あの楽園へもう一度
暗い夜道を歩く。人通りは少なく、顔も夜に隠れてどこか見えづらい。
今の時間は深夜三時。誰もが寝静まる時間帯のはずだけど、それでもこの仮想現実の中では、この時間こそがメインの活動時間とばかりに活き活きとする人を見ることができる。それもまぁ、数は少ないけれど。
時々現実とシンクロする夜空を背景に、目指す先は学生街の広場だ。今日……だか昨日だかわからない私達とカノンの騒動と、エルが銃を使えるということが広まってしまってからこの広場には多くのプレイヤーが詰め寄せていたと聞いたけど、今ではめっきりその数を減らしていた。それでも特に用事もないのに広場に屯しているプレイヤーちらほらといるのは、間違いなく残った僅かな乞食たちだ。
夜で良かった。現実でも、ゲーム内でも。
深夜が人を寝静まらせて、夜が顔を隠してくれているから、私は多少コソコソ動くだけで、誰にも補足されずに歩けている。これがもし、ゲーム内で昼内なら私は一人で動くことをしなかっただろうし、現実で昼間なら、それはもう大勢がここに押し寄せているから、結局動けなかっただろう。
人目を忍んで歩けば目的地にはすぐ辿り着く。
それなりな土地に、二種類の店を所狭しと併設している建物。昼間には黒煙を吐いて半壊していたはずのそれは、外から見た限りでは修復されている。備え付けの、来客を告げるベルを鳴らして、二つの内の片方、喫茶店「黒猫・足跡・青い薔薇」の扉を開ければ、そこには壊れる前となんら変わらない店内が映し出された。私は、壊れた喫茶店の中を見てないのだけど。
明かりが点いていない、薄暗い店内を歩く。等間隔に設置された僅かな窓から入るだけの月光が微かに私の足元を照らしていた。
「フフフ……ついに私の正体に気がついたか……」
ちょうど月光が窓枠で遮られて、絶妙に顔から上だけが陰に隠れるポジションに位置した喫茶店の店主が意味深な笑い声を浮かべた。もう深夜だというのに、こいつはどうしてこんなに活発なのだろう?
「…………」
「え、あの、無言で返されるのが一番きついんだよ?」
「…………はぁ」
「え、溜息吐かれるほど?」
目の前の、青い癖毛のちんちくりんを見る。私よりも幾分か小さい幼女は当たり前のように私を見上げて、それに対して私は見下ろす形とななる。
幼女の見上げた視線に入るように、右手で、白い封筒をちらつかせた。
幼女の……スパイ系職ギルドマスター、メイリル・メイプルの目が、ほんの僅かに変わる。
少しためらって、私は言葉を口にした。それは、十中八九メイメイが設定した言葉。「私は美少女が大好きです」。そんなもの、他人に言わせるなという言葉の連なりだった。
メイメイの目が、一瞬、驚愕に開かれる。けれどその表情は、すぐに歓喜の色に変わっていった。
「ごーかくーっ! 合格だよぉー! はい、スパイ系職クラスⅠ『諜報員』! 解放クエスト『協力者からの密告調査』、クエスト完了を、ギルドマスターメイリル・メイプルが承認します!」
『クラスⅠ職「諜報員」が解放されました。転職しますか はい/いいえ』
『おめでとうございます。「諜報員」に転職されました』
『クラスⅠ職解放+職就職によりシャオレンのクラスがクラスⅠに確定されます』
『スキルを習得しました:ドライブ・セカンド』
『スキルを習得しました:空駆け』
『スキルを習得しました:スローアクト』
『スキルを習得しました:クローク』
『スキルを習得しました:消音』
『変化可能なスキルが存在します。派生を選択してください:ファーストダッシュ』
『クエストが発生しています』
『達成可能なクエストが存在します』
『世界クエスト「遺物紀行」第一クエストが達成可能です』
声と共に、メニューが開いてファンファーレが響く。恐らく私にだけ聞こえているだろう金管楽器の音に顔を顰めながら、色々な事を告げてくるメニューを閉じた。
「はいありがとう。これで晴れて社会人ね」
