雪を嫌う
そうして、アルプロにも入らないまま、三日が過ぎた。
答えはまだ、出ない。
三日ぶり……いや、日曜日は諜報員になるためだけに入ったので、実質的には四日ぶりに、PMギアを手に取った。黒いメットに僅かに積もった埃を掃えば、艶を見せる光沢が存在を主張する。
この三日間、じっと考えていた。救済探求……私のやるべきことと、やりたいこと。ただ一つの大きい流れと、神様の声に従うままに『極限』を超えるわけじゃなくて、私が、私の為に『極限』と戦う理由を。
だけど何にも思いつかなかった。どうして、私は『極限』に拘らなきゃいけないのだろう? あれはシミュレーションされた人類のAI、私達と最もよく似た無生物。それの果てに、私の救いがあると、確証さえ持てなかった。
そして、その間、ただ寝て、起きて、ご飯を食べて、勉強をして、眠って。その繰り返しの連続の中で息をしていた。何も齎さなない無意義な日々は、感情を摩耗させていく選択肢を先どって体験させる。三日目にして思わずPMギアを手に取ったのは、動かなければ結局流されてしまうだけということに気づいてしまったからだろうか。
そうだ。時間は平等に流れて、あらゆる物事は時間と共に移ろいでいく。何も選ばないで考え続けることは、何も選ばないということを選んでしまった結果になる。
ゆっくりと、PMギアを被った。結局、えいるを放っておいてあっちに入る。どうしようもなく最低で、だけど、そんなことはとっくの昔に知っている。
たかだか四日だというのに、それでも懐かしく感じるメットの感触を確かめながら、私は仮想現実へと、落ちていく。
* * *
視界が黒く染まって、白く開けた。ログインの感覚は一瞬で、私を現実から仮想へと連れていく。
横たわる私の身体が、自室のベッドからサントレアス魔法学院の寮の一室へと運ばれた。そして体も、ちっぽけな十五歳の身体じゃない、スーツで身を着飾ったアバターに変わっている。
視界の先は木造の天井。体を起こして机を見れば、そこには三通の手紙。ヘレンとファイと、イルゼからだ。
ヘレンとファイの手紙はログインしたなら連絡を寄こせという文だった。イルゼからの手紙はカノンについての謝罪。クランとしてメンバーが迷惑かけた賠償までしたいという。随分と太っ腹なことだと思うけど、カノンは主力アタッカーとも言っていたし、運営に報告されてアカウント停止になんてなったりでもしたら困るのだろう。特にイルゼ達は、この世界の中で銃と遺物関連を除いた最先端を走っているわけだし。
ヘレンとファイに、ログインしたと伝える。平日真っただ中の昼間だけど、ファイはともかくヘレンはいるだろう。引きこもり、らしいし。
少し考えて、イルゼにはその話は後でと送る。カノンについて、当事者はエルだから、私が勝手にカノンの処遇とその対応としての賠償を受けるのは違う気がした。
エルが、入ってこられれば、の話だけど。
エルは……えいるは、どうしてもアルプロにログインできなかった。
三日間の間で一度だけ試してみたことがある。眠っているときの記憶を多少なりとも取り戻そうという私の無茶な提案に、えいるは消極的にだけど乗ってくれた。それが、『極限』戦までにえいるをアルプロに連れ出そうとする工作だったのは、提案をした私自身が嫌になるほどわかっていた。
えいるは、アルプロに入ろうとして……無理だった。
PMギアを被った途端、過呼吸が起きた。発作ともいえるトラウマのフラッシュバックが、えいるを容易く仮想世界から遠ざけてしまった。
PMギアを被った途端に早くなる呼吸と、メット越しでもわかるほど悪くなる顔色。カノンと、カノンを通して呼び起こされる志島夏音が、精神の傷を現実にも浮上させたかのようにえいるを傷つけていった。
きっと、その光景を忘れない。
荒くなり続ける息が、えいるを抱き抱えた私の鼓膜をくすぐる音を、声にもならない掠れた声を、どうしようもなく傷ついて、そのまま傷を抱えるしかなかった少女の現状を、忘れることなんてできない。
いつか私もああなるんだ。心の傷が現実にさえ侵食して、そのままあっさり死んでしまう日は、きっとそう遠くない。
……だけど、それは、今じゃない。やりたいこと、やらなきゃいけないこと。覚悟も足りないまま、『極限』に挑む理由なんて、まだ全然、わかってなんていないけれど。
私はまだ、燃え尽きてなんていない。
「……ヘレンに会わなきゃ」
椅子から立ち上がる。都合よくヘレンから返信が届いた。内容を一瞥してから、唯一の出入り口足るドアを開いた。
寮の廊下には人が溢れている……と思っていたけれど、四日ぶりに私を出迎えるサントレアス魔法学院の寮廊下は、不自然な静寂を抱えていた。
人影はなく、音もない。元々ここはセーブポイントを更新していない初心者のための場所で、特別な事例(例えば、現状で唯一の銃と欄外職を持ったプレイヤーが出入りしているとか)がない限りは人通りも多くないが、しかし全くプレイヤーがいないというのもそれはそれでおかしい。初心者しかいないが、逆に言えば初心者は必ずここを使うのだから。
後ろ手に扉を閉めれば、目の前の寮の廊下に黒い靄が集まっていくのが見えた。空気と混じらないそれは集まって、徐々に一つの形を形成していく。炭を固めたかのような真っ黒が人の形をかたどって、瞬きの瞬間に、割れた。黒の表面を破って、恐ろしい美貌を湛えた少年が現れる。
「……また、随分と凝った登場ね、アドハ」
「やぁ。四日ぶり? だね、夜」
