、届いた範囲の花弁が共振する。所狭しと敷き詰められた水晶の大地はただそれだけで、花弁を宙に舞い上がらせた。
「『花チル無ジョウ』」
りぃん。
シオンの声に舞う花弁が振動と音でもって答える。一つ一つが微細に震え……瞬く間に槍となる。
物語の頁を飛ばしたように過程を吹き飛ばして、掌に収まるほどの花弁が全長一メートルほどの槍へと成り代わる。幾つも、槍は浮いて。
射出。
「いきなりッ!」
「待ったをかけた覚えはありません」
飛来する槍の数は五より多い。槍は点だが、こうも数があるなら面での攻撃に近い。
咄嗟に脳がスキルを選ぶ。アバター内を命令が駆け巡り……。
発動しない。
「っ、しま!」
『空白ノート』!
致命的なミスだった。一瞬の硬直が私から逃げる時間を奪う。
槍はもう目の前に。
「……ッ!」
飛んだ。剣葬を強く掲げる。
……多少は無視!
振り下ろす。
耐久力に秀でた剣が花弁の槍と捉え、金属音と共に弾く。手ごたえが痺れになって腕に伝わり、だけど下へと重力に引かれるのを止めはしない
同時に私は勢いに引かれるまま上半身を大地へと向かわせ、逆に意図的に下半身を持ち上げ抱える。
……面積を最小にする!
剣葬の振り下ろしがアバターの正中線を穿つ軌道の槍を弾き飛ばし、飛び丸まった身体は本来シャオレンの面積を小さく見せる。
勢いづいた槍はそのままシャオレンの腕を、足を抉って通過し、だけど致命になる一撃は無い。丸まった体で受け身も取れず、私はそのまま水晶の大地にぶつかる。
「解除しなきゃ……っ!」
「遅い」
HPが削れる音が脳に響けば、次に聞こえるのは追撃の足音。
横たわった体の鳩尾に足が喰いこんだ。
槍に合わせて駆け寄ってきたシオンの蹴りが防御も取れない私を揺らす。背骨に響く衝撃がお腹に溜まった空気を吐き出させた。
「ぐっ……!」
衝撃と勢いが横倒しのままの身体を転がせば、縦に回る視界の中でランタンがまた蒼を揺らす。
「『花ヒラク孤ドク』」
花弁の共振が耳に響いて、私が伏せる水晶より舞い上がる。
危機感に警鐘を鳴らす脳が反射で身体を起こし、思考の捩じりが意味を無くした拝領品を廃棄、同時に足に光が宿る。
宙に舞う花弁はやはり過程を飛ばし、切っ先を光らせる鋭利な剣を形作る。限界まで力を溜めようと屈む私の頭上にずらりと並んだ剣。
落ちる。そして、飛ぶ。
剣の滝が水晶を穿ち、それよりも早く後ろに飛んだ私は紙一重で水のない滝壺にて串刺しになることを拒否した。
りぃん。
シオンの持つランタンの蒼が揺れれば、剣は切っ先を真下から斜めへ……私の方へと向き直す。花弁は次々に宙を舞い、その都度新たな剣が描かれ、処刑のためにと切っ先をこちらへ向ける。
「キリがっ」
ない!
……使うべき? いいえ、迷ってられない!
跳ねて飛ぶ。向かう先は剣の届かない場所。獣の咢のように大地を噛み砕く剣の群れを、ひたすら後退することで避ける。
手が宙を滑り、思考が脳の表面を走ればメニューが開く。インベントリから左手に落ちるは『星の触媒』。
『光剣追撃』は現状意味がない。必要なのは、剣をかいくぐってシオンの元まで辿り着く力。
だから選ぶのはもう一つ。
砕けた触媒が放つ光が私を包む。何度目かの跳躍で剣の牙を躱し、着地した足が水晶を踏み。
前を睨む。
駆けだす。右斜め前方、剣を躱しつつシオンの元へ。
りぃん。音が響けば花弁は剣を形作る。向かってくる私を好都合と捉えたのか、剣の群れは動かずに構えたままだ。気にせず踏み出す足は止まることを知らず勢いを落とさない。
近づく。剣の壁が射出され。
視界の隅に別の剣が写った。横目に見れば側面を狙う剣の群れが迫ってきている。自立運動する剣による十字砲火が中心に私を捉え形成されている。剣がシャオレンを十字に穿った不格好な案山子が否応なく脳を過り、頭を振って想像を追い出せば剣はもう目の前に。
剣が私を突き刺す瞬間、足には再度スキルの光が宿る。『加速術壱式』、次いで一速と二速。補正された速度が私の速度を跳ね上げさせ、それさえ無意味だと嘲笑うように剣が私の身身体に突き刺さり。
通過する。
肥大したAGIが私を前方へと押し出せば、十字の中心には人の形は残らず剣同士がぶつかりあい、自壊していく。
……成功!
