至天と獣 23 バカばっか
右腕が飛んだ。
息を呑む一瞬の間。静寂。一拍を置いて。
ようやく時間を取り戻した血液が、斬り裂かれた右腕の断面から迸る。
白に染色された黒紅が屋上から空へ向けて切っ先を滑らせて、持ち主の望むまま、刃は欠色の少女の腕を跳ね飛ばす。
鮮血にアレェリスタが目を剥き、シオンは薄く笑みを湛えながら、自分の血が創る紅の海に力無く沈む。夕焼けの橙を含んだ赤ではない、鮮明な赤。コンクリートでできた屋上の一角が明確な血の色だけで染まる。
受け身も取れないまま屋上を転がる私はその勢いを摩擦が止める。背中の火傷、コンクリートに擦る傷。じわじわと痛むそれらを無視してなんとか立ち上がりシオンの元へと脚を動かす。
「……血。人の敵はそこまでリアルなのか……?」
「シオン!」
駆け寄り残された左手を取る。少しずつ、冷えていく手。心なしか顔からも血色が消えていく。その胸ぐらを掴み、耳元に顔を近づける。
「……鍵を開きなさい。このままじゃ死ぬわよ」
「……死ぬ。ああ、いいな。それが、いい」
「……お前が開かなくてもリーリが開くわよ」
「どうかな。リーリは、昔から私に甘いから…………寒い。死ぬってこんな感じなの? なのに私は…………シャオレン、お前の、言った通りだった。死んで、彼らの影を置いていくのに、私は、何も思わない」
「……シオン」
「逃げようとしていただけだ。私は、本当は……」
「……死なせないわ。リーリが死なせない。『夜殺し天明』は貴女を斬った。アドハが、リーリは開くって確信を得たってことよ。貴女は死なない。生きて、私達がもう一度アンドレイの元へ連れていく」
「……嫌だ。逢いたくない。今更、どんな顔をして話せばいいの?」
「その時に考えなさいよ!」
ぐっと胸ぐらを掴む。吐息がかかるほどの近く。彼女の、死への安堵と未来への絶望が入り混じった瞳を間近で見つめる。
「嫌って言ったって聞いてやらないわ! 私達は自分勝手に貴女の未来を紡ぐ。私達が選んだ道は誰もが望んだハッピーエンドじゃなくて、誰かを傷つけてその血で喉を潤す道だ。だから……憎みなさい。私を、私達を、憎んで恨んで呪いなさい!」
「……勝手だ。お前は、死なないくせに」
「ええ。そして貴女も死ななくなる。……だから、一つだけ約束してあげる」
力を失って、ただの肉と骨の塊となったシオンの左腕を持ち上げる。その手を開いて、私の首を掴ませる。
「全部が終わった後、一度だけ……私の命を機械に繋いで、貴女の目の前に立ってあげる」
「……え?」
不意に、鋏を喉に突き立てた時の感覚が蘇る。月光に鈍く光る刃、冷たい部屋の空気。冷えた室温と、冷まされた金属が脈から熱を奪う。それに対抗するように、死の気配を感じて跳ねる心臓が鼓動のピッチを上げて血液を回す。あとほんの少しだけ力を加えて、私の血が頸動脈から飛び出して部屋の中を真っ赤に染める夢がシオンの血だまりと重なる。
死にたくないと呟いて。
死んでもいいやと思う。
……ああ、そうだ。えいるが死にたくないと心の底から叫んだように、私は死んでもいいと心の底で思ってしまう。それは……私の自己嫌悪の結果醸造された自意識が齎したものだ。
だけどそれはえいる、シオン、アンドレイ……命に振り回された者たちへの侮蔑だ。命を軽んじているものの命の重さは羽より軽い。だから私の言葉はどこか説得力に欠けるばかりだった。
でも、もう違う。
私にはアドハがいて、ヘレンがいる。アレェリスタがいて、狂いがいた。こんな私を運命だと選んでくれた人、こんな私を特別だと言ってくれた人達、私の友達。
今になって初めて、私は私に価値を認められる。
そうして私には、やりたいことがあって。
だから。
「私は死ねない。それでも、だからこそ、私の全身全霊で向かい合うわ」
投げ捨ててもいいものじゃなく、捨てられないものだからこそ。私は自分の命を懸ける。
それは潔癖か、それとも同情か? 違う。これは真摯だ。シオン達に何一つとして関係が無い私が唯一差し出せる対価なのだ。
「だから、その時。許せないのなら、私の首を斬り落としなさい」
「…………ふざけ、るな。命は、そう簡単に」
「だったら、お前も。生きることを考えなさいよ」
「…………………………」
不意に、淡く光が訪れた。シオンの輪郭を光が包む。身体が、徐々に透きとおってあやふやになっていく。
死を齎すものがいつも衝撃的で、こんなにもゆったりと消えていくのを見たことが無かった私は最初それにピンと来なくて、けれどすぐに思い当たる。死を感じて放つ光、ゆっくりと消えていくアバター。
それは、神様に許された命の循環。
「…………バカだよ。みんな、バカだ……」