アドハが軽やかに笑った。彼の標準装備たる笑顔は、現実で使用できるなら瞬く間に世界に名を轟かすだろうと思わせるだけの力がある。
「えいるはどうだった? ちゃんと目覚めたかな」
「…………わかってやったの? カノンがえいるのトラウマを刺激するって、わかって、私達を個別フィールドに移動させなかったの?」
「当たり前だよ。言ったでしょ、最低なことを、するんだよって……えいると志島夏音に何が起きたのか、人並みに知ってる。だけどそれは、夜だってちょっと調べればわかる程度のことだけなんだよ。僕がえいるに聞きたいのは、そんなネットの記事を読めばわかるようなことじゃないんだ」
「だからって!」
「知りたいなら、向き合わなきゃいけない。眠り続けるえいると向き合うには、目を、覚ましてもらうしか方法はなかった。夜こそ、えいるとどうなるつもりだった? ログインしたってことはえいるを放り出して『極限』に挑む気があるってこと? ……君は、逃げてなんていられないのに」
「っ!」
「君はえいるの為に呼ばれてきたんだ。誰が……たとえあいるが何を言ったって、君はえいるの社会復帰のための、医療道具としての価値だけを認められて紙月にやってきたんだよ。君はえいると関わらなくちゃいけない。君が今被って、君に夢を見せているそれは、君が果たすべき役割の為の報酬の先払いに過ぎないんだから」
「…………えいるの、トラウマを抉って、お前の聞きたいことを聞きだせって?」
「それか、えいるに寄り添い続けるか。君が、志島夏音の代わりになるんだよ」
「いなくなった人間の代わりなんて、なれるわけないでしょっ!」
「でも、それを期待されて寄こされたんだ、小蘭夜は」
「そうだとしても! …………どうするかは、私が決めることよ」
「で? 決めたの?」
「…………まだ、だけど」
「ま、だろうね」
「…………」
やはり、アドハの口調は軽い。何でもないことのように放つ言葉は空気より軽く、だけど刃物より鋭く私の心を切り裂いてくる。
えいるとどうなるか。『極限』に挑むための理由は? 私の救いは、アドハの救済探求の先に重なっているの? 魂の在り方を私は選ばないといけない。救済探求のその先で、私の魂の在り方を選ぶと、えいるにそう言ったのに……私は未だ迷いの中にいる。
…………何を、迷うことがあるのだろう? 止まってしまっては前に進めない。えいるに寄り添う……私の救いを捨てることは、私が生きていかないことを選ぶことだ。そんなの嫌だと、私はえいるを傷つけるべき、なのに。
えいるのトラウマを抉る。眠るえいるを見捨てる選択肢は消えて、残ったのは目覚めたえいるを傷つけるか、寄り添って生きていくかだ。
利己的な私が、えいるを傷つけても救いを探せと叫んだ。自分を嫌悪する私が、私なんて死んでしまえと叫ぶ。
結局、選択肢は二つに集約される。
救いを探すことを選んで私が生きるか、救いを捨てて私が死ぬか。
どうして迷うのか、一端がわかった気がした。
えいるも私と同じように、今、色々な考えの中で生と死を、魂の在り方を選んでいる。そこに私が割って入ってえいるのトラウマを抉っていくことは……えいるを殺してしまうことに繋がるかもしれない。
きっと傷つくのが私なら遠慮もなく選べた。だけど、私は私の選択の果てにえいるに、もしかすると死の選択を負わせてしまう。こんなどうしようもない私を優先して、えいるをこの世から失わせてしまうのかもしれない。
殺してしまうことが怖いんじゃなくて、私より先にえいるが死んでしまうことが怖かった。もし神様が死の順番を決めるなら、きっと、私はえいるよりもずっと早く死んでしまうのだろうと思うから、私より先にえいるが死ぬのは、この世界の法則に反する禁忌のように思えてしまって、恐ろしかった。
私の手に、生と死がある。そして、それは私だけに繋がっていない。
覚悟が、足りていないんだよ、夜は。
私の手で、私よりも先に死んでしまう人をつくる覚悟。私の利益の為に他者を害する覚悟が、私には足りていないから、どうしても迷ってしまう。
ちらりとアドハを見れば、絶世の美貌は、軽薄な笑みのままで固まっている。
アドハには覚悟がある。えいるを傷つけて、トラウマのまま死んでしまうことを承知でカノンからえいるを逃がさなかった。自分の救いを探すために、えいるを傷つける選択を、彼は取ることができる。
…………同族だと、アドハは言った。救いを求める、醜い獣。
私は、アドハのように進めてなんていないのに。
中途半端だ。最低なことをすると言っておきながら、最悪の選択肢だけを避けている。
やっぱり、自分が、どうしようもなく嫌いだった。
「……とにかく、ヘレンのところまで行くわよ」
「……りょーかいっっと。今はまだ答えを出せなくてもいい……だけど、時間はないよ」
「……わかってるわよ」
脳に染みついた嫌悪が空気の層になって纏わりつくのを感じた。錯覚が精神に作用して、何もないのに身体を重く感じさせる。
どうしようもなく傷ついて、そのまま傷を抱えるしかなかった少女。普通に生きるなら考えることさえなかった生と死を、選ばなくちゃいけない少女。
私の手にナイフが握られていて。
目の前に死にたいと願う人がいたのなら、どうするべきなのだろう。
ナイフを差し出すべきか? ナイフを隠すべきか? それとも……ナイフを突き立てるべきなのだろうか。
目の前の、死を望む存在。その願いを。
私は、笑って叶えるべきなのだろうか。




