十三夜
樺音がとうとう学校に来なくなった。私は心配だったが、私の周囲の友達は、ほとんど何とも思っていないようだった。
「登校拒否かな」
「いじめられてもいないのに」
「勉強についていけないのかな」
「晴楓は、あの子とくちきいたことある?」
「そうだなあ……」
私は思い返す。ただ一度だけある。
「前に美術で、屋上からの風景描いたじゃない。あの子、高圧線の鉄塔を大きく描いてたんだ。それで、面白いもの描くねって言ったよ」
「そしたら何て答えたの?」
「鉄塔が好きなんだって」
「あーそれ変わってるわ」
ただ私は、樺音に惹かれてもいた。私も人に溶け込むのは苦手で、本当は樺音のように一人でいたいのに。無理して友達の中にいる。気を使う。愛想笑いをする。空気を読む。ひたすら疲れる。でも一人では寂しく、それはそれで生きづらい。
私が樺音に鉄塔のことを言って以来、樺音と時々目が合う。私と話したがっているのかもしれないと思ったが、一人外れて、彼女のところに行く度胸もない。でも、何をしているのか気になっていたし、いつか声をかけようとは思っていた。それなのに、学校に来なくなってしまった。
帰りの会で、担任が割と深刻な顔で報告した。樺音は家にも帰っていないという。家出かもしれないので、どこかで見たら学校に連絡するようにと。
存在感がなかったので、顔も忘れてしまったという冗談が飛び交う。私がちゃんとしていれば、学校に来続けられたのだろうか。
「おーい晴楓、帰るぞ」
友達が誘ってくる。私は机からのろのろと立ち上がる。
「なんか、顔色悪いね」
「そうかな……もう帰っていい?」
「宿題忘れるなよ」
「大丈夫だよ」
私は一人で帰ったが、ふと思いついて、学校から見える、あの鉄塔のところまで行ってみようと思った。家で軽装に着替え、鉄塔に向かう。
樺音がスケッチしたあの鉄塔。それは低い山の中にある。木の多く繁る山の中を車道が通っていて、鉄塔の近くまではそれで行ける。車道から、舗装されていない細い道に入ってしばらく歩くと鉄塔に着く。鉄塔の下はコンクリートの土台になっている。そこはフェンスに囲まれているので入れない。ただ、低いフェンスだし、よじ登って乗り越えることは簡単にできそうだった。もちろん中に入る気はない。私はこの近くに樺音がいないかと見渡したが、木々に囲まれているばかりで、誰もいなかった。いくら鉄塔の絵を描くほど好きだからって、家出してここにいても何もないから、いるわけもないかと思った。私は帰ろうと思って、元来た道を戻りかけた。
目の前に樺音が立っていた。学校の制服姿だった。もしやと思ってはいたけれど、本当に目の前に現れると驚く。
「……樺音さん、ここに、いたの?」
「あなたこそ、どうしてここに?」
樺音は、冷たい表情で私を見る。声もどこかとげとげしい。
「私は、あなたが、鉄塔の絵を描いていたから、ここじゃないかって……みんな、心配してるよ」
「してないよ」
即答されて、私は返す言葉もない。実際、クラスに心配している人はいなさそうだった。行方不明事件としての好奇心を持つ人はいたが。
私が黙っていると、樺音が歩いてきて、倒れている木の幹に座った。私も彼女の隣に座ろうと思ったが、近づきがたく、少し距離を置いて座った。
「私は帰る場所がない」
「おうちは? きっと家族は心配してる」
「本当の親じゃないんだ……少なくとも一人はね」
「でも……」
「あなた晴楓さんだっけ?」
「そうだよ」
「時間の無駄だ。帰りなよ」
冷たく突き放されるのは辛い。
「私は……謝らなきゃ」
「何を?」
「本当は、あなたに何度も声をかけようと思って……でも、できなかった」
「いいよ。別に期待してない」
時々私と目が合っていた、と言おうとしたが、否定されるのも怖い。でも分かっているんじゃないかと思い。私は樺音を見つめる。彼女は前を向いたまま。私の方を見ない。
「運動会の……短距離走で、あなたは四人中四番目だった」
それを聞いて樺音は苦笑した。
「何を言うかと思ったら……何見てんだよ」
私は構わず続ける。
「あと、ダンス競技でね、あなたはいつもタイミング間違えてた。一人だけ、早く動き出す」
「リズム感はないんだ。それから?」
「給食でグリンピースが出ると絶対残す。お皿の中に、緑の豆だけ入ってる」
「だってあれ冷凍だもん。採れたてのならちゃんと食べるよ」
「ヨーグルトも残す」
「腐ってるみたいで好きじゃない」
「美術の陶芸で作ったのは、河童の花瓶。あれ、かわいかったよ。河童のくちばし、カラスみたいだった」
樺音は笑い出した。そして私の方を見る。
「あれ、河童じゃないんだよ。カラス天狗」
「え? 何それ?」
「小さいけど羽もついてたはずなんだけど」
「河童だと思った」
私は樺音との距離を縮めて、すぐ隣に座った。彼女の笑いが消えた。
「あれ……壊されちゃった」
「どうして?」
「弟にね……親は弟の方をかわいがってる。変なものを作る私が悪いって」
樺音はうつむいた。涙がこぼれたように見えた。
「そんなの……そんなのはひどいよ」
私は思わず樺音の手に自分の手を重ねたが、彼女の手が冷たいので驚く。
「どうしたの? 冷たいよ?」
「……ずっと外にいたからね」
「おうちに……おうちには帰れないのか……それなら私のうちに……」
「別に、無理しなくていいよ」
「だって……」
「あなたはもう、帰った方がいい。暗くなってきたしね」
見渡すと、確かに暗くなってきた。上の方はまだ明るさが残っている。でも東の方だろうか、もう暗くなっていて、丸い月が出ていた。
「今日は満月か……」
「よく見て。違うよ……今日は十三夜。満月には二日足りない」
よく見ると、確かにまん丸ではなさそうだ。
「本当だ」
「でも私は、十三夜の月が好き。まん丸なんて、この世のものじゃないみたい。でもみんなはまん丸な月が好きなんだよ。少なくとも、そういうものだと思って見ている」
「ねえ、うちに来ない?」
「大丈夫だよ。何とか帰る……今日はありがとう。何かお礼をしたいけど」
「お礼なんて……別にいいんだよ」
そう言う間もなく、樺音は私を抱きしめた。ただ、その体も冷たい。私も思わず彼女を抱きしめる。
「樺音さん……体も冷たいよ。今すぐ暖かいところに行って。そうでないと……」
私は涙が出てきた。樺音をきつく抱きしめたまま、私はもう一度月を見た。十三夜の月。
「ごめんなさい……今まで、ごめんなさい」
私は謝った。ただ、もう、この時に、分かっていたような気がするのだ。
私達は立ち上がり、二人で山道を降りていった。車道に出て、山のふもとへ。でも、降り切らないうちに、樺音の姿が見えなくなった。私は焦ったが、もう辺りは暗い。山に戻るわけにもいかない。私は泣きそうになりながら家に帰った。空はもう曇ってしまったのか、十三夜の月も見えなかった。
翌日、樺音の死が知らされた。
鉄塔から身を投げていた。死後三日ほど経っているという。
でも私は昨日、樺音に会っていた。
そして昨日は十三夜ではなく、十五夜だったそうだ。
(終わり)