さいわいのうた 1
初投稿で、不定期更新です。
ずっと、身体が腐っていく夢を見ている。
指の先からグズグズと腐り落ちて、体を覆う皮膚は壊死してぼろぼろと崩れていく。それに、痛みはなく。そのまま腐りきって誰にも見せることができない醜悪な死体になってしまえばいいと思うけれど、目覚めるわたしの目に飛び込んでくる皮膚はいたって不健康な白さを持ったまま腐っていてくれない。寝ているのか起きているのかもわからない毎日の中で、ただ腐っていかない身体だけが、夢と現実の区別をつけていた。
* * *
それじゃあ、夜、元気にしているんだよ。
たったそれだけを残して、パパは合成音声の向こう側に消えてしまった。母が病院に篭り始めて一週間の、中学卒業と同時に一人で遠くに移り住む娘にかける言葉でもなければ、妻の病気に傷心の夫が言う言葉でもなかった。機械越しのパパの声は深刻に曇っていたけれど、きっと自分がいない間の会社のことでも考えていたのだろう。たった一言でパパがどれだけママにも私にも興味がなかったのかが表されるようだった。
パパにとって仕事は人生であり趣味であり、夢であった。仕事に生きがいを見つけて仕事のために生きている。会社の成長を我が身のように喜び、滅私奉公さえ苦にもせず、むしろ家にいる時間こそがパパにとっての苦行であるかのようだった。過剰すぎる仕事人間の脳には家族のことをインプットするスペースは微塵もないらしい。
じゃあどうしてママと結婚して私を産ませたのと聞いてみたことがある。まだ何にも、私のこの身に降りかかる呪いさえ知らなかった幼い頃だ。
パパは薄く笑って、ママのことを愛していたからだよと答えた。嘘だった。正しくは、ママの父親(つまり私のおじいちゃん)がパパの勤めている会社の社長だったからだった。
有能な会社員と社長令嬢の結婚。会社を成長させたいおじいちゃんと仕事に生きているパパの利害が一致した、きっとどこにでもありふれている体のいい政略結婚だった。
会社としてはこれ以上ないくらいの人材だろうけど、家族としてはどこまでもろくでなしのパパは、会社に帰ると社員のみんなに頼られながら仕事をこなしていくのだろう。ああ、なんてくだらない。そうやって一生会社に縛られて生きてしまえ。
右耳にあてた携帯端末からパパの気配が完全に消えたのを確認すれば、張り詰めていた緊張の糸が一気に解ける。そのまま、急に糸を切られた人形のような脱力でホームのベンチに座り込んだ。
どうにも動く気になれなくて、どんより曇った空が吐き出す雪が線路を汚す様をただじっと見つめる。
ママが入院した、らしい。精神病棟だ。らしいというのは私がママの姿を、入院する前も後も見ていないからだ。部屋に篭ってばかりのママの姿なんて一か月見なくてもまるでおかしく思えないほどだから、いつの間にかいなくなっても私の生活は何も変わらずに流れ続けてしまって、ママの痕跡一つさえ残しはしなかった。
私の知らない間にお医者様とのなんらかの面談があって、私が知らない間に入院が決まって、私が知らない間にさっさと病院に行ってしまった。
急な入院は、あるいはパパさえ知らないかもしれない。ママは突発的な行動をよく取るし、得手してそれは他人に迷惑をかけるものだから、私とパパはそんなママを笑って無視する術ばかりに長けてしまっていた。
ママは少し、頭がおかしい。
昔はそうではなかったと思うけど、でも記憶に残るママはいつもお手伝いさんに介護されながら部屋に籠りきる姿ばかりで、ママのママらしい姿なんて微塵も覚えていなかった。
妻を気にもしない夫、家族に何も告げずに消える妻。
その二人を無表情に観察する子供。
……薄情、なのだろう。
でも、何の興味も湧かないんだ。
パパがママにも私にも興味がないように、私もパパにもママにも興味がなかった。きっとママもそうだっただろう。どこまでも歪な、だけど極楽の蜘蛛の糸でなんとか繋がっていたような家族の形が、ママの入院をきっかけに崩壊しただけの話だった。
