緞帳の向こう側は慌ただしく
炎が燃え盛る。
黒の大剣が熱を帯び、文字通りに火力が増す。
鋭い目つきで前方を向けば、一定の間隔で蠟燭が立っているだけの暗く狭い、自然のトンネルを整備しただけのような土造の一本道と、行き先を塞ぐようにこちらを威嚇する大蛇の姿があった。睨まれたのがわかったのか、敵意を剥き出しにして素早く攻撃姿勢に入る。全身の筋肉を躍動させ、紫の鱗で覆われた体躯を存分に生かした突撃。
空気を切り裂いて奔る毒々しい大蛇が目前に迫るのを見つめながら、すぅっと、一息吸う。いらないとわかっていても、それでも籠めてしまう力を苦々しく自覚した。苛立ち、鬱憤、後悔、無力感……負の感情がないまぜになった内面は黒い渦が暴れているようだと、制御できない激情が人の形をとっているかのように思ってしまう。
吸い込んだ空気を吐いて、黒の大剣を掲げ。
「フッ!!」
振るう。
熱が空気を焼き切って、大剣が大蛇の首を薙ぎ刎ねた。
重力に逆らった首が空中を跳ね、運動エネルギーを消費しきれない身体は死を理解できないかのようにそのまま後方へと駆けていく。
一拍置いて、大蛇……運営からペナルティを受けたプレイヤーが送られる特別フィールド『監獄陵墓フラジャイル』に巣くうエリアボス『勇毒蛇ミアイラ』が光に消える。同じタイミングでシステムメニューが開き、入ってきた経験値によるレベルアップと、ドロップアイテムのリストを表示した。
「クソッ、まだか……!」
苛立たしさを隠そうともせずに時計を見る。
監獄には『刑期』があり、指定された時間を監獄で過ごさなければ、他のフィールドに出ることは叶わない。自分の景気はあと少し……けれど時計は望む時刻を表示しない。
それに舌打ちをして、目をシステムメニューへと返す。向けられたのはレベルアップ通知でも、ドロップアイテムのリストでもない画面だ。開いているシステムメニューはもう一つある。
現在時刻で開かれているイベント、『ダンス・デッド・アライブ』の数十ある配信視点の中でただ一つ、ある人物を映している視点だ。
映っているのはスーツを着込んだ少女と軍服に似た服装をした青年。
『ほら追撃だ!』
『いちいち宣言してんじゃないわよ!』
武器と武器をぶつけ合う戦いは自分の目にも、僅かなコメント欄の反応からも異様さが際立っていることがわかる。青年が剣を振るい、少女が捌く。呼吸によって上下する胸、立っているだけで微妙に揺れる身体。細かな動きはどこか画一的な動きを見せる補正下のアバターにはありえないものだ。
「シャオレン……!」
画面の少女の名を呼ぶ。しかし返事はない。監獄は個別フィールド、他の監獄入居者とも交流などはできはしないし、できたとしても暢気にパーティーを組んで攻略するということはしないだろう。
「…………紙月、えいるッ」
黒と負で塗られた感情で、自分……カノンが呼ぶ名前は一つ。画面の少女と繋がるだろう少女の名前。
志島夏音を殺した少女の名前だ。
画面ではシャオレンと男がさらに交錯する。
刑期はまだ、終わらない。
* * *
「え? 団長が死んだ?」
「そうみたいだよー。予想外というかいつも通りというか」
リロフト中層、積み木街ミルナの一角にて。
火龍騎士団のイベントリーダーたるテオラと、斥候の一人であり幹部でもある桃は話していた。
「……また単独行動して」
「ロアちゃんだから仕方ないって! それよりさ、私達どうしよっか?」
「どう、とは? 団長がいないくらいいつものことです、いつも通りに」
「でもさでもさ、ヴォーサイもライラックもいないんだよ? 今回って『極限』権目当ての無理な囲い込みを牽制しに来てて、それならもうお役御免どろん! でいいんじゃないかな」
「それは……」
確かに、そうだけど。
「勿論私達がイベント楽しんじゃいけないってわけでもないけど。でも私、霧っちとの約束押して来てるから、負け抜けできるならそれがいいかなーって」
「はぁ……そうですねぇ。無理言って連れてきたメンバーもそこそこいますからね。ここらが潮時、でしょうかね。私はリーダーだから気軽に抜けれませんけど」
「ごめんね、初心者を助けたいってテオラちゃんの考えは立派だと思うけどね?」
「いいですよ、元々私の勝手で始めたことですし、協力してもらってるだけ……いや? 元は勝手に知らない人を助けたきりにしてる団長が悪いのでは?」