「クラスⅠはインターンみたいなものだよ、まだまだ正社員には程遠いねっ! ね、どうやってクリアしたの? アレェリスタの邪魔が入ったって聞いたけど? これ、二回目から難しくなるんだよね」
「難しくなるのわかってるならあんな罠仕掛けるのやめなさいよ……別に、何もしてないわよ。真正面から盗ってやったわ」
「正面から?」
「ヒューイと会話してる隙に、ヒューイの死角を縫って盗ったの。で、代わりの封筒置いてきただけ。ワールドマーケットって便利ね。封筒なんて使い道がなさそうなのも、メニューから買えるんだから」
「……おねーさん、見つかったらだめだって言ったけどなー?」
「お前が言っただけでしょ。失敗条件は三日、七十二時間の経過か、三回発見されること。二回までなら見つかってもセーフよ」
「うーん、微妙なとこだなぁ……ま、いっか。合格だしちゃったし、あの三人に比べたらマシだし」
「あいつら何やったのよ……」
「ターゲットがいる部屋の隣爆破して、大騒ぎで誰もいなくなった後に盗ってきたよ」
「テロリスト兼火事場泥棒じゃない……!」
想像以上に酷いことをしていた。設備破壊に窃盗だ。ひょっとしたら傷害もあるのかもしれない。あいつら、あれでよく学院に所属できているわね。
「クラス解放クエストはもう終わらせてたよね? じゃあ今から君は『諜報員』だ! というわけで、『諜報員なりきりセット』を進呈します」
「ごっこ遊び?」
「職に就けばその職の装備が貰えるんだよー。弱いけどね。でも、シャオレンが着てる初期装備よりは全然マシだよ」
「ふぅん」
メイメイからメニューを超えて渡されたそれを、装備インベントリ内で確認する。『諜報員シリーズ』、諜報員のシルクハット、諜報員のスーツ(上)、諜報員のスーツ(下)、諜報員の革靴……。
「名前、みんないっしょじゃない」
「初期装備だからね」
「ていうか、これ、スーツよね。このファンタジー剥き出しの世界で、逆に浮くわよこれ。諜報として向いていないんじゃない?」
「そこはそれ、気分ってやつだよ。スパイって言ったらスーツだからね! ま、それ着てるとスパイ職だってバレるんだけど!」
「ダメじゃない」
「でも隠密補正があるのはスパイ職装備だけだよ~? 職装備が生産・装備できるようになるにはクラスⅡから。自分の好きな衣装でスパイ職を楽しみたいなら、早くレベルを上げることだね?」
「いや、別に、これ繋ぎなのよ。『極限』が終わったら別の職にするわ」
「えーっ!?」
『極限』が終わった後で、私がこの世界にいるのかどうか。それはまだわからないけれど。
メニューを操作して装備画面を開く。そこにはステータスを入力した時と同じ、両腕を水平に上げたシャオレンの姿が映っている。誰もが一日二日で脱ぎ捨てるだろう初期装備を一週間も着古しているもの持ちのいい女アバターは、けれど武器の項目を空にさせていた。たった一週間で三つも武器を壊したんだ、防具は大事に来ていても、武器に愛着はないらしかった。事実それぞれ貰ったその日に壊しているので、愛着云々なんて湧きようがないけれど。
装備は、映る自分のアバターに装備をドラッグすることで変更し、それを反映させることで更新する。これはいくつかある装備変更の中で最も手間がかかる方法で、だけど利点として、画面に映るアバターに着せ替えることによって、事前に、客観的に装備し終えた自分を見ることができる。性能ばかりを重視するプレイヤーは触らなくて、オシャレを楽しみたいプレイヤーが良く使う機能だ。
シャオレンを身体から初期装備を剥ぎ取っては貰ったばかりのスーツを着せていく。すると、オレンジのツインテールがスーツと絶妙に似合わないことを見つけてしまう。それに身体が自分参照であり、顔もどちらかと言えば少女寄りなので、どうしたってコスプレ感が出てしまう。
アバターの変更は有償だ。似合わないからと言って、すぐに変えることは難しい。