世界は私の事情を考慮せず、時間は平等に過ぎていく。私が家族に思いを馳せている間にも次のリニアが、五分も経たずにやってくる。
扉が開けばたくさんの人が荷物片手にぞろぞろ外に出て、排出し終わればまたたくさんの人が乗るのだろう。吐いて、吸って、動いて、また吐き出す。それは、酸素と結合する赤血球に似ていた。
リニアを出てホームに降り立った人々は時計に目をやり早足でエスカレーターへ向かっていく。どうしてそう急いでばかりなのか。この中の何人が、親族を失ってすぐに急ぎ続けるのだろう。
リニアから吐き出された人たちが散り散りになって別れていく中で一人、大きなトランクケースを持った、小奇麗な服を着ている少女が呆然と立ち竦んでいた。次のリニアに乗ろうと待っている人が苛むような目で少女を見る。邪魔だと言外に訴えるけれど、少女の瞳はそんな人たちを映していなくて、虚ろに前を向いたままだった。
少女はやがてふらりと、こちらを向いて歩き出す。危なっかしい足取りで、ついてくる大きなトランクが少女を倒さないように重しになっているようだった。少女は私の目の前まで来ると、ポスンと音を立てて隣に座った。
ホームの情報端末に写されていたニュースサイトの、誰かがゲーム大会で優勝したとかなんとかだなんて記事を読むふりをして、ちらりと少女を横目に見る。
美しい少女だった。
海外の血が混じっているのか、日本であまり見ないような鮮やかな白の髪は仄かに青みを帯びていた。月並みな表現だけど、まさしく人形のように、と言うのだろう、それは人が手を加えて産み出したと思わせるほど、自然に反した美を持っていた。感情を出さない虚ろの瞳が、余計に人形らしさを思わせるのかもしれない。
「あの」
「えっ?」
「……小蘭、夜さん?」
不意に少女が話しかけてきた。見ていたのがばれたか、にわかに早まりだした鼓動は、その口から私の名前が飛び出した時に跳ね上がった。
「…………え、ええと。そう、だけど……」
「そう」
そう、そうと来ましたか。こっちはなにもそうでは済まないのだけど。
「わたし、えいる。紙月えいる。これからよろしくお願いします」
「ええと?」
しづき、志月、紙月……。それは、私がお世話になるはずだったパパの知り合いの苗字だったはず。なら、この紙月えいるさんはそこの人、なのか?
「ていうか、なんで私ってわかって」
「勘」
「勘」
「…………ホームで待ってるって聞いてたから。わたしも遠くに住んでて。でも今年からこっちに住むことになったから。じゃあまとめて迎えに行くから一緒に待ってなさいと、お姉さまが」
「お姉さま」
フィクションの中でしか聞いたことのないような言葉に私の脳が驚いている。理知の外の人というのを初めて見た気がした。
紙月えいる。不思議な人間だ。ふわふわしていて地に足がついていないような、作り物めいているというか。
「それじゃあ行こう。お姉さまとお義兄さまが待ってるから」
それだけ言うとえいるは私の手を取って歩き出した。私をつかむ手と逆の手で引かれているトランクケースの車輪がホームの硬い地面を滑るゴロゴロという音が、私の耳に響いていた。
* * *
紙月家。それは現在、日本で最も急成長を遂げている会社の創立者一族だ。まだリニアが走っていなかったような数十年前の日本のベンチャー企業が発端となった紙月家運営の会社は、星船グループによる資金・技術提供の下、長い時間をかけ、前人未到のフルダイブVR技術を確立させることによって歴史に名を残した。
と、これがお世話になる身として最低限調べた紙月家の情報だ。そこから来歴歴代社長関連企業諸々も電子の海に転がっていたけれど、流石にそこまでは覚えなくていいだろう。要するに現在、VRと問えば紙月家と返ってくるような家だということだ。
で。
「結構普通ね」
「お姉さまの家だから」
