毒のように薬のように
「じゃ、そういうことだから」
『そういうことだから、じゃないのこのマヌケ!』
耳から脳に響く高い声が鳴る。機械仕掛けの世界の中では電話機を持たなくても通話ができるけど、相手が叫ぶのを察して受話器を遠ざけるといった動きはできなくて、だからこうして怒っている相手の声を真摯に受け止めるしかない。
『私がちょっと目離してる間にどうしてそういうことになるの! バカ、バカっ! マヌケぇ!』
『同感だ! 少しは落ち着いて行動ができないのか!?』
「そこまで言わなくたっていいじゃない。どーせバカとは話つけなきゃいけなかったんだし」
『おまけが多すぎるって言ってるの! ライラックはともかくなんでヴォーサイやら火龍やらまで関わってるの! それに争奪戦ってっ』
『バカと良い勝負ができて調子に乗ったか!? 言っておくが廃人共は現実捨ててゲームやってる奴らばっかりだ! ヴォーサイだって普通に強いんだからな!』
「はいはい。でも、もう話受けちゃったもの。買った喧嘩は放り出せないでしょ?」
『安易に買うなぁ!』
『銃まで賭けて! 諜報員クエストだって今日と明日だけだぞ!』
「わかってるわよ。うるさいから切るわね。バイバーイ」
『ちょ』
『待てまぬ』
ぷつん。機械に再現された切断音が耳元の声を遮断する。そうなれば、闇に閉ざされた第五棟の廊下はただ、静寂が鎌首をもたげるばかりとなった。
アバターの体に不調なんて状態異常でしか存在しないけれど、それでも大きく背筋を伸ばす。凝り固まった筋肉がほぐれる錯覚が上半身を駆け抜けた。
……流石に今日は再挑戦はダメね。ヒューイに顔、見られちゃったし。
いくらバカが迷子だと言ったとしても、知らぬうちに職員室の半ばに侵入していたシャオレンに不信感を抱かないほどヒューイも楽観的ではないと思う。あるいはそうだとしても、一度の来訪は二度目を警戒させる。今度は扉を開けただけで「ああまた生徒かな」と廊下に出て細かく探されたっておかしくはない。潜入任務は得てして一度失敗すると途端に難易度が跳ね上がるものだと、昨日の映画で学んだばかりなのだし。
じゃあこれからどうしましょう? 正直言って怒鳴られるのが目に見えているので「黒猫のゴミ捨て場」に帰りたくはない。
やることはそれこそたくさんあるけど、私だけで出来ることは非常に少ない。レベル上げ、無理。モジュの生庭は『極限』の、そして銃と『遺物使い』の痕跡を求めた墓漁り共がうろうろしていて、そこに渦中の私が行くのは鴨が葱を背負って行くようなものだ。みすみす、餌にはなりたくない。
装備の更新、も無理なのよね。何しろ無一文だ。無条件での銃のトレードがシステムによって禁じられていたので、全財産と交換という形でエルから『天魔装銃』を貰ったためだ。エルがいるなら、質屋のように銃を預けてなけなしのお金が返ってくるけれど、残念ながらエルは今日はいない。
諜報員は今失敗したばかり。少なくとも一日程度は時間を空けたい。となると残りは……行っていない六都市を巡ってワープポイントを開通させる、くらいかしら。だけどこれも、フィールドに出れない以上は列車を利用するしかなくて、しかし運賃がない。それにエルも一緒に行かせたいから、却下ね。
…………「黒猫のゴミ捨て場」に帰るしかないのかしら。やーね、あいつらに怒られるのは。
そこまで考えて、ふと、顔に白が射した。黒を切り裂く白が窓の外より廊下に差し込んで、闇に覆われた世界を明るく染め上げていく。
視線を窓に向ければ、今まさに世界を照らそうとする太陽が空に昇ろうとしていた。明け方、夜の終わりの時間だ。現実世界ではまだまだ太陽は沈まず、これから空を赤く染めようかという時間なのに、この仮想現実ではもう夜が終わって日が昇る。公転速度の関係なのか、この世界は二十四時間周期で朝と夜を交代させないから、長くゲームをしているとこんな明け方や夕暮れをよく目にすることになる、とヘレンは言っていた。それもまぁ、時間によって変化するモンスターや素材を、特定の時間にしかログインできない人間でも集めることができるようにという配慮なのだろう。プレイヤーの都合によって神様に歪められた世界の速度は、易々と現実を追い抜いていく。
ちょうど一日も終わったし。今日は、もういいわね。
体には熱が残っているが、やることはなくなった。手早くメニューを操作してヘレンとファイに落ちるとメッセージを送れば、帰ってくるのは着信音。それを無視して、仮想現実から吐き出されていく。
