さいわいのうた 3
…………ねえ。私ね、本当の幸せにたどりつくの。
それだけを言って、彼女は自由になった。生きとし生けるものすべてが囚われるこの牢獄から。
自由に、なったんだ。
* * *
拝領品。ラクエンプロジェクトの最も特徴的なシステム。
それはランダムにアバターそのものに付与される、自分だけの特殊能力。
全員が共通して覚えることができるスキルでも、選べば就けるジョブシステムでもない、またその組み合わせによってなし得るたった一つでもない、自分だけの絶対特権。
品、とは書いてあるけれど、道具でありスキルであり立場でありのなんでもありのモノ。似たような傾向を持つことはあれど、他人と被らない文字通りのオンリーワン。それが拝領品。この世界で最も重要に考えるべき力。
まあてきとうに決めちゃったけど。やっちゃったことは仕方ないわよ。
葵さん曰く気合の入った夕飯に舌鼓を打ち、お風呂に入ったあと。歓談もそこそこに部屋に戻って軽い気持ちで拝領品なんて項目あったなと調べ始めた私に、攻略サイトから突き付けられたのがこの文章だ。ご丁寧にも、アバターを作る場合は性能を考慮するなら拝領品を主軸に作りましょう! だなんて書いてある。
…………なんでも、拝領品は根源はもちろんラクエンアバターにもある程度影響を受ける。つまりボディビルダーみたいなマッチョを作れば、拝領品は筋力増加とか、力を高めるものや単純に筋力を要求する武器なんかになりやすい、らしい。根源にもそれぞれに特色があり、それらを組み合わせて自分好みの拝領品に近づけることができる、というか、アバターに拘りがないならやるべきだ、とも。
だからステータスたるアルカディアアバターじゃなくてラクエンアバターで根源を選んだのね、なんて納得しつつも、心の中には憤りが湧く。説明しろ。分厚い文章じゃなくて言葉で。まったくふざけんじゃないわよ。とにかくイラつく。公式も遊んでいるプレイヤーも拝領品は大事だと言うものだから、それを軽んじた自分が世界からつまはじきにされているように感じてしまう。
…………ああまただ。この感覚。自分の周りを倦怠感と嫌悪感でできた重たい空気の層が包み込んで、それが世界を歪めている感覚。吐きそうなほど気持ち悪くて、けれど振り払えない仮想の空気。あの家で暮らしているときの空気。
あの家から離れたのに、まだ私を取り囲むの? だとしたら、これは……この感覚は……。
拝領品は、影響を受けるだけだ。狙ったものが出せず、あくまでランダムで決定される。私みたいに何も考えずにアバターを作った人間もいるはずだと、思考を納得させた。纏わりつく感覚を無視するようにヘッドギアを被ろうとして、部屋のドアが控えめにノックされる。
「わたし」
「入ってもいいわよ」
静かに開けられた扉からは、髪を湿らせたえいるが入ってくる。お風呂上りらしいえいるは、いつものようふらふらと足取りをしっかりさせないままベッドに座る私の前に立つ。その手には、白いVRヘッドギアが抱かれていた。
「お姉さまが。フレンド登録するべきだって」
「フレンド? 私まだアバター完成してないわよ」
「できる。し、アルカディアのフレンドにもなれる」
「ふーん……まあいいわ。えいる、ここ座りなさい」
「わかった」
隣を手でポンポンと叩くと、その位置にえいるが座る。どうせ椅子もないしベッドに座るからと、下に放り投げて手が届く位置に置いておいたドライヤーを手に取った。
「えいるが設定やりなさい。髪、乾かしておいてあげるから」
「うん」
青みがかった白い髪を手に取る。腰にかかろうかというほど長く伸びたそれは、ふわふわもこもことした感触をしながらも、上質な絹の糸に触れているかのような手触りで。ある種神々しさを湛えた髪に出力を控えめにした熱風を当てていく。
髪にかかる熱に少し身をよじりながら、えいるが取り出したのは携帯端末とVR機器同士をつなぐコードだった。コードで白と黒のVRヘッドギアをつなぎ、白のVRヘッドギアとつながった携帯端末でそれを操作する。
「フレンドになったら何があるの」
「設定次第だけど。ログインしたとかしてないとか、どんなゲームやってるかとか。そんなこと」
ああ、そういえば公開範囲設定なんてあったな、と思い出す。
「アルカディアのフレンドは?」
「いっしょ。ログインしているかと。あと通話ができる」
「ふーん。ゲーム始める前でもできるのね」
「そう。ラクエンでフレンドなら。引き継げる」
「便利ね」
「うん」
えいるが端末を置いた。コードを抜く。どうやら手間もかからず終わったらしい。それに比べて髪のほうは長い分まだかかりそうだ。退出しようとするえいるを座らせて、髪に熱を届ける作業を続行する。
「ねぇ、前はどこにいたのよ」
「遠いところ」
「知ってるわよ」
「…………」
少しためらって、えいるが口にしたのは有名な私立学校だった。金持ちと頭のいい人ばかり通っているような学校。何はなくとも紙月のご令嬢、それは至極当然のことかもしれない。
