-後編-
そんなある日のことだった。坂町さんが風邪を引き、看護師長から坂町さんの代わりに夜勤に入ってくれないか頼まれた。特に予定もなかった私は謹んでそのお願いを受け入れた。一緒に夜勤をする子たちみんな年下でかわいく、断る理由はなかった。唯一懸念材料なのは、当直が雨宮先生だということだ。
他の子たちもそのことを心配しているようだが、普通に仕事をうまくやってれば雨宮先生の説教も飛んでこない。要はミスしなければいいのだ。
そう意気込んだ私だったが、夜勤が終わり、もうすぐ交代の時間に大きなミスを犯した。点滴の袋を取り間違えてしまい、あわや大惨事までに発展した。雨宮先生のおかげで何とか事なきを得たが、看護師長は激怒した。
「今回は、無事解決したことですしもうここまでにしましょう。」
私が看護師長のお叱りを15分間受け続けていたところに、雨宮先生は声をかけてきた。
「こんな致命的なミスをほっとけませんよ!」
看護師長はそう言うと私へのお叱りを再開しようとしたが、雨宮先生が私と看護師長の間に立ちふさがり、
「残りは私が立花さんにちゃんと言っておきますので、今日はここまでにしましょう。」
ここ言われては、看護師長も引き下がるしかなかった。看護師長も雨宮先生の厳しさと説教を知っているから残りは雨宮先生に任せようという魂胆だったのか、この場から立ち去った。
「立花さん。ここ最近上の空だけど、ちゃんと仕事をしてくれないと困るの。何に困ってるのか言ってくれないかしら。」
確かにここ数週間、ミサのことをずっと考えてて、仕事に集中できていなかった。でも雨宮先生がこんなにやさしく私のことを心配するのは珍しいと思った。私のイメージの中の雨宮先生は少なくとも人を心配して気を遣う言葉はかける人ではなかった。
「その、最近出会った人が忘れられなくて、それでずっとその人のことを考えてて、て何言ったるんだろう私・・・」
私の意味不明な発言に対し、雨宮先生は短く
「そう・・・」
と呟いた。そして訪れた沈黙、その沈黙がいたたまれなくなり、勢いよく先生に向かって腰を曲げた。
「本当にすみません。これからこのようなことは絶対にないようにします。今日は先生にも迷惑かけてすみませんでした。そして助けてくれてありがとうございます。」
そう言うなり、私は急いで駆け出して、雨宮先生から離れていった。
夜勤を終え、帰宅した私はけじめをつけるべく、化粧をし直し、「ホーニッヒ」に向かった。もしミサに会えなかったら、これで諦めよう。そろそろ切り替えなければ仕事にも支障が出る。・・・もうすでに出てしまったが。
時間は午前3時を回っていた。「ホーニッヒ」の店内相変わらず閑散としていた。カウンター席に座り、カクテルを注文した。今日の出来事をお酒の力を使って忘れたかった。そうこうしている内に30分過ぎた。もうダメかと思ったその時、入口の扉が開いた。
あの日と同じ服装で、綺麗で妖艶な容姿をしたミサが入ってきた。ミサはあたりを見渡し、私のところにまっすぐやってきた。
「ミ、ミサ。」
隣の席にやってきたミサに向かって、私は恐る恐る声をかけた。
彼女は私の隣の席に座ると私と同じカクテルを注文した。
ミサはテーブルに置かれたカクテルを一口二口飲んだ。その仕草もまた妖艶で見るものを虜にする魔力があった。
ミサは私の呼びかけに答えるどころか、一言もしゃべらなかった。ただただ私の隣でカクテルを飲み進めていた。
その沈黙に耐えられなかった私はもう一度彼女に話しかけようとしたその時だった。
「立花さんって本当に可愛いわね。」
彼女に話しかけられたびっくりしたが、それより彼女が私の名前を呼んだことに驚いた。
「な、なんで私の名前を・・・」
そうつぶやくと、彼女は私の耳の後ろに両手を当て、唇を優しくキスをした。
「私のことを思って、上の空になって仕事で重大なミスをするなんて。」
私はあまりの出来事にパニックを起こした。なんでミサが私の名前を知ってるの、さらにはなんで仕事でミスをした事まで知られているんだろうか。
「あら、まだ気づかないのかしら。立花春香さん。今日のあなたのミスだって私が助けてあげたのに、そのあとあなたを看護師長のお叱りから解放してあげたのも私なのにね。」
そう言われて、我に返った。
「ウソ、ミサが雨宮先生。ウソでしょ。」
「ふふ、本当はあなたを落とそうと駆け引きしてたんだけど、さすがに仕事にまでミスが出てしまうと困るんだよね。」
「駆け引き・・・?」
「そうよ。あの日から私のことが忘れられないでしょ。」
笑顔でそんなことを言われ、私はどうすることもできなかった。
「さ、今日も一緒に素敵な夜を過ごしましょう。」
あの日と同じセリフを言われ、私はただ頷くしかなかった。
先生の目にとらわれた私は糸の切れた人形のように大人しく先生の言うことに従った。
一応、前後編で完結です。少しだけ後日談があります。