RとSはもう揃い
泣き声と叫び声が合わさって白い牢獄の中を反響する。どうしようもなく救えない獣が二匹、ただ身体を重ねて行き場のない感情を押し付けあう。
泣きじゃくりながら、えいるは何度も死にたくないと口にした。眠りも、無表情の仮面も、敵意の自衛も介さない、紙月えいるの心の底からの声が、私の喉から出る醜い叫び声に紛れて耳を揺らす。
首を絞めていた手は、気づけばえいるの背中に回っていた。
ただ何かに縋りついていないと心が張り裂けてしまいそうで、意味もなくえいるを抱きしめて、腕に力を入れた。
温かさが伝わる。身体が動いている証の体温が、自分はまだ生きていると私に主張してくる。
死は、救いなのか?
死にたい人だって、きっといる。
でも、少なくともえいるは違った。死の淵の間際で死にたくないと声に出した。
えいるにとって、死は、救いにならない。
えいるの選択は、魂の在り方は。彼女の慰めになんてなりはしない。
ぎゅっと、えいるも私の背中に手を回した。華奢で、触れば壊れてしまいそうな身体が、だけど強い力で私にしがみついてくる。
私達二人して、お互いの身体に縋りつく。濁流の中を泳いでいるかのように、この手を離したならばすぐさま流されて消えてしまうのだと、心のどこかが理解しているようだった。
「やだぁ……! もう、いやだっ……」
「えいる……」
あまりに近い顔同士だから、えいるの吐息が私の髪を撫でた。熱く、苦しい息が彼女の肺を満たして苦しめる。
生きるか、生きないか、死んでしまうか。
生きるのが辛い。だけど、生きないまま忘れてしまいたくなどない。でも、死にたくない。
えいるの道は、その全てが彼女の救いにならない。
えいるは救われない。何をどう選んだって苦しむだけだ。
彼女の瞳に浮かんだ大粒の涙を、親指で拭った。熱い液体が指を焼く錯覚に囚われる。
「助けて……! 助けて、のんちゃん……夜……っ!」
その言葉に、誰も答えない。志島夏音は死んでしまって、私はえいるの苦しみを解く方法など知らない。
えいるを救うには、志島夏音が必要だった。えいるのたった一人の友達が彼女の肩を抱いて慰められれば、えいるはきっと苦しみから解放されて、笑えるのだろうと思う。
だけど。
私は……いや、誰も、志島夏音の代わりになんて、なれはしなかった。
* * *
時の刻みは早く。
泣き疲れたままいつの間にか閉じていた目を開いたならば、部屋の中は真っ暗だった。
ぼんやりと靄がかかった脳が、ゆっくりと覚醒を始めて、徐々にピントがあっていく視界は何もない部屋と私の下敷きになっていたえいるを映し始める。
泥濘にはまったように体が重い。えいるの上から離れるために体をほんの少し動かすだけでも億劫だった。
それでもなんとか強張った体を動かしてえいるの隣に着地する。生まれ持ったとは思えない程の美貌が、赤子のように純粋な寝顔を晒しているのが至近距離で視界に入った。
眠っていても泣き続けていたのだろうか、えいるの目元はすっかり赤く腫れあがって、それは多分私も同じだった。
そっと、赤い腫れを撫でる。くすぐったかったのかえいるが僅かに身じろぎした。
えいるは今も、身体が腐っていく夢を見て。覚めることのない夢が、ずっとその身を蝕んで、ただ苦しみだけが続いていくのだろうか。
問題があって、だけど答えがない。出口のない迷路を延々と迷い続けている。
頬に手を添える。やっぱり温かい人肌が、じんわりと熱を分け与えてくる。
…………このままずっと、眠り続けているほうが、えいるは幸せなんじゃないか。目覚めさせてしまったのは、悪いことだったのか。今更な後悔が胸の内からやってくる。考えたって仕方ないことだけど、どうしたって考えてしまう。
「…………?」
僅かな声と共に、ゆっくりとえいるの瞼が持ち上がった。小さな呼吸が耳をくすぐって、頬にあてた手が、目元の筋肉の動きを手のひらで捉えた。
まだ思考がぼやけてるのか、彼女は数舜目をぱちくりさせて、頬に乗せられた私の手に自分の手を重ねて。
突き飛ばされた。
「近い。離れろ」
「押すことないでしょっ」
壁に密接したベッドから押されて、あともう少しで後頭部が壁に激突するところだった。頭打ったらどうするつもりだったのよ。
「なんでまだいるの」
「私も起きたばっかりなのよ」