「あそこエスカレーターでしょ。上がらなかったの? ここから通うにはリニアを使うことになるけど」
「…………」
「……ま、言いたくないならいいわよ」
ちょうど、髪も乾き終えた。解かそうと櫛を探している間にえいるはさっさと立ち上がってドアに向かってしまう。行動を入力されたプログラムのように、えいるの行動には迷いがない。
「……アルカディアで」
「私、まだ時間かかるわよ」
「待ってる」
「…………いいわよ、どれくらいかかるかわからないし」
「案内。頼まれたから」
「そ。じゃあ、そうね……」
時計を見る。今はまだ遅くはないけれど、あんまり夜更かしするのもどうかと思うので、とりあえず一時間後を指定した。
「場所は?」
「どこでも」
「アルカディアの情報全く知らないけど」
「じゃあ。サ……サントレアス魔、法学院……で」
一瞬、えいるが妙に動揺した気がした。えいるの口と体が震える。けれどそれは瞬きの間に修正され、私がこの一日で見た紙月えいるになる。
「サントレアス? そこにいけばいいのね?」
「最初に選べる場所。だから」
「わかったわ」
「それじゃ」
「あ、待って。名前は? アバターの名前」
「…………エル」
「……それはまた」
なんとも直球なネーミングで。
えいるの気配が隣室に移ったのを確認して、VRヘッドギアを被る。
約束まで一時間。残るアルカディアアバターもさっさと決めてしまおう。
また視界が暗転し、白一色の世界に出る。以前と違うのは、私が登録したアバターがそのまま残っているということだ。
『ようこそ。小蘭夜様。ラクエンアバターが登録されています。これをデフォルトに設定しますか? デフォルトに設定した場合、アバターネームで呼ばれることになります』
「それでいいわよ」
『変更しました。改めて。ようこそ、シャオレン様』
音もなく光が私を包むと、私の体はアバターの体になっていた、とはいっても首から下は殆ど私なので特段違和感がでるわけでもない。
「さて、アルカディアアバターね」
『拝領品の確認が済んでいません。確認しますか?』
「……ああ、そういえば、そうね」
終わったはずのラクエンアバター登録画面が再度展開し、押せと言わんばかりに拝領品と書かれた場所が点滅する。できるだけ心を落ち着かせて、そう考えていること自体落ち着いていない証拠だと理解して、嫌になってやけで拝領品を確認する。
「…………ふーん。そういうのなんだ」
『アルカディアアバターが登録されておりません。登録しますか』
「はいはい、するわよ」
画面が瞬時に切り替わり、私のアバターを写したものになる。それはラクエンアバター登録画面と殆ど変わらず、けれど変更できる数値が、アバターの容姿から各種ステータスへ変貌を遂げていた。
STR、AGI、DEX、BUR、VIT、LUCにORI、それにHPとMP、大まかにはこのどれかに、最初に与えられたポイントを振り分けてなけなしの個性を出していくらしい。
タンクはVITに振りましょうだとか攻略サイトで流し読みしただけの情報が頭に流れていく。実はラクエンアバターによってステータスの最低値・最大値が変更されているらしいアバターのステ振りは、当人によってでしか理想を体現できない。
知ったこっちゃない。
「外部情報参照、『アルカディア・パスタスパゲッティ』」
パスタ・スパゲッティという名前の、それなりに有名なガチ勢プレイヤーのブログ日記には初心者に向けたステータスの指針が載せられている。あくまで指針、参考には過ぎないが、それは現時点でアルカディアの流行に則ったとりあえず目指しておいて損はないものであると、攻略サイトにも記事のURLが乗るほどだった。
「そこの軽戦士ビルドのステータスと初期スキルと装備、全部参照して」
『到達できないステータスが存在します。どうしますか?』
「上がるところまで」
『ステータスポイントが余っています』
「全部LUC」
運は大事、よね? たぶん。
唯一の懸念だった拝領品はこのカンニングを大きく損ねるものではなかった。それはつまり、スタイルの主軸になるような強力なものではなかった、ということでもある。
『全ての数値が設定されました。アルカディアアバターを登録しますか?』
最後に、数値が大きく指針とそれていないか確認する。……ちょっとAGIが足りないか、ブログのそれは身長を小柄化と筋肉の増加のバランスを見極められて作られていた
ので、その分の数値が足りていない。けれど、大きく逸脱しているわけでもないのでよしとした。妥協は世界を豊かにする。
数値もろとも参照したので剣士(片手剣)で固定されたまま一切触ることはなかった職業欄を興味本位で触ると、辞書かと思うほど細かい文字でびっしりと職業が敷き詰められた画面が向こう側と私を阻む大壁のように広がった。まさか、これ全部職業?