* * *
目覚めた私の耳に飛び込んできたのは、落ちる直前と同じ着信音だった。なんだと思ってヘッドギアを取り、スマートフォンを手に取る。そこにはヘレンとファイがいるグループからの着信を表示させていた。
……ああ、そんなの、言われて取ったかしらね。
アルプロ、ひいてはラクエンプロジェクトには独自のSNSがある。自分のゲームアカウントをそのまま利用して登録できるこのSNSは、フレンド機能によるプレイヤー検索、ログインせずとも届いたメッセージの管理、グループ内での通話・トークと携帯端末で行えることをほぼ網羅した便利仕様で、運営からの通知を確認するためにわざわざヘッドギアを被るだなんて手間をかけずとも手軽にアバターの管理ができる。
ヘレンとファイに言われて、そんなの知らないと返せば絶対にアプリを取れと念押しされて渋々導入したのだけど、現実世界でまでこいつらを引きずるのならやっぱり取らないほうが良かったのかもと思えてくる。
いい加減着信音がうるさくて、緑色に光る電子で表示された応答のボタンを押して通話に挑んだ。
「うるさいわよ」
『お前! 何勝手に落ちるとか! ……声、高くない?』
「もう落ちたのよ。ねぇこれ設定で着拒とかできない?」
『……現実の声か。忠告しておくと、現実では簡単に通話に出ないほうがいい』
「そうなの?」
『アバターは声も姿も変えられるから現実の姿を隠せるの。どれだけ男だったり女だったりしてても、現実では真逆ってことも多々あるの』
「お前みたいに?」
『バカに殺される前に私が殺してやるの。 ……現実の声は変えられないから、女って知ってすり寄ってくる奴なんていっぱいいるの。その逆も』
『初対面で現実での通話を望んでくる奴がいたらまず出会い厨だ。全力で縁を切れ』
「おまえらはどうなのよ」
『まさかそこまで常識ないとは知らなかったの。一言落ちたからメッセージでって言えば着信止めたの。まぁまぁネットリテラシーないね、シャオレン』
『それよりもうログインしないのか? 今日はまだまだ長いが』
「やることがないのよ。レベル上げも何にもできないでしょ?」
『できなくはないの……あぁ、でも諜報員は、今日は失敗したんだっけ。じゃ、無理に上げる必要もない、の?』
「知らないわよ」
『装備だってあるだろう? 君の言ったことが本当で、アレェリスタが本当に勝負を仕掛けてくるなら。準備できる時間は一週間しかない。一日でも多く対策に時間を使いたいところだが』
「今でいいでしょ。わざわざ人ゴミを抜けてそっち行くの面倒だわ」
『…………いや、いいの。私も用事があるの。下手にアルプロにいるよりかはログアウトしてたほうが精神的に良いの。また勝手に喧嘩の約束取り付けられてもたまったもんじゃないから。……明日は、来れるの?』
「大丈夫よ。すっぽかしたりなんてしないわ」
『わかった。なら明日はエルも連れてきてくれ。明日で『極限』もバカも、諸々決めてしまおう』
「りょーかいよ。じゃあね」
携帯端末はツーツーと鳴いて。流石にアルプロのような露骨な切断音を響かせたりはしない。私が使っているのは幾分か時代遅れな機体だけど、それでも一介の学生が使うには過分なスペックが詰め込まれた機械仕掛けの長方形には人類の英知が詰まっている。音一つとってもストレスにならないよう計算されて設定されていると、何かの本で読んだ覚えがあった。
体を起こして、こっちでも背筋を伸ばす。今度は錯覚じゃなく、ずっと横たわっていたからこそ固まってしまった筋肉がゆっくりとほぐれていく心地よい痛みがあった。
窓から差し込む光は赤色に燃えている。夕暮れだ。仮想現実の夜明けと対を為すかのように、これから私の世界は夜に沈んでいく。
……ああ。えいるに伝えておかないと。
立ち上がり部屋を出る。目的地はすぐ隣だ。
銃を返すこと、カノン、だったっけ、会いたがっている奴がいること、それからバカとの二度目の喧嘩のこと。一日離れただけなのにこんなにも伝えることができてしまった。
…………えいるは、別に『極限』なんて望んでいないのに。
ふと、頭にそんな考えがよぎる。えいるの部屋の扉をノックしようとした寸前だった。
…………確かにそうかもしれない。えいるは何を考えているのかわからなくて、アドハの言う通りなら誰の言うことでもきちんと聞く。銃だって何の未練もなく私に手放した。彼女はただ、私に言われるがままついてきているだけ、なのかもしれない。