だけど髪型くらいなら弄っても文句は言われないようで、遠慮なくツインテールを下ろしてロングにする。これでまあ、多少はマシになったような気がするけど、結局のところ、アバターの似合う似合わないは、他人の目が入らないなら自分の好みの範疇でしか判断できない。私が納得したなら、それでいいのだろう。
画面のシャオレンの服装がスーツに、二つのしっぽが下ろされて長い髪となる。腰程度まで下りた橙色がぎらついて目に優しくない。それを反映させれば、瞬きもかくやという速度で私の身体は装備画面と同じに修正されていく。私を覆っていた黒のローブが消えて、私が纏うようになるのは黒いスーツ。シルクハットは大きなものじゃなくて、私の拳大程度のアクセサリーみたいなものだ。それがちょこんと頭頂部からややズレて斜めに着けられていく。白のシャツ含めて、結局モノクロからは脱出できていない。
「ま、こんなもんかしら」
「ふぉおおおおお! 生着替えだ!」
「なんにも見えてないでしょ」
装備品による補正がかかって、ステータスが大幅に上がる。元々が無いに等しい補正値だったので少しでも良い装備になったなら相対的に上がり幅は大きくなってしまうからだ。
諜報員シリーズは文字通り、諜報に特化した装備品。大きく上がるのはAGIとDEX、それとLUC。他は、VITがそれなりに上がって耐久が増し、気持ち程度にSTRが上がる。サントレアスの制服では上がったBURは、諜報員シリーズでは上がらないらしかった。
サントレアスの制服と比べてシャオレンのステータスはかなり強くなるが、それでも、メイメイ曰くこの装備は弱い。だけど諜報員シリーズによって上がったステータスは、私がポイントを振り分けて得たステータス分の補正を優に上回っている。この世界は、やはり装備というのが重要視される世界らしい。
「ね、シャオレン。武器はどうするの?」
「その内てきとうにアドハからせしめるわよ。なんか作ってるでしょ」
「店売りでも良いの、買ったほうがいいと思うけど」
「そうね。でも、ちょっとログインしないかもしれないから」
「……ふーん?」
「帰ってくる頃にはアドハもいい武器作るようになるでしょ」
「そっか。じゃあ、メニューから達成できるクエストは終わらせておくんだよー」
「りょーかいよ」
てきとうなカウンター席に座る。爆破によって内装こそ一番重大な被害を被っただろうに、店内はそれを全く感じさせない静けさと穏やかさに回復していた。
メニューを開いてクエスト欄をタッチすれば、鬱陶しいほど多種多様なクエストの群れが私を迎える。世界クエストや至天クエストなど全プレイヤーに課された命題とも言えるクエストたちは、クラスⅠに上がってから受注されるからだ。それ以外にも、特定の施設を利用しよう、二つ以上のフィールドに出よう、特定のモンスターを倒して素材を納品しようといった、チュートリアルの延長のようなクエストが沢山。クラスⅠから一気にやれることの幅が広がるとは言っていたけれど、まさにその通りだった。
その中で僅かばかり私が達成できるクエストの名前をタッチしては達成報告を繰り返していく。得られるのは多少のマノと、消耗品ばかり。しけた報酬だけど、無いよりはマシだと思って、無心で画面をタップし続けていく。
クエストにはメニューで報告できるクエストと、依頼主に直接会わなければ達成報告ができないクエストの二種類が存在している。とは言っても、後者はそれこそ世界任務や職クエスト、開放クエストなどの重要なクエストばかりだから、今の私にはあまり関係がなかった。
クエストを整理し続けて、最後に「遺物紀行」の第一クエスト:アーティファクトを手に入れるの達成報告を告げる。世界クエストだというのにメニューで済ませられた第一クエスト、得られた報酬は他よりも随分と多いマノに、『地図:遺物残骸の墓場』『風化した機械コア』『特装:エネルギー炉』の三つ。どれもこれも、マノ以外は現状で全く使い物にならないと、溜息を吐いてインベントリにしまい込んだ。
「……さて、じゃあ私は落ちるわ。ヘレンとファイによろしく」
「え? もう帰っちゃうの? おねーさん寂しいなー?」
