さいわいのうた 6
背骨を恐怖でくすぐる笑い声が耳を揺らす。
真っ暗な世界を赤が照らした。純粋な黒で染まる空を円に切り取った瞳が齎す色。血を思わせる赤は社会で普遍的に警告や危険を伝える色として使われているという常識でもって、理由もなく心を焦らせていく。
「…………なんだ、あれは」
カノンがぽつりと呟く。呆然と空を見上げて、立ち尽くす。
「単なるイベントよ。気にしないで……いや、危害を加えるかもしれないから気にはしてて」
「知ってるのか?」
「ちょっとだけね。……ねぇ、カノン。どうするの」
視線を向ける。燃えるような赤い髪は世界に同化していて、様変わりした世界に呆気にとられた顔は、けれど私の声に反応してすぐに引き締まる。
「えいるを守ってくれるの、それとも」
「……よる」
くいと袖を引かれる。王子の正装のような、気品を漂わせる白金の服が引かれる力で皺を作る。力に身を任せるまま僅かに傾く重心は視界を伴って、私に縋りつくちっぽけな少女の姿を映し出した。
「う、そだ……よね」
「……なにが?」
吐き出した声は自分でも驚くほど無感情を帯びていた。無機質はえいるを怯えで震わせる。現実世界に準拠した、美男美女ばかりの仮想現実でもひときわ目立つほどの美貌、その瞳が揺れて奥から涙が溢れ始める。弱弱しく折れてしまいそうなほどか弱い姿に庇護欲と、罪悪感が胸を抉る。喉の奥から針が刺さったような痛みと舌を麻痺させる苦みが沸いて、それを無理やり嚙み砕いて飲み込んだ。
袖をつかむ震える手。それを無理やり掴んで、力の入らない体ごと立ち上がらせる。
「何も嘘じゃない。嘘なんてつかないのよ、えいる。私は選んだ。…………あの日と、逆、ね」
「いやだ」
「貴女は殺してって言った。あの時私は……置いていかれたって、もう後に引けなくなったって思った。貴女だけが道を選んだ」
「よる」
「でも、違った。貴女は死を拒んだ。選んだつもりになって、ただ、逃げていただけだった。私もそうだった」
「やめて、よる」
「どうしようもないまま時間に流されて、それでも……感情を、見た。願いを聞いた。私のやりたいことを知った。傷つけることを選んだ」
「みすて、ないで」
「魂の在り方を、私たちは選ばなくちゃいけないのよ」
腕を離し、とんと押す。
えいるの虚脱した身体は抵抗もできずに力に流されるまま数歩後ろによろめいて、カノンの足元にへたり込む。
えいるの目が見開く。信じられないものを見るように私を見上げる。
「カノン」
「死ななければいいんだな?」
「あんまり強く迫らないで、強制ログアウトは避けたいもの」
「……保証はしない」
カノンが足元に座るえいるを強く睨む。憎しみに燃えた瞳。精神不調はえいるの都合で、それを引き起こしたカノンに任せるのは賭けでしかないが、カノンからえいるを守りながら『極限』と戦うのも同じくらい無謀な賭けでしかない。だったら私がより自由に動ける選択を私は取る。
えいるとカノンに背を向ける。今もまだアレェリスタは戦っている。行ったところで決定的な戦力にはならないだろうけど、注意の目を分散させるだけで生存率は上がるはずだ。
一歩踏み出す、直前に横目でえいるを見る。
変わらず呆然と私を見る瞳。
「…………じゃあね。それでも、貴女の救いが見つかることを願ってる」
「……おいッ!」
「?」
前を向こうとしたその瞬間、背中をカノンの鋭い声が突き刺した。
今になって何か反対が? 浮かんだ疑問をかき消すように、私に降り注ぐ赤が遮られ、影が落ちる。導かれるように見上げる先に、大きな白が浮かぶ。それは人を殺せるだけの重さを感じさせて。
振り下ろされる。
* * *
その攻撃を避けられたのは偶然だった。
「ッ!」
照明を落としたかのように真黒に染まる世界は容易く斬撃の軌道を隠す。見えないものが見えるはずもなく、ただ反射神経だけが、変わる世界を目の当たりにした刹那に身体を後ろへと跳ねさせた。
見えない目の前を大鉈が薙ぐ。ほんの僅かに断ち切られた髪が舞い、勿論、それさえ見えはしない。
光を通さない真の暗闇の中、アレェリスタは狂いそうになる距離感を歩幅と歩数で確認し直す。どれだけ距離が開いたのかを曖昧なまま計算しながら、暗闇の先にいるはずの存在へと声をかけた。
「これも君の技かい? 『極限』は多様だな」
『否。……現れるか、夜』
不意に、攻撃の気配が消える。
同時に鼓膜を、おぞましい笑い声が揺さぶった。
「なんだ!?」