じゃあそんな一族の家はどうなんだろうと思っていた私の目に飛び込んできたのは、どこにでもあるような、よくある一軒家だった。
いや、大きいけどね? 明らかに高級住宅街に建っているそれはウチよりも大きい、のは当然だろうけど、それはありふれたお金持ちの家のような玄関まで歩いて十数分かかる大きい庭とか、そこに併設されたプールだとかそんなものは一切なくて、隣や向かいに建っている家よりも小さい庭に、三階建ての家が建っているのみだった。それも一階部分は車庫であるので実質的には二階規模じゃない、これ。
駅から出た私たちを迎えたえいるの姉夫婦が軽自動車に乗っているのを見て覚えた違和感が急速に現実味を帯びていく。それだけ大きい家ならリムジンみたいなので迎えに来るかなあと思っていれば軽自動車だ。それもご本人。お金持ちのイメージが音を立てて崩れていくようだ。
「あはは、これはあいさんの趣味でね。実家が過剰に大きいからこじんまりした家がよかったらしい」
「これでもかなり妥協しましたが。本来ならワンルームマンションで同棲じみた結婚生活がしたかったのです」
「うーんそれは不便のほうが強いと思うなぁ」
この家の家主、えいるのお義兄さまたる紙月葵は困ったように笑った。そのまま軽自動車もあいさんの趣味なんだよと付け加える。
「お手伝いさんもいないんだ。あいさんは家事も全部自分でやりたがってね」
「それが妻というものです」
「古い考え方だよそれ」
「古くてけっこう。それに家事の手もこれから二人増えますから」
そうして、お姉さまたる紙月あいるは私たちを見据えた。私もあいるさんを見る。真顔のまま表情を崩さないあいるさんは、けれどえいるよりも感情が溢れているように見えた。
「ここで厄介になる以上は、働いてもらいます。働かざる者食うべからず、ですから」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「…………どうしたのあいさん。そんな感極まって」
「……ずっと、こう言ってみたかったのです。実家ですと本当に働かなくても一生生きていけるので」
「だからそんなウキウキしてたんだね……」
ウキウキしていたのか、真顔だから全然わからなかった。
* * *
「二人の荷物は既に三階に通してありますので、確認を」
すでに業者に頼んでおいた荷物は運びこまれているらしい。手荷物だけの私はトランクケースを抱えるえいるより一足先に階段を上る。
三階も、まあ普通だった。二階も普通だったけど。階段の廊下に部屋が二つ、廊下の突き当りに部屋が一つとベランダに出るための窓だ。流れに沿って廊下を歩き、階段沿いの部屋にかかっているプレートを読む。小蘭夜、と書かれているので、そこが私の部屋なのだろう。しかしやたら丸っぽい、中学生女子が手紙に書きそうな文字だけど、もしかしてこれあいるさんが……?
扉を開けるとダンボールの山だ。当然か、流石にそれを開封するようなことはしていないらしい。一般的にかなり広いのであろうその部屋は、ダンボールとベッドのみが鎮座する殺風景を描いていた。
その中でふと、変なものを見た。
ベッドの上だ。何か、黒い機械のようなものが置いてある。近寄ってみれば。ヘルメットのようだった。機械仕掛けのヘルメットが、血管のようにコードを床に這わせている。なに、これ。
もしかしてえいるの荷物が間違えてこっちに入ってしまったのかと思い、部屋から出てすぐ隣のドアをノックする。エイルの部屋は隣だ。こちらも丸文字で書かれたプレートが掛かっていた。
どうぞ、の声に反応してドアを開ける。
目の間にあったのは白だった。
「え?」
思わず、声が出た。白い部屋だ。壁も、絨毯もベッドも白い。えいるが持ってきたトランクケースも白色だった。そうして、それだけだ。
それだけしかなかった。
「どうしたの?」
「…………あ、ええ。なんか、私の物じゃないのが部屋にあって、えいるの」
「違うよ」
「え?」
「わたしのは全部ここにあるから」
ここに?