「深夜三時なのよ、今。寝なさい」
メニューを手早く操作して、ログアウトを選ぶ。大した余韻もなく、私は仮想現実の世界からいなくなった。
* * *
PMギアを外せば、やはり暗い室内だった。窓はとっくに閉められて、だけど部屋の空気は壁越しに容赦なく冷やされていた。
視界が黒く染まって、だけど少しの時間で夜に目が馴染んでいく。スマートフォンの光に焼かれていない目の順応性は、私が思うよりもずっと高い。
息を吐く。白く染まって、消えた。
現実世界に帰ってくれば、押しとどめていた感情が一気に押し寄せてくるようだった。閉塞感、焦燥感、どこにも進めない足と、まだ燃えてさえいない体。命の危機を感じないと動こうともしない自分にどうしようもない嫌悪がある。
私の周りを、澱んだ空気の層が包む感覚があった。脳内に巣くう自己嫌悪と、自分を嫌うことで自分を保とうとする卑しい自己愛がいっしょくたになって外に吐き出され、空気と混ざって私に纏わりついているかのような、最悪な層だった。
PMギアは脳の表層をさらって感情を表現する。メイメイの前で、私はどんな顔をしていただろう? きちんといつも通りの顔ができていたのかしら。
…………えいるを、見捨てる。
えいるの面倒を見ることを止めて、私は、私の望むままにアルプロの世界に入り浸る。
どうせ、あいるさん達は私を見捨てないという卑怯な打算があった。取引会社の次期社長候補の娘を放り出すなんてことはしないという目算があった。
嫌われても、失望されても。傷つくのは私の心だけだ。
そして私なんて、この世界の中で最もどうでもいい存在だった。
だったらどうしてログアウトしたの? と脳に巣くう誰かが問いかけてくる。だって、まだまだ、燃え尽きちゃ、いないでしょう?
何もかもが中途半端で、それが更に自己嫌悪を加速させていく。全部ぜんぶ、今更なのに、諜報員クエストの期限が近いという言い訳を添えて、えいるを放り出してあの世界に入ったくせに。それでも、えいるを完全には見捨てられなくて、だからログアウトしてしまった。その事実が、どうしようもなく嫌だった。
中途半端じゃ到底救いになんて届きやしない。いや、違う。私は救いを探すの?
覚悟が、足りていないんだ。
覚めてしまった目は眠気を吹き飛ばして、何も食べていないから空いているお腹が、栄養を補給しろと訴えかけてくる。それさえ無視してベッドに横たわった。
隣の部屋から声は聞こえてこない。あの魂を掻き毟る声が私を揺さぶらない。
えいるは……また、眠るのだろうか? その内、トラウマさえ自分の中に押し込めて、私と会った時のように、ただ外部に対して対処を続ける人形に戻るのだろうか。
それは与えられた役割をこなす機械の生き方だ。本当なら選ぶべくもない、私の生き方だ。
誰かに望まれたことを、感情もなく実行する。それが幸せなのだと、そう、嘯いて。
だけどヘレンは泣いて、えいるは眠っている。他人のことなんて本当の意味で分からないから、取り繕われたなら、私達はその人の喜びも嘆きも知ることなんてできない。
PMギアは思考を読む。だけど、思考の表層しか撫でてはくれない。心の奥底に沈んだ感情をサルベージはできない。
仮想現実は獣の王国。だけど、それさえ仮面なのかもしれない。みんな、感情を隠さないという建前があってもなお、「感情を隠していない自分」を心の表層に張り付けて、機械を、自分をだましているだけなのかもしれない。
幸せって何だろう? 誰も彼もが嘘をついているのに、それさえ、幸せだと言うのだろうか?
えいるの顔を思い浮かべる。恐怖と、混乱と、怯えと、僅かな希望と。それらを混ぜ合わせたえいるの表情は、何より原色の感情で彩られていた。その表情が、私の魂に焼きついて離れてくれない。
えいるは……本当に、幸せになれるの?
感情はあっけなく摩耗していく。あいるさんの言った通り、トラウマは時間が解決するかもしれない。今のえいるが抱えている感情は、時間と共に、色褪せていく。
それは救いなの?
違うでしょう?
