笑えないと笑ってる
私を、殺して。
鈴の音を思わせる声が、私の鼓膜を響かせて。
右手に、今まで握っていた剣たちの、柄の感触。視界の隅で、鈍色が光って。
私は、それを、えいるの、首に。
血が、飛び散る。
むせかえる血の臭いに目を覚ませば、そこは見慣れた自室だった。
心臓がばくばくと早鳴っている。嫌な汗が背中を伝った。荒い息が、さっきまで私を包んでいたものが現実ではなく、だけど確かに脳の中では存在していたことを証明するようだった。
それはまさしく、悪夢だった。
部屋の中は冷たい冬の空気に満たされている。血の臭いなんて、どこにもない。
なのに、何も握っていないはずの右手には、肉に剣を突き立てる、生々しい感触が残っていた。
* * *
朝食にとリビングに下りれば、そこにえいるの姿はなかった。目覚めてからのえいるは時々一日中部屋の中に籠り続けることがあるので、それは別段特別なことでもない。
よかった。昨日の今日で、顔を会わせたくなどない。
…………でも、いつかはえいるに向き合わなくちゃいけない。会わなくてほっとするのは、答えを先延ばしにしているだけの逃げにしか過ぎないのに。
あいるさんが作った朝食をゆっくりと食べる。トースト、サラダ、オレンジジュース。考え事をしながら胃に詰め込むだけの作業に、味覚なんて働きようもなく、ただ脳を動かすための栄養だけが無感動に体の中に収まっていく。
さっさと朝食を片付けて自室に戻る……途中で、えいるの部屋の前で、足を止めた。
この家を取り囲む住宅と比べると本当に小さなあいるさん達の家だけど、防音耐震などの設備は一級品の技術が使われていて、私の目の前にそびえる薄い扉は頑固に部屋と廊下との音の振動を遮断している。
だから、耳を傾けてみたところで、えいるの呼吸音さえ聞こえない。
この扉の向こうにえいるがいる。あの白い牢獄の中で、まだ、息をしているのだろうか?
私を殺して。
えいるは選んだんだ。傷を抱えて生きていくことより、腐ったまま生きていかないことより、死んでしまって時間を止めることを選んだ。
…………私はその答えを、咎めることなんてできない。
多分あらゆる人がえいるの答えを否定する。死んではダメだと、慣用句のように定型文を吐き出すだろう。そして、それは概ね正しい。
自殺なんてその場の衝動だ。時間はあらゆることを摩耗させて、私達は一年前の今日に何が起きたのかさえ覚えていられない。ゆっくりと時間が感情を擦り減らしていった先で喜びが見つかるのなら、感情のままに死んでしまうことはきっと浅はかだ。
だけど。
擦り減らしたくない感情だって、ある。
人は変わる。変わらないのは死人だけだ。変わりたくないと望むなら、時間を止めるしかない。
…………ここで、扉をノックして。でてきたえいるの首を、この両の手で絞める。
人形のように美しいえいるの首、心配になるほど細い。きっと首を絞めたなら、途中でぽっきりと折れてしまっても不思議じゃない。
恐ろしいほど簡単なこと。彼女の生死が、私の手の中に握られている。
私が言ったのよ。魂の在り方を決めるしかないって。なのに、どうしてえいるを殺してしまうことを……えいるの選択を叶えることを、躊躇うの?
扉をノックするだけだ。えいるにあって、手を伸ばすだけだ。
とっても、簡単なこと、なのに。
立ち尽くしたまま、私は動けなかった。石になってしまったかのように腕が動かなかった。
どうしようもなくなって、だけど自室に帰る足だけは動いてしまった。自分の部屋の扉を開けて、そのまましゃがむ。
えいるの部屋の扉を開けなかったことにどこまでもほっとしていた。私は、えいるの選択の邪魔をしているだけなのに、それでも安堵している自分を殺してやりたくてしょうがなかった。
選んでいない私と、選んだえいる。前に進んだのはえいるだけ。
そして、彼女は死を望んだ。
もしかしてえいるに死の選択を選ばせてしまうのではないかと、私の選択でえいるを死なせてしまうことを怖がっていた私は、迷う理由を失った。
だから、私だって選ぶべきなんだ。えいるが死んでしまうなら、私はもうえいるに寄り添う必要なんてない。
彼女を見捨てて、私の救いを、探すんだ。
それが、夜のやりたいことなんだね?