途端に罪悪感が脳細胞の隙間より滲み出す。
私は、えいるの時間を無意味に奪っているだけ、なのでは。
体が固まって、廊下に射した赤が私の顔を染め上げた。無意識に部屋に引き返そうとする足を自覚して、それでも、こんな気持ちのままであいるさんや葵さんがいる夕食時にえいると会いたくなくて、だから私は少し心を強く持って部屋のドアをノックした。
「えいる? 入ってもいい?」
「どうぞ」
簡潔な返答。いつものえいるの、当たり前の調子。微塵も狂わないリズムがえいるの本心を覆い隠して、私の心を不安定にさせる。
扉を開ければ、やはりそこは白い部屋だった。引っ越し当日に見た生活感に欠けた牢獄を思わせる部屋。以前と違うのは、パソコンとそれを安置する机が運び込まれていること。それとセットの椅子に座ったままのえいるがこちらに振りかった。
「リモート用?」
「うん」
「そ。私も、リモートにするべきだったかしら。そうしたらあんなに急いで受験することもなかったし」
「今から。でも、変えられるよ」
「冗談よ」
無表情のえいるは顔を崩さず言った。シンプルな部屋に浮かんだ作り物めいた美貌が、何かの物語の場面のような絵を現実に焼き付けている。
「ちょっと、アルプロでえいるに会いたいって人がいるのよ。覚えてる? イルゼ……あのコーギー犬の知り合いらしいけど」
「わかった」
「断ってもいいのよ?」
「どっちでも」
「……そう。それと、明日、入れるかしら?」
「うん。大丈夫」
「付き合わせて悪いわね」
「ううん」
えいるは首を振った。顔はやはり崩れない。無表情は感情を隠す仮面だ。えいるが何を考えているのかなんて全くわからない。……いや、仮に表情が変わったとしてもわからないだろう。本当の意味で、他人を理解なんてできないのだから。
それでも、嫌なら嫌だと言ってほしいものだけど……。そう思う私の脳裏によぎったのはやはりアドハの言葉だった。
君もちょっとはえいるに違和感くらいあるだろう?
違和感……確かに、違和感はある。生活感のない部屋、誰の言うことを嫌がりもせずに素直に聞く、表情を崩さない顔。一つ一つは大したことはないのに、それらが積み重なって確かな違和感として心に引っかかる。
……まるで、機械を相手にしているかのような。定められたプログラムに沿って行動しているかのようだと思う。
気づけば手を伸ばしていた。
「えいる。手、出して」
「うん」
言われるがままえいるが手を差し出す。海外の血だろうか? 日本人離れした白い肌は透きとおるようで、白磁の陶器を思い出させた。
その手を掴む。冷たい。冷えたえいるの手が私の体温を下げようとする。その手首に指を当てた。そこは、確かに音を立てて脈打っている。
…………突拍子もないことだけど。えいるもアドハが見せたみたいなヘルプロイドなんじゃないかと、そう思えて。
しかし計った脈は心臓の鼓動を証明している。ヘルプロイド、機械の体なら内臓を再現する必要もないので、この音はえいるが現実に生きていることを表す音だった。
それに少し、ほっとする。掴んだ手首を引けば、キャスター付きの椅子ごと座ったえいるがこちらに近づいてくる。その首に、腕を回した。正面から抱きしめてみれば、やはりそこには確かな鼓動の振動が私にも響く。
「ねぇ……嫌だったら、そう言ってもいいのよ?」
「うん」
「アルプロやってなかったわね。興味ないの?」
「ううん」
「えいるまで『極限』やる必要ないのよ」
「うん」
「銃、後で返すわね。それでいいでしょ?」
「うん」
「聞いてもいい?」
「うん」
「どうして……あいるさんの家に? えいるの実家は?」
「お姉さまが。預かるって言ったから」
「…………そう」
腕を解いて、一歩離れる。入った時から変わらない美が遠のいた。意思が欠如した眼差しが薄ぼんやりと私を見つめる。
私はえいるの為にここに呼ばれてきた。そう、アドハは言う。なら、今の私はえいるの為になれているのだろうか? えいるは良いも悪いも言わない。羅針盤を失った船は前に進んでいるのか後ろに進んでいるのかさえ分からないままだ。ただ沈まないように方角を失って進み続けるしかない
えいるの手を再度取った。体温を欠落させた冷たい手、そこにはやはり確かな脈が、えいるの命を証明していた。