どうしようもなく独善的で、救いようがない私が首をもたげた。私自身の救いさえ知らないというのに、私は、えいるを救いたいと無意識が思った。
何様だ、と毒づく。誰かに与えられた救いに、神様の施しに意味なんてないと、知っているのに。
救う。救われない。でも、今のえいるを幸せだと認めるのは、あんまりにも救いがない。
失われていく感情を、目の前で見て生きていたくなかった。救いを探すと言いながら、目の前の救われない存在を見てなんていたくなかった。
見捨てるのはあまりに簡単だ。えいるのことも、私の救いも。
匙を投げる。どちらか片方は救えないと、医者がスプーンを放り投げる。投げられた患者は死に逝くままに、朽ちて醜悪な死体になる。
私の手に、匙が、握られている。
やるべきことは、私が決めるんだ。
深夜の静寂を切り裂いて、反射的に立ち上がった。素足を容赦なく冷気が刺す。それさえ無視して、部屋を出た。
隣の扉をノックもせずに開けて、入って、閉める。真夜中三時の暗闇は、白い牢獄を黒く染め上げている。
最低限以外何もない部屋。その中で、ベッドの上だけが僅かに盛り上がっている。頭から布団と毛布をかぶった毛虫が一匹、ベッドに転がっている。
一歩歩く。毛虫の中から小さく頭が出てきた。それと、目が合う。人形のように端正な美貌が、引き攣った。
一般的な部屋より広く、だけど体育館ほどもあるわけじゃない部屋を、私は三歩で渡りきる。どんな感情を浮かべていいのかわからないえいるの顔が、すぐ真下にくる。
私が近づくほどえいるの顔は負の面で満たされていた。私を撃ったことを覚えているのだろう、現実の私さええいるのトラウマに組み込まれて、だけどそれは、えいるが眠りながらもシャオレンと夜を、ほんの僅かでも記憶していることの証左だった。
声を上げようとする喉を、右手で塞いだ。毛虫を脱皮させれば、そこにはあまりにもか弱いえいるの体がある。馬乗りになって、曲げた私の人差し指を、えいるの口の中に射しこんだ。
えいるの顔が、やはり恐怖に引きづっている。瞳に映る私の顔は真剣そのもので、えいるからすれば怖いだろうなと、他人事のように頭の隅で思う。
えいるに顔を近づければ、口に力が入って私の人差し指、その皮膚をえいるの歯が噛みぬいた。口の中に物を入れられれば、反射的に人はそれを噛む。
文字通りの間一髪もかくやというところまで顔を近づける。何を言いたいのか、全くわからなかったけど、それでも口は勝手に言葉を選んだ。
「初めまして、紙月えいる。私の名前は小蘭夜。えいるの一つ下で、一週間前からここにいるのよ」
「もごっ」
えいるの顔が驚愕に満ちた。人差し指から熱が解けて口内に落ちていく。歯に破られた皮膚から流れ出た血がえいるに流れていく。
えいるの舌が傷跡をなぞった。唾液が血と混ざる。痛みに顔を顰めながら、それでも私は言葉を続ける。
「私は、シャオレン。えいると一緒にアルプロをやってたのよ。えいるは、エル。あの世界でたった一人の、銃の持ち主なのよ」
鉄の味がえいるの顔を引き締めた。あまりにも直球な生と死の味は、簡単に死者を呼び覚ます。
えいるに目に、涙が滲んだ。
人差し指を引き抜けば、それは血と唾液に濡れて、容赦なく白のベッドに痕跡を残していった。
「覚えていない? ……いや、覚えてなくてもいいの。これから、話すのよ、えいる」
「……あ、あ、のん、ちゃん……」
「違うわよっ、私の名前は、夜」
「よ、る……? シャオレン……わ、わたしが、ころし、た」
「そうよ。お前が殺した、シャオレンよ」
「っ!?」
「でも! 生きてるでしょう!?」
えいるの手を無理やり胸に押し当てた。高鳴っている鼓動が否応なくえいるの手のひらに伝わった。死者が奏でない心臓の鼓動は、不安にさせるような速さを教えてくれている。
「死んでないのよ、『夜』は……! 私は、まだ、生きてるのよ!」
「で、でも、のんちゃんは、死んで」
「そうよ。死んだのよ。志島夏音は、とっくに死んだのよ」
「……あ、ああ」
「えいる! よく聞きなさい!」
えいるの顔を、両手でつかんだ。右人差し指が当たった左の頬が赤く染まる。
えいると、目を合わす。
「志島夏音は死んだ! 何があったから知らないけど、死んだのよ! でも、私は生きてる! お前に殺されても死んじゃいない! 私も、お前も! 死んでないのよっ紙月えいる! 勝手に……勝手に、自分まで死なせてるんじゃないわよ!」