「あはは、そーだそーだ、ロアちゃんが悪いんだ―!」
「それじゃあ桃、戻ったら団長が悪いって頭叩いてやってください。あ、その前に抜けたい人は抜けてもいいって伝えてもらっていいですか?」
「いいよ。テオラちゃんはどうする?」
「……そうですね、私は残ったメンバーで一位を狙いにいってみます。火龍騎士団ここにありってこと、見せてやりますよ!」
「うんうんわかった、それも伝えとくね、一位になりたい人は残れって!」
「はい、よろしくお願いします」
「うん! ……あ、そういえば」
「何ですか?」
「あんまりゆっくりしてたら、ロアちゃん、礼の従妹と二人っきりでレベル上げとかいっちゃうんじゃない?」
「………………」
「テオラちゃん? わっ、凄い顔」
「……許せませんね、それは。ええ、最速で一位を取って、私も手伝いに行かなければ!」
「わぁー嫉妬いっぱーい!」
* * *
PMギアを取ってまず感じたのは、ズキズキと私を襲う頭痛だった。
痛い、重いし、仄かに熱くなってくらくらする感じさえする。
現実で寝ているだけでも、仮想世界では大立ち回りの連続を繰り返した私の脳は過熱と消耗を隠そうともせず、早く寝て脳機能の回復に努めるべきだと実力行使で語りかけてくる。身体の悲鳴に素直に従いたい気持ちもあったけれど、夜には一度みんなと話す約束があるし、今の時間はまだまだ昼の世界の中。寝れば中途半端な時間に目を覚ましてしまうだろうから寝るに寝られない。
身体を起こせばたかだか数時間横になっていただけだと言うのに錆びついてしまった関節が軋みを上げた。痛みにもならないほど微細な痛覚が全身を巡り、身体の駆動を細胞に知らせる。
ああ、お腹もすいた。
身体全部のリソースで脳の過熱を後押ししたようだ。もしアルプロみたいに身体の調子をゲージで表すことが出来るなら、今の私は全てのメーターがゼロに近いところまで振り切っているだろう。
ベッドから降りる。三月の室内の床は冷たく、私の足を刺激した。ほんの少し顔を顰めたまま部屋の出口たる扉へ向かう。
開け、外へ。続けて隣の部屋のドアをノックする。
「えいる? いるんでしょ?」
声に、ああともううともつかないうめき声のような返事が返ってくる。ドアを開けるか一瞬迷って、それでもやっぱり取っ手に手をかけて、開く。
「……えいる?」
「……ああ、あ」
それは、怯える小動物のよう。
えいるが椅子の上で体育座りをしながら身を縮めている。恐ろしいものから身を守るかの如く、きつく腕で脚を抱え込み、顔を埋めていた。
「えいる……どうしたの?」
「……いや、わたし、わたし……」
「えいる、ちょっと」
「こないで!!」
明確な拒絶の音が私を貫いた。
えいるの腸の奥底から生まれた声が、牢獄のような無機質な部屋に反響する。
「こないで! 知らない、聞きたくない、見たくない……! わたしのせいだわかってるでも、でもどうしろって言うんだ?」
「ど、どうしたってのよ、ちょっと」
「わたし、わたしが、わたしに……今更……向き合えって、言うの? ねぇ夜。もう、のんちゃんは、いないのに」
「それは……」
「息してるだけで苦しくて、眠るたびに身体が腐る夢を見る。……でも、死ぬのは嫌だ。じゃあ、何すればいいの? 何をすれば救われるの? あのゴスロリは、友達を大事にしたかったんだって、でも、あの人の友達は、死んでなんていないだろ」
そこでようやく、えいるの怯えの原因に気が付く。
私の視界はえいるのPCのモニターと連動し、私の今日の戦いの全てはえいるに共有されていた。
それはつまり、えいるも狂いの慟哭を聞いていたことになる。
狂いの想う大事な友達の話。それは否応なく、えいるの親友であった志島夏音のことを思い起こさせるきっかけになってしまった。
「あの人は向き合うことから逃げて、勝手に傷ついていた。足りなかったのは勇気で……だから夜が背中を押してあげれば、前を向けたんだ。…………後悔の先を見に行こうって、言った。でも、先って何? 前を向いて、向き合ったところであるのは、のんちゃんが自殺したって事実、だけなのに」
志島夏音は自殺した。それは変えられない過去で、事実だ。誰よりもえいる自身がそのことを知っている。