夕の声が、脳の奥で、響いている。
* * *
ログインしたのは、多分、意地とやけくそだった。やることもなかったし、あのまま部屋の中でじっと考え続けていたのなら、そのうちえいるの部屋の扉をノックしそうだったから、仮想現実の中に逃げてきた。
…………私は、私の衝動に動かされて、そしていつも後悔する。
えるを殺してしまうなら、せめて後悔がないように……だなんて、そんなもの。
「結局、逃げよね……」
逃げてばっかりだ。現実が嫌なら仮想現実に、仮想現実が嫌なら現実に。しっかり現実を見て両足で立っていないといけないのに、二つの世界を股にかけてやることが現実逃避だけだ。
アム・ロックの海岸に牽引されている巨大船、その一室で目を覚ます。サントレアスの寮室とどっちもどっちな狭さが私を迎えた。
揚陸、という名だけあって、アム・ロックは巨大な船を指している。遥か遠方から旅人を乗せてやってきたアム・ロックは、未開の大地エスト、その開拓の第一歩となる海岸線に辿り着いた。だから、序開揚陸拠点アム・ロックは潮騒が聞こえる海岸と、そこから続く大地に根差した街だった。
サントレアスやリロフトと比べると随分と質素な造りのこの街は、だけど腐っても六都市とも言える。木造の柵や配線が剥き出しな魔力灯などもう少しどうにかしたほうがいいんじゃないかと思える部分もあるけれど、それでも広く、多種多様な店や人でにぎわっている。
まぁ、大半がNPCなわけだけど。
以前にバカ達が言っていた通りにここはプレイヤーからは人気がない。良くも悪くも最初の拠点は、なんでもできるけど何にもできないという通説の通り、全ての職やクラスをサポートするけれど、その職種のサポートに特化した他の六都市より利便性が劣る。ワープポイント一つで軽やかに六都市を回れる以上、器用貧乏な都市に足を止める人は少ない。
だから喧騒から離れるならここが一番だとヘレンが言ったから、セーブポイントをサントレアスからこっちに移動してきたわけだ。確かにあの寮は見張られていて、いちいちアドハに頼むのも面倒だから、利便性がないとはいえこっちに移動した方がいいに決まっている。
さっさとセーブポイントアイテム(自分で設定した場所でログイン・ログアウトができるようになるアイテム。フィールド・エリア内不可)を取ればいいのだろうけど、それはメインクエストの一章の報酬で、やっぱりフィールドに出ないとクリアできない。殆どチュートリアルの延長で、初心者がどんなに遅くても三日でクリアできる第一章を十日以上引き延ばしているのは、切実な理由があるわけだ。
アイテム、と言えばインベントリアイテムだって、殆どの初心者はすぐこのリュックを捨てて別の、もっと容量が大きいものに変えるらしい。
旅人のリュックは十種類固定でしか物が入らない。回復アイテム数種類に、敵からのドロップだって同じ敵から最低でも三種類程度の素材が落ちるから、このリュック背負ったままではすぐにインベントリアイテムがいっぱいになってしまっておちおち狩りもできないわけだ。
元々狩りなんてできないし、例によって他のインベントリアイテムも大半が討伐クエスト報酬だけど。
フィールドに出れないことが、想像以上に足を引っ張っていた。でも、今更だ。どうせフィールドに出れないのだから、インベントリがどれだけ小さかったって関係ない。
ベッドと机だけの船室を出て、廊下を歩いてく。船の整備をしている船員のNPCとすれ違いながら、歩き続ける先で甲板に出た。
眼下に広がるのは海岸線。そして、そこに広がる野営地と見紛うばかりの簡易的な建物の数々。
これも変辿クエストを達成すれば発展していくらしいが……しかし、今更旨味の無い狩場と隣接しているだけの都市の発展を望むプレイヤーは少ない。その結果が、少し寂しい街の風景だった。