「さっさと出てって」
「怠い」
「出てって!」
ぐいぐい壁に押される。そんなにされたって出口から遠ざかるだけなのだけど、えいるの頭はまだそれほど覚醒していないらしい。
仕方ないので、重い体を億劫に動かしてベッドから起き上がる。関節の骨がぱきぱきとなった感覚があった。
乾ききっていない接着剤を無理やり剥がすような感覚と共に、這う這うの体でベッドから抜け出す。日本の足で立ち上がることさえ怠かった。
振り返れば、泣き腫らしの目を持ったえいると目がある。何か言おうか考えて、だけど何て言っても何の慰めにもならないことだけがわかっていた。
えいる、と名前を呼んだのに対して意味なんてなかった。ただ口をついて出ただけの言葉に、少しだけえいるが反応する。
「なに」
「えっと、その……いや、なんでも……ううん、そうね」
「なに」
「…………ねぇ、やることがないならリミ」
言おうとして、えいるはPMギアを被れないことを思い出す。そんな大事なことを忘れていた自分自身への嫌悪がにわかに蘇った。
「リミ?」
「…………なんでもないわ」
「…………そう」
今更だった。何もかもがえいるの救いにならないのなら。
『極限』を手伝ってなんて、口が裂けたって言えやしない。
* * *
「人を! 呼びつけといて! ログアウトとか何考えてるの!!」
「わかった悪かったわよごめんなさいってば」
そのまま一晩明けて、結局えいるには何も言い出せないままだった。
何が言えたのだろうと考え続けるばかりの時間を壊したのは、スマートフォンを鳴らしたSNSの通知。かかってきたヘレンは怒り心頭のままログインしろとしつこくメッセージを飛ばして、それでログインするとこれだ。
「わかってるの!? イベントは明日なの!! お前の無駄なメッセージでわざわざこんな廃れに来るのだって時間かかるんだから、面倒なことするななの!」
「悪かったってば! ごめんなさい!」
こればっかりは私が悪いので下手に出るしかない。
アム・ロックの船上に、女児の甲高い怒鳴り声が響く。それを聞きながら、ヘレンの横で難しい顔をしている自称偉大な大魔導士に目をやった。
「ファイもいるのね」
「ああ……エルが入れないことは聞いた。君はどうだ? 今日でだいたい一週間だ、シャオレン」
「少なくとも、明日は参加するわよ」
迷いも憂いも、全ては最悪の形で粉々になった。匙もナイフも手の内からすっかりと消え去って、もう、私の中には何も残っていない。ただ救われないえいるを、救われないと知りながら見捨ててゲームに入り浸る最低な私だけが、人間の輪郭を持ったままいるだけだった。
「そうか、ならいい。エルが『極限』権を持っていた場合の、万が一の時の策も用意した」
「万が一って、後ろのそれ?」
ファイに向けた視線を後ろにやれば、船の縁に足を乗せて無駄にかっこつけている一人の男が目に入った。
何の特徴もないような、それが特徴のような。黒髪でそこそこの身長の男は、風で翻る白のコートを纏っている。
「それ扱いは酷いんじゃないか? 初めましてだな、シャオレン!」
とうっと言って、その男が縁に両足を乗せる。そのまま大ジャンプ、宙がえりをしながら、ファイの横に着地した。人の好さそうな顔が、気難しいファイの隣に並ぶ。
「『火龍騎士団』団長のロアだ。よろしく、シャオレン」
「…………よろしく、『団長@単独行動はもうしません』さん?」
「罰ゲームなんだ。酷いよな、ちょっと団内で討伐予定だったクラスⅣボスにソロで挑んだだけなのに。名前は一か月変えられないしさ」
「うーん、こいつもしかしてゴミ寄り?」
「そなの。大体、トップクランの頭なんて変人ばっかなの」
「お前に言われたくないぞネカマ。そだそだ、ヘレン、新作ない? オールヴェン倒したんだろ?」
「残念使っちゃったの。私とそこのマヌケの分で」
「じゃあ俺からディアムリーア出すからそれで何卒」
「魔法改造武器はあくまで武器の加工。素材で一から作るのは無理って、何度も言ってるのに、いつになったら聞く耳持つのお前は」
「だってウチの生産職は魔法改造武器にするっていったら怒るしさぁ。じゃあ鍛冶組合使うって言うとまた怒るし、全く嫌になるよな」
「団長! なにしてるんですか!」