広い部屋にぽつんとベッドが一つ。それとトランクケースがあって、見えないだろうけどクローゼットには服なんかが入っているんだろう。それだけの部屋だ。それは小奇麗な牢獄と言われても納得してしまうような、恐ろしく生活感に欠けた部屋だ。
この部屋で生きていけるのは、機械くらいじゃないかと否応なく思ってしまう。得体の知れない不気味があって、小さな冷や汗が背中を伝った。
まだ住んでいないから。これから住み始めれば物が増えていくんだろうと、自分を納得させた。部屋に何があろうとなかろうと部屋主たるえいるの勝手だろうけど。
けれど、私の頭に住み着きはじめたえいるのイメージは、物を増やすことを嫌っていく。空虚な部屋で眠るえいるの姿がありありと想像できた。
「それ」
と、えいるが告げた。えいるの言動はいちいち予兆がなくて、どこか掴みづらい。
「たぶん。お姉さまのプレゼント」
わたしはもってるからと、要領を得ない返答をするえいるを伴って、二階へ降りる。いい匂いがしてきた。どうやら昼食を作っているらしい。
「葵さん、醤油取ってもらえますか」
「…………あいさんの側にあるように見えるけど」
「新婚さんらしいでしょう?」
「火を使ってる前を横切って手を伸ばすのは危険行為なんだよね」
「いけずですね」
「いやいや常識だから。あと結婚して四年目だから。新婚名乗れなくない?」
「心は新婚さんです」
「あいさんは強いなぁ」
……訂正。二人、キッチンで料理していた。
下りてきた私たちを視認したのか葵さんがキッチンから離れる。どうやら昼食作りも終盤のようで、手を空けても大丈夫そうだった。
「どうだった? なにか不自由とかあったかな?」
「いえ全然。むしろ前より広いくらいで」
「ならよかった。気になることがあれば何でも言ってくれ。なんでも用意するよ」
「あ、ええと、お気遣いなく」
「気遣うさ。まだ中学生……じゃなくて、今年から高校生だろう? その年頃は大人に反抗したり遠慮したり、物を言わなくなるからね。こっちから言わないと」
かくいう僕も高校時代は家出をして一週間北海道を彷徨ってね。そう続けた葵さんの顔は嫌な過去を語る苦々しい表情と、武勇伝を語るようなどこか誇らしい顔を同居させていた。
「それと、こちらも気遣ってあげてほしいんだ。えいるもね。あいさんは今妊娠中だから」
「あ、え? そうなんですか?」
「ええ。二か月目ですが」
キッチンから出てきたあいるさんが答えた。昼食はできたらしい、白い皿にパスタを乗せて、リビングの机に配膳している。
「だから、家事を手伝ってくれると嬉しい。僕も手伝えたらいいんだけど、生憎と出張が多い身でね。夜しか家にいられない時も多いんだ」
「毎日帰ってきてくれるだけで十分です」
「あはは、それでもね、思うところだってあるんだよ。さ、昼食にしよう。冷めてもおいしいけど、できれば温かいうちにね」
「……………………うよ」
「? なんて。言ったの?」
「なんでもないわよ」
葵さんとあいるさんに促されるままリビングに置かれた席に座る。目の前のパスタは温かく湯気を伴って、ソースが美味しそうに絡んでいた。
* * *
「紙月家と取引している会社の一つなんだよ、君のお父さんの会社は」
「それはまぁ、なんとなく」
「で、君のお父さんが妙に義兄さん……あいさんの兄だね、に覚えがよくて、家庭の話……家で一人きりになる娘の話になった時に、じゃあうちで預かろうかって持ち掛けたんだよ」
「…………そうなんですね」
「うん。最初は義兄さんのところで預かる予定だったんだけど、あいさんの妊娠とえいるのこともあったから、うちで預かるほうが都合がよくてね。君のお父さんとも話して、それでここで預かることになったんだ」
まるで質屋みたい。私という荷物を預けることでパパは時間と娘を一人取り残す罪悪感の免除を手に入れたわけだ。ママが帰ってきたら引き出されてまたあの家に戻るのだろうか。だったら、ずっと病院にいてくれないかなと、本心から願う。