少しめまいがしてきたのでそっと閉じる。カンニングは間違いではなかった。
『最初にログインする場所を選んでください』
「サントレアス魔法学院、でいいのよね?」
機械音声の宣言と同時に、地図が浮かんだ。島だ、いや大陸か? 結局面積の違いでしかないのでどちらでもいいのかもしれない。大きな大陸が地図上の海に浮かんでいた。けれど地図に描かれているのは左下の僅かなスペースのみで、残りは描かれた雲か埃か、白く塗りつぶされて見えなくなっていた。唯一正確に見ることができる左下では、六つのポイントから光の柱が上がっている。事前に調べたのでこれらが初期リスポーン地点となる箇所であることも、半年たった現在でも、新マップへの拡張が行われていないために世界地図が機能していないことも知っている。
その中の一つがひと際強く輝いたかと思うと、別の画面が開き、壮大な魔法学院と、それを取り巻く森や湖の風景が映し出される。
『サントレアス魔法学院でよろしいですか? サントレアス魔法学院では、あなたは生徒として所属することになります』
「拠点のある旅人、ね……そこでいいわよ」
『初期地点がサントレアス魔法学院に設定されました。アイテムがアバターに追加されます』
「…………登録っと」
『アルカディアアバターが登録されました。アルカディア・プロジェクトを開始することができます。アルカディア・プロジェクトを始めますか?』
「…………さぁ、やってやろうじゃない」
言うと同時に電子音が鳴った。電話の音だ。えいるが私の携帯を繋げたままにしていたのか、それはフルダイブの中であっても容赦なく脳裏に響く。どうすればいいかわからなくて、てきとうに腕を振った。すると電子音が止み、小さな息遣いが耳に響いた。
「やっほー! 夜、久しぶり?」
「……夕。相変わらず、タイミングが絶妙な時にかけてくるわね、あんた」
「あ、何かしてた? ま、気にしない気にしない!」
軽快で明瞭な声、その持ち主の明るさを隠そうともしない雰囲気は、電話越しでさえ感じ取ることができる。
小蘭夕。私の同年齢の従妹だ。
「ね、知ってる? 今日ね、お兄ちゃんが優勝したの!」
「知らないわよ。なにに?」
「エクゾースト・エデンっていう格闘ゲーム! やっぱねーお兄ちゃんは凄いね。二年前に突如として現れてプロと戦った伝説だもんね!」
「あんまり身内を美化しすぎ」
「お兄ちゃんかっこいいからセーフ、だよ」
「……で、その自慢?」
「うん!」
「はっきりと答えないの。私これからゲームやるところだったのに」
「え? こんな時間にスタジアム行ってるの?」
「VRよ、VR。フルダイブの豪華仕様ってね」
「え!? 買えたんだ! 私もね手に入れたよ。それでお兄ちゃんと一緒にアルプロやるんだえへへ……」
「はいはい。ちゃっかり持ってるのね。じゃそのうちどこかで会うのかもね」
「どうかなー。アバターだしね、結局。現実じゃないから、会っても気づかないかも」
「…………そうよね、そう……」
「所詮ゲームだよ、どこまでいってもね。お兄ちゃんはゲームでもかっこいいけど!」
「……そうね。所詮ゲーム……」
「夜もあんまりやりこみすぎないようにね。結構いるって聞くよ、アルプロに入り浸りして現実に帰ってこないって人」
「そこまでやりこむわけじゃないから。ていうか、夕に言われたくないわよ」
「お兄ちゃんとだったら二十四時間狩りができる……!」
「……本当にきちんと休みなさいよ?」
「わかってるわかってる。じゃあねー!」
耳から夕の雰囲気が消えて。
忌々しい嫌悪感が、脳の奥から襲ってくる。