今度は背中側から声が響いた。女性の声は、私達を素通りしてロアを打つ。
「今日は鹿の討伐の付き合いでしょう!? みんな首を長くして待ってるんで……げっ、ヘレンにファイ!」
「人を見るなりそれはどうなんだ」
「全く失礼しちゃうの」
「だ、団長? どうしてそいつらと? こいつらに関わると碌なことにならないのはよくわかってますよね?」
「お前のとこの団長は『ヘレン・マジックギミック』の常連だってことわかって言ってるの?」
「ロアもウィリルスの常連、団長だからって贔屓されるのはおかしいと思わないか?」
「うるさい!」
「……なんなのよ、こいつら」
いつの間にやら声を出した女以外もぞろぞろと甲板に現れる。老若男女に人外問わず、人の気配が希薄だった船の上は、途端に喧騒に飲まれていった。
「何度か聞いていないか? 火龍は初心者救済クランだ。主に慣れない初心者の援助を主として活動している」
「別に俺はそんなつもりはないんだけどな、やりたいことやってるだけで」
「でた、こーいうとこ。無自覚鈍感系主人公気取りなの?」
「ならモテさせてくれよ。なんならお前でもいいぞ、自慢じゃないが俺はネット越しの恋愛ならアバターと対応が女ならネカマでも喜んで付き合えるタイプだ! ネカマが現実でも美少女でしたって設定のラノベを愛読してるからな!」
「マジで自慢じゃないのこっちからお断りなの。……シャオレン、あれがどうしようもない朴念仁ってやつなの。見た? 後ろの取り巻きの空気が一瞬で冷えてったの。歩く修羅場製造機なのこいつ」
「そのうち刺されそうねぇ」
「いっそ刺されたほうがいい。一回こいつも人間関係を理整理しないと、対応に追われる幹部連中が可哀そうだ」
「その幹部連中が一番人間関係をややこしくさせてるのが火龍のやべぇとこなの」
「うるさいですよ! クラン外の人にごちゃごちゃ言われたくありません!」
ぜぇぜぇ肩で息をする巫女服の女が、ぎらりと細長の目でこちらを見た。口元でぼそりとまた新しい女……? と呟く。そのカテゴリーに入れられるの、ちょっと不満あるんだけど?
「ファイ、こいつらどうしたのよ。火龍って、確かイベントに出るって……っていうか、お前クラン入ってたの?」
「いいや、これは単なる伝手だ。ロアだけ呼んだつもりがいつの間にか邪魔者がいっぱいついてきた」
「邪魔とはなんですか邪魔とは! そもそも団長の今日の予定は既に埋まってて」
「あ、テオラ。今度テオラから霧切に魔法改造武器用の武器作ってくれって言ってくんない?」
「このタイミングでするお話ですか!?」
もうこれ以上ないというくらいの勢いでテオラと呼ばれた女は声を張り上げた。むなしく、船上と波間に響いて声は消えていく。
「で? 策ってなに?」
「ああ。ロアの人たらし性能を使って『極限』権持ちの初心者をひっかけてもらう」
「言い方が詐欺のそれなのよね」
「変な言いがかりはやめてくれって。努力はするが、俺が誘ったって誰も来ないほうが可能性は高いだろ」
「ほら台詞が主人公なの。こういうこと言う奴は大抵一人二人くらいひっかっけて帰ってくるの」
「完全体の『極限』とやりたいだけなのに酷い言われようだな。ま、最悪従妹でも誘うさ、今度やっとゲームできるかもって喜んで電話してきたしな」
「従妹?」
ぎろりという擬音が聞こえそうな鋭さでテオラがロアを睨む。なんなんだこいつら、地雷ばっかりじゃない。
「……いや、いいです。まったくよくありませんが、いいです。それより、ほら団長! みんな待ってますよ、鹿倒しにいきます!」
「鹿くらいみんなで倒せるだろ。それより俺は魔法改造武器の為にクラスⅣ素材集めに行きたいんだが」
「自分の名前を声に出して読んでください! 団長が行くって言うからいつもより人数集まったんですよ今回は!」
「八人レイドじゃん、あぶれるだろ」
「全部のパーティーに団長が入ってください。周回です」
「ぶ、ブラックだろ……! クラスⅡのボスに俺が入ったってしょうがなくない?」
「ご安心を。大半が初心者なので。ええ、団長に! 助けられた! 初心者たちなので!!」
「そんな助けたっけ? 死にそうになってたパーティーに参加くらいはしたけどさ」
「ほら、さっさと行けなの。お前に期待してたのはシャオレンとの面通しだけなの」