「……だって、わたしなんて、わたしが、いたから! のんちゃんは!」
「お前の絶望を、志島夏音に押しつけてんじゃないわよ! お前が憎いなら、志島夏音がとっくに、お前を殺してから自殺してんのよっ! でもそうじゃないでしょう!?」
「……よ、夜に、のんちゃんのことなんてわかんないよ!」
「わからないわよ! お前のことだってわからないわよ! でも二つだけわかってる……! お前は自殺してなくて! 勝手に生きていないってことだけが!」
「っ!」
「死にたいなら死になさいよ! 半年もあったんでしょ!? いくらだって自殺できた! でもしてない……死にたくなかったんでしょう!?」
「……あ、え、あ」
「なのに、閉じこもって夢を見てる……! 生きることだけ諦めて、死にたくないって駄々こねてるだけでしょ、お前は」
「…………だ、だって、し、死んでも、わたしは、のんちゃんのところに」
「試してもないのによく言えるわね」
「た、試したよ! ほうちょうを、喉に、当てて」
「でも傷跡がない。当てただけよ、そうでしょう」
「……しねば、よかったの? 死ねば、わたしは、のんちゃんのところに?」
「行けるわけないでしょ。死人とは話せないのよ、もう」
「う、う、ううううう」
「泣いたって変わらないわよ……えいる、私は、お前の為に連れてこられたのよ。お前の為に、お前のせいで、パパにも見捨てられてこんなところまでやってきたのよ」
「……わたしの、せいで」
「責任取りなさいよ。自分の目で私を見なさい、えいる」
「む、むり。だ、よ。だって、だって、わたしにはもうなんにもなくて、できなくてやっちゃ、いけなくて」
「えいる」
「…………な、に」
「もう、どうしようもないのよ、私達は。お前は友達が自殺して、私はパパに見捨てられた。どうしてだとか私のせいだとか、考えたって、何にもならないのよ。取り返しのつかないことはあって、それは、私達のこの小さな手のひらの中にあることさえ気づかないような、あまりにちっぽけなもの。取りこぼしたことさえ、後になってからでしか気づけないの。私達は傷を癒せない。だから、私達はこの傷を、自分じゃどうしようもない傷を抱えて、それをどうしようもないまま大人になるか、それを嫌って子供のまま死んで時間を止めるかしかないのよ。お前のそれはどっちでもない。誰だって、子供のまま大人になんてなれない。お前の眠り続ける先は、いつか、時間が感情を摩耗して、友達の死さえ人生の中で大きな転機の一つだったって、どこかの誰かに悲しげに、誇らしげに語るような醜悪な大人になっていくだけなのよ」
「…………」
「過去には戻れない。私達は、引き返せない。選ばなくちゃいけないのよ。この傷を抱えたまま生きるか、苦しすぎて死んでしまうのか。二つに一つなんだ。私達は、私達の魂が擦り切れてしまう前に、私達の魂の在り方を選ばないといけない」
「…………よるは、選んだの?」
「今、選んでるのよ。救済探求のその先で、私は、私の在り方を決める。選んだ答えが生きることでも死ぬことでも、きっと、私は私の楽園に、もう一度辿り着く。楽園で眠れるのなら、きっと、こんな私でも救われたと、そう思えるって信じたいから」
「………………選ばなくちゃ、いけない」
「ええ」
「のんちゃんのことを、抱えて生きるのか。忘れないようにって死んじゃうのか…………でも、わたしは、死ねなくて」
「だったら、生きなさいよ。それが嫌になったら死ねばいいでしょ」
「死んでも、いいの?」
「いいわけないでしょ。それでも、選ぶのよ。……最低なことを、するのよ、私達は」
「…………」
そして、長い沈黙があった。過熱した言葉が、感情に濡れた声が、深夜三時の冷気に冷やされて沈黙を後押しした。
私はえいるを見る。えいるが、私を見上げて、さらにその奥、えいるにしかわからない何かを見た。
そうして、えいるはさめざめと泣き始めた。魂を掻き毟る絶叫じゃない、押し込めていた感情が緩やかに栓を抜かれて漏れ出てきたような、静かな鳴き声だった。
選ばなくちゃいけない。
夕の声と私の声が重なって、脳の奥に染みこんでいく。
あの楽園へもう一度。私は、それを夢見ている。