「ところで、部屋の中の物は見ましたか」
あいるさんが昼食を食べ終えた私たちの食器を片付けながら言った。
「私からのプレゼントです。ゲームをすると聞いていたので。もう持っていましたか?」
「え、ええと……話がうまく掴めないんですけど……」
「フルダイブVR機器」
「え?」
「フルダイブVR機器だよ。あれ」
ふるだいぶぶいあーるきき。聞き覚えのない単語に、昼食の分解にブドウ糖を回してエネルギーの足りない脳が処理落ちしそうになるのを、必死で押しとどめる。フルダイブVR機器。やっぱり聞き覚えがない。
「半年前に発売した世界で初めての量産型フルダイブVRゲームハードです。現状でも予約ですと二年待ちの物ですよ」
「そ、そんなものをどうして……」
「まあ紙月で作られたものだからねぇ。身内特権だよ、唯一のフルダイブ対応だけのゲームも紙月運営だし」
「え、そうなのえいる?」
「電気屋。大忙しだよ」
「入荷しては抽選の繰り返しだからね、宝くじを買うほうが当たる倍率が高いとまで言われているんだよ」
「へぇ…………でも、あの」
「なんですか」
「私がやっているの、ARゲーム、なんですけど」
「………………」
ARゲーム、というのは昨今のVRの波に押し負けそうになりながらもスポーツやカードゲームなんかで根強い人気を誇るジャンルだ。仮想現実を見せるVRではなく、現実を拡張するAR。チャンバラでビームを出す剣を振り回し、サッカーで蹴ったボールが炎のエフェクトを纏い、カードを出せばそこに描かれたモンスターが飛び出したりする。ガンシューティングも人気だ。画面だけじゃなく現実に侵食してくるゾンビを、やたらと凝ったガンコントローラーで撃つゲームは現在のテーマパークのゲームセンターなんかに行けば必ず置いてあるだろう。
重要なのは。
ARゲームは、VR機器では遊べない。
個人で持つような種類じゃないけどね、ARゲーム。基本的にスポーツ系ゲームの分野だし、そうなると広い場所なんかが必要になるわけで。大きい都市に行くとだいたい一つくらいはARスタジアムがあって、そこで超人サッカーなり人外野球なりできるしチャンバラで飛ぶ斬撃を出したりできる。なんなら魔法も出せる。ゴーグルを外すと変なポーズで叫びあっているだけなので、拡張されていない現実を直視すると虚しさと羞恥で死にたくなるというトラップまである。
近くにARスタジアムがあるということで、私はこのARゲームにどっぷりとハマっていた。施設は入場料式だけど、パパから貰った年間パスポートという魔法の力が私をさらに戦場へ駆り立てた。具体的には週に六日は通っていた。
戦場、と言えば。戦争系ARゲーム『アサルトクロック』、スタジアム一位取れなかったな。戦争系というか実質サバゲーだけど、地雷と爆弾が解禁されたゲームだったので是非とも勝ち取りたかった。スモークで炙り出しスタンで足止めしてアサルトライフルで蜂の巣にする。うん、戦争ね! 近所の大学のサバゲー同好会がいなければスタジアム一位も夢では無かったろうに、あいつら負けるの早いくせに負けが決まった途端の悪あがきが酷いせいでいつも泥沼になってスコアが稼げなくなるんだ。
そういえば、この家の近くにはARスタジアムはない。ARゲーム卒業だ。まさか物理的に卒業する羽目になるとは思わなかった。元気にしてるかしら、スタジアムのみんな……大体のゲームでスタジアム一位を私がとるものだから私に一位を取らせないために結託してゲームを泥沼にしていたみんな……やっぱり元気じゃなくていいや。風邪ひけ。
「………………まぁ、VRも、面白いので」
苦し紛れを隠そうともしないあいるさんが、精一杯に振り絞った声だった。
「VRゲームも触れてみるといいよ。せっかく機器があるのだしね」