『星』スキルで選んだバフは二つ。『光剣追撃』と、三十秒の間に一度だけ自分の身体を透過させる『トランスパーレンシー』。この透明化はただ一度、僅か一瞬とはいえ無敵時間を生み出せる。
見ないで弄るメニュー操作は練習した正確性を再現し、表示位置を固定したアイテムが手元に現れる。十字を砕けば、纏う光が変容していく。
トランスパーレンシーにはさらに特異がある。効果を使いきってもバフ時間が継続することだ。変容の効果を加味されたのかその何の意味もない時間は、けれど新たに触媒を叩き壊せば時間余りを別の効果へと引き継げる。
剣の壁を超えれば二の矢は無い。超えられると思わなかったのだろうか、シオンの顔は僅かに驚きが走っていた。そのまま彼女はランタンを揺らし新たな花弁を舞い上げるが、スキルの重ね掛けをした私は剣が生まれるまでの間に追い越していく。
加速された身体は何より速くシオンの元へと私を運ぶ。
「これ、でッ!」
「…………」
振るう剣は紅と黒の軌跡を宙に描きながらシオンを傷つけんと空気を裂いて。
「…………え?」
花と、消えた。
剣葬の刀身、シオンを刻むはずだった刃が消える。折れたわけでも、欠けたわけでもなく、消しゴムでその部分だけを擦ったように不自然に消失する。
代わりに生まれたのは蒼い花。シオンが操る色と全く同じ蒼花が、剣葬が斬るはずだったシオンの身体の表面に生まれる。
私が纏う星の光が生み出した小さな光の剣がシオンを襲うが、結果は同じ。かき消され、代わりに蒼花が世界に存在を主張する。
まるで、シオンへの攻撃全てが花に変換されたかのように。
「まさか」
呟きが痛く耳を打つ。
「『極限』にその程度が通じると?」
ぐさり。
あまりにあっさりと、白く欠けた色の刃が私のお腹に突き刺さる。
内臓を掻き分けられる感覚がまずあって、熱が次にやってきて、最後に痛みが駆け巡る。何の感慨も見せずにシオンは足を持ち上げ。
突き刺さる剣、その柄尻を強く蹴り飛ばした。
轟音。生まれた衝撃が全身を叩く。
身体との摩擦と内臓の圧迫によって固定されていた剣が今一度推進力を得て貫き進む。容易く私の身体を喰い破った金属は遥か後方へ飛び去って、蹴りの衝撃に吹き飛ばされる私はお腹に穴を空けたまま僅かに宙を揺蕩って落ちる。
「……っ、あっ、ぐぅ……!」
揺れた仮想の頭が物理的に考える時間を奪う空白を作ることをPMギアに容認させる。働かない思考は一瞬前の出来事を、ただ絵画のように浮かべ続けるばかりだ。
「……理不尽だと思いますか、この蒼が」
シオンの声が降る。けれどそれに答えるほど脳が働かない。
お腹に空いた穴に手を這わせれば、掴むのは花弁だった。私を穿った穴から流れ出るのは血液ではなく、蒼い花。
「……えぇ、そう思います。私達もそうでした。理不尽だと……叫んでどうにかなるならどれほど良かったでしょうか」
奇妙な状況だった。穴が開き、熱と痛みが身体を駆け巡り……これほどの重傷だと言うのに私のHPは消えていない。
「この力に見覚えがあるでしょう? 彼が振るうそれと同じ、世界を侵す禁忌の力。……そう、ミシェリアと解析し、カジムの献身と数多の犠牲を糧に手繰り寄せた蒼の花。けれど……わかりますか? 私達は敗れた。それでも、敗北したのです」
熱と痛みが駆け巡る脳がぼんやりと捉える言葉の断片は、確かに私の脊髄を通って刻まれる。
……この、理不尽で。負けるの?
「夜ッ!」
戦場を切り裂いたのは悲痛な声だった。聴き慣れた声が感情に歪む。
「ア、ドハ……っ」
空間が歪み、瞬きの間に人外の美貌を持つ少年が私の隣に出力される。
手を握られて。
「『無形』……何を」
「アンドレイに挑むのは一人じゃない! 君も認めたことだろっ、選手交代だ! リーリッ、許可!」
「……リラちゃん?」
「……どうぞ」
「は~い」
「何、を」
「一旦引くよっ!」
握られた手に熱が籠る。空間が歪んでいくのを感じる。私が横たわる水晶が、次元の違う何かに干渉されてぽっかりと穴を開ける。奈落の底へ通じるような漆黒の穴。
そして、私とアドハは落ちていく。
* * *
「良かったのぉ~?」
「答えを問う戦いです。最低限の力を示せないのは落第点ですが……『無形』もいます。彼に対してどのような答えを出すのか、決断も、実行も、聞き届けてからでも遅くありません」
それに、とシオンは一つ置いて。
「試すべき相手は、もう一人」
視線の先では空間が揺れている。渦を巻くように歪み、やがて一人分の影を創出する。
それは軍服に似た装備を纏った青年。アンドレイに一撃を与えた……強敵たると認識されたプレイヤー。
「…っ、なんだッ!」
「ようこそ、アレェリスタ。『狩人狩り』、言ったでしょう。貴方も試される権利がある」