『…………あぁ、忘れもせぬ、忘れる事なぞ出来ぬ、嘲笑。全てを嘲るか、夜。……いいだろう。今宵も、明夜も……果てる果ての未来永劫、我らは、お前を討ち続けるぞッ!』
吠える。アンドレイの声が厳しく、世界を閉じる暗闇全てを憎むように震わせる。余波を受けて鳥肌が立つのをアレェリスタは感じた。
次の瞬間、ぼうっと、淡い蒼の光が現れた。蒼が黒の闇を押し返し、世界に灯りを取り戻す。幻想的でどこか冷たい光。光に紛れてうっすらと見える光源はランタンだ。アレェリスタはそれに見覚えがある。
「……いいのかい? 場所を教えるだけだ」
声を無視して、構造を揺らし金属音を響かせながらアンドレイは腕を上げた。その手からは先ほどまで握っていた大鉈が消え、代わりに握られるのは、銃。ついさっきまで相対していた相手が握っていたものと酷似したその銃には、やはり蒼の光が集まっていく。
反射的に回避行動を取ろうとするアレェリスタを嘲笑うように銃口は滑る。アレェリスタを狙う水平から空を臨む頂点へ。
蒼の光は大きさを増し、銃が軋む音が響く。銃身へと負荷をかける光が臨界へと達したその瞬間、吐き出された。
光が下から上へ、天に届く塔のように蒼く聳える。
世界弾が黒を駆逐しながら進む。決して消えず突き進むだけの無敵の弾丸は、けれど黒を進む過程で大きな壁に弾かれたかのように分散し、掻き消える。それにアレェリスタは少なからずの驚愕を覚えた。
……防げるのか、あれ。
間髪入れずに音が響いた。神経を冷えさせる悍ましい笑い声。黒い空に線が走り、円に開く。黒の空に現れた深紅の瞳が、眼下に赤を降らせた。
視界が赤で開く。黒と青が色彩を加え、あまり離れてはいなかったアンドレイの姿を捉える。
狩人はもはやアレェリスタさえ見てはおらず、ただ空を睨んでいる。フードに隠れた顔は見えず、けれど声には怒気がある。
アレェリスタは手から双剣を消して、新たに弓を握る。枯れ枝のような弓に番える矢は三色と濃淡、陰影だけで構成された世界に新しい色を放って落とす。
「困るな、こっちを見てくれないと!」
『……フフフ』
放つ矢はスキルに任せて風を切った。風切り音が怪物の悲鳴のように轟き、アンドレイに迫る。それを阻んだのは、どこからともなく現れたミシェリアと彼女が作り出す防壁だった。
「ッ!」
振動が地面を揺らす。咄嗟にアレェリスタは後ろへ跳ねた。スキルは成人男性の体重を簡単に跳ね飛ばし、その残像を踏み潰すかの如くトルク・キッドの突進が横から蹂躙する。
誇るべき大自然が轍に消え、トルク・キッドの横断が終わるや否やミシェリアが放つ魔法が後ろへ引くアレェリスタを追撃する。直進する光線が的確にアレェリスタを捉え、大してアレェリスタも弓を消す。
虚空から取り出したのはアレェリスタを隠してしまえるほどの刃を持つ大剣。武器が光を阻み、熱と威力で焼き消えていく。
「ミシェリア……! 前座か、それが舐めプだってことを」
続きを口にしようとして、気づく。『極限』は四体、三体はこの目で見て。
カジムはどこだ?
答えは少し離れた場所に降った。
獣の咆哮が鼓膜を揺らす。叫びの源は上空だ。離れていく。
……離れていく?
「…………馬車の上か!」
正確には車ではなく、無骨な円柱だ。入り口も出口もないただの柱。何故曳いているかもわからないそれの上に、二足歩行の獣の姿があった。壊れた鎧が体毛と絡みつき、大きな盾を握る獣。
アレェリスタの注意がカジムに向いたその瞬間、ミシェリアが放つ魔法がアレェリスタを撃った。熱が身体を灼き、HPが衝撃で削れた後に火傷の状態異常が入る。
『フフ……』
「クソっ、邪魔を!」
いや、追撃!
痛みを堪えてアレェリスタは走る。アンドレイはこちらを見ない。ならありうるのはトルク・キッドの突進か飛んできたカジムの一撃。ミシェリアへの集中を切らさないまま、残された集中力を二匹へと割いていく。
けれど、追撃の気配はしない。咆哮は遠く、トルク・キッドの足音も遠ざかる。
……来ない?
考える。理由は、すぐに思い当たる。
「エルか!」
『極限』は基本、発生させたプレイヤーを狙う。優先順位があり、アレェリスタはその中でも低い。
追わなくては。と、思うと同時にミシェリアからの魔砲。今度は避ける。
地面が焼ける音と焦げ臭い臭いが一帯を支配する。
「……逃がさないってわけかい?」
『フフフ……』
少し悩み、そしてアレェリスタは足を止める。
「……シャオレンがいるか、なんとかなるだろ。射程と攻撃速度が段違いのお前を連れていくわけにもいかないしね。いいさ……前座くらい楽に終わらしてやるまでだ!」