対照的に葵さんは面白くて仕方がないというような笑みを堪えていた。
「何といってもフルダイブだからね。これからの時代を引っ張っていくジャンルになるから、やっておいて損はないよ。まあ、今はフルダイブVRゲームは一つしかないけどね?」
「そうなんですか?」
「ええ」
あいるさんはいつの間にやら調子を取り戻していた。少し冷たく感じる真顔で、けれど声色に自信を伴って、告げる。
「フルダイブVR対応MMORPG『アルカディア・プロジェクト』。紙月が運営する、ラクエンプロジェクトの根幹にして看板、世界に名を刻むゲームです」
* * *
アルカディア・プロジェクト。
現実と遜色ないグラフィックは他社の追随を許さず、まるでどこか別の星に移動してしまったかのよう。五感の再現、思考加速、人と見まごう高度なAI、七つのメインサーバーと多数のサブサーバーを繋げて作られた世界は、全世界の人間を受け入れても破綻しないと言われている怪物。半年前に発売されたゲームなのに今でも手に入らない、一部では幻とさえ言われるゲームだ。
ハードの抽選倍率からしてあれなのだから、需要に供給が追いついていないのだろう。それでも現時点でプレイヤー数は五百万人を超え、さらに増加中。五百万も販売しておきながら未だ目も眩む倍率で抽選が続くことを考えると、どれだけの潜在購買層が存在しているのか、考えただけで恐ろしくなってしまう。転売ヤーがあちこち駆けずり回り一つだけ確保できたそれを、転売せずに自分で遊び始めたという逸話まで残っている。
「そんな手に入れるのも一苦労のゲームが、ここにあるのね」
特段VRに興味もないのに、などと呟けば、もし人に聞かれてしまった日には私刑は免れなさそうだ。
部屋に戻り、ベッドに座ってVR機器を弄っている。本来なら色々手続きやセットアップがあるそれは、紙月夫妻の厚意で後はゲームを起動するのを待つばかりとなっていた。とは言っても、個人的なプロフィールなんかは起動後に設定するらしいから、厳密には被るだけでゲームを遊べるとはいかない。
手に持った黒のVR機器は、ずしりとした重みを私に与える。ヘッドセットからコードの束が血管のように床を這ってはコンセントへ向かう。それは、脳と繋がる脊髄を思い出させた。
それを心なしか慎重にベッドの上に置いて、今度は携帯端末を手に取る。機械仕掛けの長方形は、充電の三割をキープしながら、ダウンロードされたアルカディア・プロジェクトの説明書を表示させていた。
…………アルカディア・プロジェクトであなたは未知の大陸「エスト」を臨む旅人となります。壮大なエストの世界を冒険するあなたの目の前には、強大な敵、難解な問、険しい環境が立ちはだかり、時としてそれらに立ち向かうときもあるでしょう。一人、あるいは仲間と協力するその先に、あなたの極限を見いだし、打ち破りましょう!
アルカディア・プロジェクトでは冒険以外でも、生産・販売やエストに暮らす人々の生活の手伝い、果ては政治に参入するなど、その楽しみ方は人それぞれとなっており、あなただけのゲームプレイを追求することができます。さあ、旅人としてエストの大地へ一歩踏み出しましょう!
目次を見ただけで読むのを諦めた。別に前書きでげんなりしたわけではなくて、表示された説明書は優に二百ページを超えていたからだ。それだけやれることが多いからなのか、それだけ運営が想定した遊び方が存在しているからか。どっちかはわからないけれど、多分これを全部読むような人間はそういないんだろうなあと思わせる。
それに全部読まないと一歩も動けないというわけでもないだろう。
てきとうに当たりをつけて、携帯端末をベッドに放り投げる。早速ヘッドギア型のVR機器を被ってやりたい気持ちもあったが、ダンボールに溢れた部屋で遊びに興じるのは、自宅ならともかく他人の家となると少し罪悪感が湧く。
とにもかくにも、まずは荷解きだ。