「なんならシャオレンも行くか? シャオレンからしたら格上だろ、いい経験になるんじゃないか」
「団長!」
「残念ね、フィールドに出れないのよ私」
「さっさと行けなの朴念仁!」
ヘレンにぐいぐい背中を押されて、テオラに腕を引っ張られたままロアは船上から遠ざかっていく。何しに来たのよ、あいつ。
「…………で、ええと。火龍は、イベントで私達側につくってこと?」
「そうだ、と言いたいが、ロアは戦闘狂だ。僕やヘレンを見て戦闘を仕掛けてくる可能性も十分にある」
「何よそれ」
「シャオレンは安心するといいの。明らかに初心者なシャオレンだったら、面識がない火龍のメンバーでも、シャオレンから攻撃しない限りはわざわざ倒しにこないと思うの」
「それと『極限』権がロアから与えられる場合、あいつと恐らく火龍から何人かが『極限』に参戦する。割り切ってくれ」
「…………まぁ、仕方ないわよね」
だってエルが入れないのだし。そもそも私が『極限』戦のメンバーを選ぶ立場にいるのは、ひとえに『極限』権を私とエルが持っているからに過ぎない。それの確率が半々になるのなら、私の立場だって揺らいでいく。
…………『極限』、か。それを超えて、救いを探す。アドハはそう言うけれど、だけど本当にそれで救いが見つかるのだろうか。
アンドレイ、答えを探す狩人……いや、違う。選択を後悔した狩人の、その後悔を知ったところで何が……。
…………選択を、後悔?
…………それは、それはっ。
思い立てば、居ても立っても居られなくなった。慌ててログアウトを押す。ヘレンとファイに何も告げずに仮想世界から消え去った私が、現実世界に帰ってくる。
急いでベッドから跳ね起きてPMギアを脱ぎ捨てば、逸る足は隣室へと。
扉を開く。ベッドの上に、今日も目を赤く腫らした少女が一人座っている。
私を見た。昨日の光景のフラッシュバックで、一瞬で顔を青ざめる。
「えいる!」
「な、なんだ……っ?」
選択を後悔する。選んだ答えが正しいと嘯きながら、それでも、何か間違えたのかとずっと悔やみ続ける。
それは、きっとえいるのこれからだ。
何かを選ばないことなんてできない。何も選ばなければ、選ばないことを選んでしまうだけだ。えいるはこのまま、また眠るか、生きていかないか。傷が時間によって癒え、感情が時間の臼で擦り減っていくのを呆然と眺めるだけだった。
そして、その先で後悔する。どうしてあの時と、そればかりが心に残る。
だったら、私は。
えいるの肩に手を置いた。恐怖を張りつけた彼女の顔が視界いっぱいに広がる。
もう彼女がPMギアを被れないだとか、そんなことさえすっぽりと頭の中から消えてしまっていた。
「……手伝いなさい」
「なにを……?」
「私の『極限』を、手伝いなさい」
「何それ」
「お前は……私達は、もう、お終いなのよ。どうしたって、どうにもならない」
「っ! ……そ、そんなことわかって」
「お終いで……だけど、終わりじゃない。生きてる限り、痛んで、苦しんで、泣きそうで、死にたくなって、でも死にたくないって言うのよ」
「…………っ」
「それなら、それなら……私を、手伝ってよ。どうせ苦しむだけなら、私と一緒に……後悔の先を見に行きましょう」
「後悔の先……? 意味、わかんない……」
「今から話すわ。この二週間のこと、これからのこと、私とアドハのこと……聞いてもらいたいことが、いっぱいあるの」
肩に置いた手は背中に回った。またえいるを軽く抱く。
熱がある。生きていると主張する温度が、淡く、だけど確かにえいるの存在を主張する。
どうしようもなく救われない。そんなこと、最初からわかってる。
それでも、救いを探すんだ。
「一緒に行きましょう。アンドレイの選択と答えを、魂の在り方を。私達は、知らなくちゃいけないんだ」
「…………」
黙ったまま、だけど、えいるは近いと私を突き放さなかった。肩に顔を埋める私の真剣な声色に、何かを思うものがあったのかもしれない。
その内彼女が私の頭に手を置いた。無言のまま、それは優しく頭を撫でた。
きっと言葉の意味を理解なんてしていない。
それでも私の本気を受け取ったのだと、そう、信じたい。
やがて彼女が ぽつりと呟いた。
衣擦れの音でさえ消えてしまいそうな、儚い声が、だけど、私の耳に響いて、溶けた。