吐きそうで、でもフルダイブの体では吐けなかった。気持ち悪い。甘い声がどうしようもなく嫌いだ。どうして兄の話などするの? 家族がズタボロの私のことを陰で笑っているのか……違う、それはぜったいに、違う。…………汚い。夕を疑う自分が、あまりにも醜い。
夕と話すといつもこうだ。夕は少し行き過ぎたブラコンなだけで心の底から良い子なのに、良い子だから、私の醜さが浮き上がってしまう。夕が歪んだ私に突き刺さって抜けてはくれない。
お兄ちゃん、と夕の声が耳に響いた。やめてほしい。もう二度と話しかけてこないで。まったく夕は悪くないのに、私は、私の都合だけで夕が嫌いだ。夕を嫌う醜い私。
醜い自分が嫌だ。でも、じゃあどうすれば美しくなれる?
正直言って、私は美少女だ。アバターじゃなくて現実で、それなりに顔が整っている自覚がある。生まれも次期社長候補筆頭の娘。それは紙月ほどじゃないにしても随分と裕福な生まれだろう。勉強がどうしようもないほどできないわけじゃない。学校の友達や教師、人間関係は家族以外は良好だった。その家族さえ、見放しているというだけで私に暴力を振るわないし虐待もしない。それが世間体なのか罪悪感なのかはわからないけれど、私と年の近いお手伝いのバイトを寄こす程度には家族としての自覚がある。
要素だけ挙げれば私には何の問題もない。けれど、私はこんなにも幸せじゃない。
いっそどうしようもなくボロボロならばよかった。目に見える汚点は拭い去る努力で感覚を麻痺できるから。でも私の世界は上っ面を綺麗な絹糸のヴェールで覆われて、一見して何の問題もない。問題がないなら、それを解決することができない。
どうすれば美しくなれる? どうすれば、『さいわい』に手が届くのだろう?
私の救いはどこにある?
『アルカディア・プロジェクトを始めますか?』
…………どれだけ呆けていたのだろう。私は、機械音声の声で意識をはっきりさせた。そういえばフルダイブ中だった。
……フルダイブ、そしてアルカディア・プロジェクト。電子が作る仮想の世界。
夕はそれを現実じゃないと言った。所詮ゲームだと。……それは、勿論そうかもしれない。
でも、そうじゃないのかもしれない。
現実と遜色がないグラフィックで、現実世界の人間がアバターを動かして世界を回す。それは確かに現実ではないのかもしれないけど、仮想だからと全て割り切ることができることもないはずだ。
現実と遜色ないグラフィック。人の目が仮想と現実を見抜けないのなら、そこに区別を作る必要があるのだろうか。
それは、もう一つの現実を作り上げたといってもいいのではないだろうか。
…………なら、それなら、そこでは。
現実では手に入らないものさえこの手に掴めるのではないか? 現実と区別がつかない仮想をもう一つの現実と定義してもいいのなら。
現実には存在しない救いを探すことだって許される。
紙月家。小さな家を選んだといっても未来の社長たる父が建てた家より大きい家。家族に興味を亡くした亡者と、妻を溺愛する麒麟児。見捨てられた子供たち、産まれることを祝福される子供。同じ経営者家族への婿入りで、こうも違うパパと葵さん。
小蘭夕。明るく可愛らしく家族愛に溢れたあの子。私と同じ血を流して、それでも私と正反対のいい子。美しい、世界に許されているような祝福。
「この世界は、やっぱり、不平等よ」
はっと息を吐いた。
「…………文字通り、現実逃避ってわけね」
機械音声に、始めると返答をする。すぐさま声が返ってきた。
『アルカディア・プロジェクトへようこそ。良き旅を、旅人』
機械音声の声が、妙に心地よく耳に響いた。




