サチコへ
アイダ・ショウヘイは、自分の見てくれを武器に女の紐として生きていた。
その日、彼は、ある女性の家を夜明け頃に出て駅まで歩く途中(彼は、酒を飲むときは車を運転しない)、薄明るい街を歩いていて、道の反対側にある自動販売機で飲み物を買おうと一歩踏み出したとき、後ろから来ていた大きなトラックに10メートルほども跳ね飛ばされて、止まりきれないトラックに、さらにもう一度轢かれて下敷きになった。
彼は死んだ。
女性の心を引きつけた、鼻筋の通った端正な顔も、しなやかで力強い体躯も、アスファルトに叩きつけられ、巨大なタイヤに踏みにじられて、もはや見る影も無かった。そして、彼は、自分の身元を証明するものを何一つ持っていなかった。警察は、いろいろと調べたが、彼がどこの誰であるか、わからず、どんな顔だったのかさえ、わからなかった。
彼は、あの世へ行った。
白い何も無い平坦な景色の場所をしばらく歩くと、天国と地獄の分かれ道にさしかかった。
「お前は、自分が天国と地獄のどちらに行くかわかるか?」
どこから聞こえてくるのか、方向のわからない不思議な声が彼の耳に伝わった。
「……地獄。」
彼は、彼独特のニヒリズムとも言うべき感性で、表情も変えず、声に不安な響きも与えずに言った。
「ふむ。お前は地獄へゆく。……だが、そこへゆく前に、まず最初の罰を与える。」
ショウヘイは、なにも言わず、次のことばを待った。
「お前は、生きている間、多くの女を傷つけ泣かせた。だから、お前のために泣いてくれる女は、いない。お前は、お前の愛に触れ、お前を思って泣いてくれる女が現れるまで、この先に進むことを許さない。お前は、その目的が達せられるまで、言い知れぬ無念を感じながら人間界を彷徨うがいい。」
ショウヘイは、人間の世界に戻された。もちろん生きた彼では無く、仮の生を受けたのだ。
彼は、どうしたらいいのか、わからなかった。公園の色あせたベンチに腰掛け、ひざに肘を乗せて両手を軽く組み合わせ、砂と小砂利が混じった地面を「言い知れぬ無念」を感じながら見つめた。苦しく、押しつぶされそうな絶望感を味わい、唇が震えた。
彼は、以前に関係のあった女を訪ねてみた。
だが、ひどい仕打ちをして去って行った男が突然目の前に現れて、喜ぶ女はいなかった。罵り。ものを投げてくる者もいた。
「どうすればいいんだ。」
彼は、また公園で一人、考えた。
彼にとって、女は「向こうから寄ってくるもの」だった。その状況が、彼の傲慢を生み、愛することなど無縁の男になっていた。
「愛するとか、愛されるとか、それはなんだ。」
彼には、全くわからなかった。だが、女に、
「これは、僕の愛情だよ。」
などと女の耳元で囁くことがあった。
その後、何人目かの女を訪ねたとき、彼女は、驚き困惑した顔であったが、彼と話をしてくれた。彼女は、サチコという。
「急にどうしたの?」
ショウヘイは、どうすればよいか考えた。
――誠意を見せるんだ。
そんなことばが思い浮かんだ。そういうことばは、今まで、反社会的な世界に住む人間がカタギの人間から金をもらうときに言うセリフだと思っていた。
彼は、彼女の住む部屋に通されたが、以前の彼とは全く違い、かしこまって紳士的だった。彼女は、以前と違う彼を奇異に感じ、ふたりとも、お見合いでもしているかのようにギクシャクしたまま時が流れた。
「きょうは、これで帰るよ。」
ショウヘイは、立ち上がった。突然訪ねてきて、金の無心でもするのかと思っていたサチコは、何もせずに帰るというショウヘイに、また驚いた。
車で来たのかと問われ、歩いて帰ると言うと、駅まで行くならバスがあると言って、サチコも一緒に表に出てバス停まで歩いた。日が暮れても夏の熱気は、すぐには引かず、サチコは、手をパタパタと扇ぐようなしぐさで、
「蒸し暑いね。」
だが、ショウヘイには、もはや暑さは感じられず、
「ああ、そうだね。」