人は時間旅行が出来ないから、起こした結果を改変できない。生まれてしまった傷は、治療するか抱え込むか膿んでどうしようもなくなるかの三択の未来に集約される。
そして、後ろに歩いて行けないなら、それ以外を向いて歩くしかないんだ。
「生きてる限り、痛んで、苦しんで、泣きそうで、死にたくなって、でも死にたくないって、言う」
「……ええ。私達はもうお終いで……だけど、終わりじゃない。息をして、心臓が動いている。だから続く先がある。えいる、何もしないままなら知らないままだわ。志島夏音のこと、どうして彼女が自殺したのか」
「……知りたくない」
「……それも選択の一つよ。でもね」
狂いの嘆きを、アレェリスタの劣等感を、そしてヘレンの絶望を知って、彼らの心臓と脳の奥底の声を聞いた。
どうしてヘレンが手伝ってくれるのか、どうしてアレェリスタが『極限』に固執するのか、どうして狂いが私に敵意を剥き出しにしたのか。その理由は全て彼らの感情と直結していた。
きっと何も知らないままなら、乗り越えるべき障害としてだけでアレェリスタと狂いを退けて、ヘレンについても手伝ってくれる便利な人とだけ思っていただろう。それはアドハが言う、『極限』をゲーム的に攻略するプレイヤーと……表層だけをさらっていく人間と何も変わりはしない。
「知ろうとしないならここで終わりよ。志島夏音は、貴女の中で苦くて苦しい思い出の一つになって、それでもう、終わり」
誰かを知るってことは自分の世界の中にその人を落とすことだ。何を考え、何が好きで、何が嫌いで何がしたいのか。知らないままでは見過ごしていたことを見過ごせなくなること。
だから知ることを放棄するならば自分の世界の外のモノになってしまうことを意味している。志島夏音の死に至った理由と絶望の全てを無視して、『自殺した』という事実だけが心に影を落とす原因になる。
「ここで終わらせるの? 私は知るべきだと思う。志島夏音の感情を知ることでしか……えいる、きっと貴女は救われない」
「……そ、んなこと、言ったって」
えいるは顔を上げず表情を見せない。埋めた顔についた目が映すのは暗闇だけだ。
視界を覆う黒の中はどうしようもなくえいるに志島夏音のことを考えさせる。
……結局えいるも狂いと変わらない。
やることはわかっている。何と向き合えば、何を知ることが出来るのかもわかっていて。その答えを知るのが怖いから足踏みをしている。
他人の考えと価値観なんてわからないから、傍から見ればどうしてやろうとしないんだと簡単に言えてしまうことでも、当人にとっては命の次に重たいのものかもしれない。
そっと、部屋の外に出る。『極限』権について、えいるにアルプロに入る練習をしようだとか、そういうことを言うのはどうしても憚られた。
これ以上言えることはなくて、出来ることもない。
後は、えいるの選択を待つだけだ。
* * *
【規定時間です。所定の場所へ転移します】
無機質なシステム音と共に、世界が壊れた。土中の陵墓は跡形もなく姿を消し、すぐさま広がるのは木造部屋の一室、その景観だった。
サントレアス魔法学院ゲストハウス。サントレアススタートをしていないプレイヤーが使うことを想定されたセーブポイントの一つ。お金を払えばより良い部屋に案内してもらうことも出来るが、この狭さは最低ランクの部屋のモノだ。備え付けられた家具もどこか古臭く、手入れもあまりされていないようだった。
ぎぃぎぃと軋むベッドからカノンは跳ね起きる。反動でひと際強くベッドが啼いた。
家具の悲鳴を無視してシステム画面を開けば、表示されるのはイベント配信視点。人が減り、随分と数を減らしたそこにお目当ての人物は映っていない。
「どこに行った、シャオレン……!」
イベント配信はあくまでイベント中しか映さない。当然途中で敗退したプレイヤーの行く先を示す機能などなかった。
役立たずと内心舌打ちをしながら画面を閉じる。
とにかくリロフトだ。シャオレンか、シャオレンの仲間たちでも捕まえることが出来れば……!
逸る気持ちにアバターが追従し、素早くゲストハウスの一室、その唯一の出入り口たる扉を開け放ち、
「……やぁ、待ってたよ?」
カノンの目に飛び込んできたのは、この世の元は思えない人外の美貌だった。