顔に潮風があたる。しょっぱい海水を含んだ風が船を撫でては去っていく。
私の他にプレイヤーの影はない。いくら明日が休みだからって、今日は平日だし午前中だ。人がいないのはある意味当然なのかもしれない。
さっさとメニューを操作してヘレンにメッセージを送る。ヘレンは、まあ大概いるだろう。
甲板の縁、落下防止の手すりに身を預ければ、海岸線に押し寄せる僅かな波が見えた。白い泡が散って、戻って、また押し寄せて散っていく。
思えば、あと二日後にはリロフトで殺し合いだ。アレェリスタを殺す。準備も、算段だって足りていないのに、時間の針は無情にチクタクと前に進んでいく。
アレェリスタを殺して、『極限』に挑む。アドハの言う救済探求、アンドレイの救いを知って、私の救いを探す。
そう、挑むんだ、私は。迷っている暇なんて、どこにもない。ないのよ。
だけど、考えれば足が竦んだ。動きたくないと、私の脳が駄々をこねる。動かなければゆっくり生きていかないだけなのだと、わかってはいるのに。
「おはようございます、シャオレン」
唐突に声が背中を打った。聞き覚えのある声は、脳裏にえいるとは違う人形めいた美貌を浮かび上がらせる。
振り返れば、そこには極端に露出を嫌った黒のゴシックロリータ。フリルが精一杯にその見を飾り立てて、この世の物とも思えない美しい顔が、作り笑顔でこちらを見ている。
「狂い」
「ええ、皇神宮御伽狂言です。お久しぶりですね? 諜報員就職、おめでとうございます」
優雅に、彼女はスカートの端を握ってお辞儀をした。それは初めて会った時を思い出させるような、彼女が本来持っている世俗と乖離する独特の雰囲気を表すかのようだった。
「……ええと、ありがと。げ、元気?」
「ええ。元気も元気ですよ。シャオレンは?」
「まぁ、健康ではあるわよ」
「それは何より。…………リロフトのイベント、ご存じで?」
「……知ってるけど。なに? お前も出るの?」
狂いは柔らかく微笑んでいる。だけど、その笑みが作り笑顔なのは簡単に分かった。以前までの狂いが持たない、突き放したような、どこか緊張した空気が私達二人の間を満たしていく。
「お前も、ということは、シャオレンも出るのですか? 失礼ですが、分不相応では?」
「わかってるわよ、そんなこと。でもバカとの約束があるの」
「…………アレェリスタ、との?」
「ええ。私が勝ったらあのバカが私の『極限』に手を貸して、あいつが勝ったら銃をあげるの」
「勝てないでしょう?」
「勝つために、ヘレンやファイと考えてるのよ」
「楽観的ですね。アレェリスタは、最高峰のプレイヤースキル持ちですよ。ソロノーダメージクラスⅡ装備縛りでクラスⅢエリアボスを攻略できたのはアレェリスタだけですから」
「凄いの、それ? 今度私もやってみようかしら」
「無理ですよ、無理です、絶対に無理です。シャオレンが、アレェリスタに勝つなんて」
「……何しに来たのよ、お前」
「海を見に。そうしたらシャオレンがいただけですよ。カノンさんのPKペナルティが終わるまで、攻略はストップなので、暇なのですよ」
嘘だ。
何か、用があって私に会いに来た。狂いだって、きっと嘘だってバレてもいいと思って言葉を口にしている。
「……そうだ、カノン。あいつ、どうなったの? PKペナルティって」
「PKペナルティはマルチプレイの禁止です。強制的に誰もいない個別フィールドで、運営が指定した日数過ごさなければなりません。カノンさんは三日ですね、七十二時間。ログイン時間だけしか計測しないので、実際は一週間よりも長いくらいでしょうか」
「……エルは、私を殺したけど。どれくらいだと思う?」