心の無い返事をするだけだった。
バスに乗る前、サチコは、財布から回数券を一枚取り出してショウヘイに差し出した。
「使う?」
「……ああ、ありがとう。」
ショウヘイのそのことばを聞いて、サチコは吹き出しそうになった。
「今、『ありがとう』っていったの?」
ついぞ彼から、そんな感謝のことばなど聞いたことが無かったので、嬉しいような、あり得ないものでも見ているような、サチコはそんな顔をした。
バスに乗ったショウヘイは、窓の向こうから手を振って見送られた。
ショウヘイは、サチコのところへ毎日、通った。けれど、自分のために涙を流してもらうには、どうしたらよいかは、まだわからなかった。そして、幾日も過ぎ、警察では、保管していたショウヘイの遺体が身元不明のまま無縁仏として処理される日が近づいていた。
彼は、毎日、自分の遺体を見るのが、その日の最後を締めくくる行いになっていた。それも、もうすぐできなくなる。それは、彼の言い知れない無念さをさらに増幅させるものだった。彼は、毎日、一人になると、かつて味わったことの無い痛みに苦しみ、もがいた。
あすの苦しみは、きょうよりもさらに苦しい。
ある日、ショウヘイがサチコの部屋に行くと、彼女は高熱を出してベッドに寝ていた。サチコは、息も絶え絶えで、びっしょりと汗をかき、ことばを発することも難しくなっていた。ショウヘイは、氷で冷やしたタオルを用意してサチコの額に当てた。そして、思いついて彼女の手を握ってみた。
「ショウヘイの手、冷たくて気持ちいい。」
彼女が、細く消え入りそうな声でそういうのを聞いて、ショウヘイは、頷いて苦笑いした。
彼は、サチコが死んでしまうのではと不安になった。医者に連れて行くべきかとも考えた。彼は、死んでいる人間だ。サチコが危険な状態に陥ってることは、よくわかった。
「大丈夫。ショウヘイがいてくれれば。」
ショウヘイは、自分が信頼されているのかもしれないことに気づいた。人に信頼されることとは、こういう気持ちかもしれなかった。だがそれは、生きているうちに気づくべきことだった。
サチコは、意識を失ってしまった。彼は、すぐさま、サチコを病院へ連れて行った。その判断は、正しかった。医者の見立ても、彼女は、
「もう少し遅かったら、危なかったかもしれませんね。」
救急病棟で、何本かの管をつながれて、眠っているサチコをショウヘイはずっと見ていた。そして、彼は、この空間が日々、多くの生と死を駆け引きし、それを見守る家族や恋人がいることを感じ取った。
翌日になって、サチコは意識を回復した。目を覚ますと、かたわらにショウヘイが座っているのを見て、かすかに笑った。
サチコの容体は峠を越えた。さらに翌日の朝、目が覚めてみると、もうすっかり熱が下がり、生気を取り戻していた。
部屋には誰もいなかった。しばらくすると看護師が来て、上体を少し起こしてくれた。
ベッドの横にあるテーブルの上に、二つ折りの手紙が置かれていた。彼女は、それを取り上げて開いてみた。
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サチコへ
私は、君に済まないと思っている。
私は、君に、私のために泣いて欲しくて優しくし、私のために涙を流して欲しいと思っていた。
私は、君から大切なものをもらおうと考えていた。
だが私は、私の中の何もかもが間違っていたことに、ようやく気づいた。
私は、ここを去る。
君に、会って謝れないことを許して欲しい。
私は、君が元気になってくれたことがとても嬉しい。
君が、これからよりよい相手と出会い、幸福を掴むことを心から祈っている。
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サチコは、手紙の上に、幾つぶもの涙を落とした。
ショウヘイは、地獄の門を通された。
おわり