私の首から手を払い、弱弱しく、シオンは空へと手を伸ばす。瞳には力が抜け、目の前の私の顔さえ見えているか怪しく、朧げに夕焼けが支配する橙赤の空を見る。
「……あぁ、『夜』が、やってくる」
どんどんと薄くなっていく身体。強まる光がシオンを覆う。
そうしてそのまま、消えていった。
* * *
「どうして」
リーリがぽつりと呟く言葉は幾つかの意味を持っていた。どうして剣がシオンの置換防御を貫いたのか、どうしてリーリが鍵を開くと確信していたのか、どうして……シャオレンがあんなことを言ったのか。
「……どうして」
「僕が君たちの『極限』を解析したからだよ。『夜殺し天明』は『空白ノート』を武器に纏わせる。その真髄は自身をスキル・魔法封印の範囲から外すことだけど、今回は僕がそれに君たちの『極限』の解析データを乗せた」
「…………『神至災禍』の置換技術を、完璧に解析できたのぉ?」
「まさか。真似たのはシオンのやつさ。真似の真似。それでも上手くいったのは運だね。実証も出来てない仮説もあった」
プログラムが書き換わっていくときの癖、過程、人の手に堕ちたとて、それらを加味したとしても本当に『神至災禍』の技術を、一端とは言え解析できるのか。
……全部は推測と想像だ。確信など何一つとしてなかった。
「でもやるしかないだろ。それ以外の突破方法はない。それくらいに『神至災禍』の技術は天高い」
「……シャオレンが、命を機械に繋ぐって」
「約束なんだ。本気だよ。出来るのは知ってるだろ、僕も止めはしない」
「……どうして、アド君は、そんなのが選べるのぉ?」
……どうして?
「私は、結局、鍵を開いた。リラちゃんの願いを私が挫いた……アド君はわかってた。私が、最後の最後にリラちゃんの命を見捨てられないって」
「……うん」
「どうして? 運命なんじゃなかったのぉ? どうして、どうして、アド君はシャオレンの命を捨てかねない選択を選べるのぉ?」
「運命だからだよ。僕も夜と同じことを思って同じことを選ぶ。捨てるんじゃなくて懸けるんだよ。そうじゃなきゃいけない。それが、シオンでもリーリにでもなくて、僕たちが僕たちに対して出来る真摯ってやつなんだ」
「…………意味、分かんないわよぉ。わかんない、わかんないわぁ……誰だって、大切な人に死んでほしいわけないじゃない……」
リーリは項垂れた。腰を降ろす。小さくなったその影と、髪に隠れた顔の表情を推察させるように泣き声が響く。
……どうして、リーリが最後、シオンの願いを無視して鍵を開けると確信したのか。
リーリの言葉には、嘘がある。
本当はアンドレイを再構成することだって出来たはずだ。『天魔』の世界を上手い具合に存続させることだって出来たはず。そもそも、『神至災禍』さえシミュレーションの設定から取り除いてしまえばいい。ラクエンプロジェクトが何一つとして進んでいなかったあの頃ならそれは可能だった。それが、彼女たちの最初の目的から外れるとしても。
でも、リーリはしなかった。
シオンだけが生きている。……リーリが、恐らくリーリとしてシオンと接触したのは教会が創られてから。つまり、人類が絶滅の過程を通ってどうしようもなくなった後。
……どうして?
何故シオンだけを生かした? アンドレイ達が生きている段階でさっさと見切りをつけて現れれば良かったはずだ。そして一言、「シミュレーションは失敗したけれど貴方達は生かしてあげる」と言えばよかったはずだ。
……救いがないと、リラちゃんに言われる。それがどれだけ救いがないことなのか。
アンドレイじゃないけれど、自分が傍にいるから。だから絶望しないでとそう言いたかった。
…………リーリは、多分。アンドレイに。シオンの傍にいてほしくなかったんじゃないか。
リーリはただ、自分の手で、シオンを救いたかった。
それは、嫉妬だ。生物としてこの星で頂点を戴く情報生命体を蝕む感情の毒。
僕たちさえ感情一つに左右される。完璧は、少なくとも心と感情を必要としない。
でも心が無ければ、僕たちは息をする理由だって必要になる。
「リーリ。君は間違ってはいないよ……ううん、感情に正しいも間違いもないよ」
「そうだとしても、私は、リラちゃんを傷つけただけ」
「そんなもんだよ。人も僕たちも息をするだけで誰かを傷つけるんだ。誰も傷つかないなんてことはありえない。……どうせだったらさ、思いっきり傷つけて傷ついてきなよ。リスポーン先は教会だろ、入れるのは君だけじゃないか」
「どうしていいかわかんないわよぉ……」
「告白でもしてきな。すっきりするぜ」
ぐっと伸びをする。『極限』の解析とカウンターを演算し続けた『無形』サーバーの高駆動がゆっくりと収まって、同時に熱っぽさも芯から引いていく感覚。
「二つ目の鍵は開かれた。もうすぐフェーズ2が完了する。……『夜』と狩人がやってくる。ここから先が本番だ」