「さぁ? 一人殺しても三日貰うこともあれば、何人殺したって一日も貰わないことだってあります。運営のAIがPK時の状況を見て正当防衛だとか、そういった情状酌量を働かさせている、という噂です」
「ふーん……エルも、ペナルティを貰っていない可能性、あるのね」
「一応は、ですね。期待しないほうがいいですよ。運営は気まぐれですから」
強い風が吹いた。私の髪と、狂いのフリルとリボンがふわりと浮いて、重力に従って落ちる。
狂いは笑みを崩さない。作り笑顔は感情を隠す仮面だ。彼女は、私に笑わないために笑みを張り付けている。
本人にバレたくない感情、例えば、好意? ……いや、違う。きっとそれは、嫌悪だとか、憎しみだとか、そんな負の感情だ。
私を嫌う、狂いの敵意。理由なんて到底思い当たらない。
「もう一回聞くわよ。何しに来たの」
「だから、偶然ですよぉ…………って言っても、信じませんか? だけど聞きたいことは聞いてしまいましたから」
「…………イベントに、私が出るかってこと?」
「ええ。きっと、楽しいイベントになりますよ」
「どうだか。…………でも、そうね、そうなのね、狂い。お前も出るのね」
「さぁ、どうでしょう?」
「カノンの手伝い?」
「いいえ。カノンさんのことは、ボク、本当に知りませんから」
「スターアフロ、クランでの参加?」
「イルゼさんに聞いてみてはどうですか? フレンドなのでしょう?」
「……まぁ、いいわ。向かってくるなら、殺すだけよ」
「クラス至天の前で、よく大口が叩けるものですね、少し、感心しましたよ、ボク? …………ねぇ、少し、約束をしませんか?」
「なに、お前も銃が欲しいの?」
「そんなもの、欲しくもなんとも。…………ボクも『極限』戦で力を貸してもいいですよ、シャオレンがボクに勝てたなら。その代わり、ボクが勝ったなら……ボクの言うことを一つ、聞いてください」
「何の、どんなこと?」
「秘密です。イベントで、一対一で決着をつけましょう?」
「どんなことをやらされるかわからないってのに、その条件を飲めって言うの?」
「勝てば、問題ないでしょう?」
「…………ま、それもそうね」
「ふふん、決まりですねぇ。…………あぁ、それと、言っておきます。シャオレンは、絶対に、アレェリスタに勝てませんから。アレェリスタと戦う前に、ボクのところに来て下さいね」
「どうして、そう言い切れるの?」
「ボクの友達は。誰よりだって強いからです。アレェリスタも、ヘレンも。…………シャオレンになんか」
言いかけて、狂いが言葉を切った。尻切れトンボに言葉が宙に溶けていく。
そこで初めて、狂いが表情を乱した。ほんの僅かに歪んだ顔が、燃える瞳が私を射抜く。
だけどそれもほんの一瞬で作り笑顔の中に消えていく。
「ボクと会う前に、死んでしまわないでくださいね?」
「こっちの台詞よ」
にっこりと狂いが笑みを深くして、瞬きの間に消えてしまう。ログアウトはなんの余韻もなく、エストの大地からアバターを消してしまう。
狂いが、敵。
いいじゃない。狂いが『極限』戦に入るなら後衛問題だって解決だ。どれだけ狂いが強くたって、私が勝てば何ら問題がない。
…………なのに、この釈然としない感覚はなんだ?
流れに流されている。発端は『極限』で、今はヴォーサイが作った流れが、誰にも制御できないままこのゲームを動かし始めている。
時間は勝手に進んでいって、私の周りは、私に戦えと急き立てるように準備を終わらせていく。
アレェリスタと狂いに勝つための準備、算段。足りていないものはいくらだってあるけれど、でも。
私に残された準備は一つだけ。
もう後戻りもできないまま、手に、肉を裂く生々しい触感が蘇った。




