私の愛した勇者様。
『勇者はその勇気をもって、魔王を討ち滅ぼしました』
父がよく読んでくれたその絵本が、大好きだった。
この国に生きるものなら誰もが知っているであろう、この国を救った英雄の物語。
けれど、だからこそ、父が魔物 に襲われ、大怪我を負った時、思ったのだ。
どうして、勇者はこの世から魔物を一掃してはくれなかったのだろうかと。
この世界からどうして悲しみはなくならないのだろうかと。
それは、体のいい厄介払いだったのだと思う。
誰からも必要とされない義理の娘を、家から追い出すのに丁度よかったのだろう。
ジーナ、と久しぶりに名前を呼ばれた瞬間から、何かが起こる気はしていた。
「あなたの旦那様になる人よ」
朝食の席で久しぶりに顔を合わせたかと思えば、義理母はそんなことを言った。
いつもは決して重なることのない食事の時間が、珍しく義理母と重なった。長机を挟んで、会話こそないものの、こんな日もあるかと、その希少さに違和感を覚えていたのは事実だった。
けれど、食後、横に待機していた執事長が、彼女の指示で申し訳なさそうに渡してきた書面を手にして背筋が凍った 。
「……え?」
聞き間違いだと思ったそれは、手にした書面に目を走らせれば簡単に理解できてしまう 。
婚姻の約束 について綴れられた文面の下には、自分のものではない筆跡で既に名前が記されていた 。
「お義母様」
「のんびり屋さんのあなたの代わりに、もうサインはしておいたわ」
品よく微笑む義理母は、食後の紅茶を飲み干すと席を立つ。
それはもう会話は終了だ という彼女の幕引きの合図だった。声が出ないのはこんなにも乱暴に事を進められるとは思っていなかったからだ。必死に頭を回転させて、彼女を引き留める言葉を探そうとするのに、こういう時に限って言葉は何も出てこない。
堪らず席から立ち上がったジーナに見向きもせず、部屋を出ようとしていた彼女はふいに足を止めた。
最後のチャンスだと口を開きかけたジーナより先に、彼女は唇に指を当てて思案気に呟いた。
「出立はそうね……明後日がいいかしら」
その一言で、一瞬のうちに体から力が抜けた。
自分の意思も、自分の発言も、この場において何の意味もないことを痛いくらいに思い知る。
父の再婚相手である彼女 にとって、家族とは彼女と亡き父との間に産まれた弟のジルアートだけなのだと 。
立ち尽くすジーナを振り返った義理母 は、棘を隠し持つ花 のように艶やかに微笑んだ。
「愛しいジーナ、結婚おめでとう」
それはまるで、死刑宣告のように聞こえた。
彼と初めて対面したとき、この世にはこんなに大きな人が居るのかと思った。
猫背でありながら、ジーナより頭二つ分は高いひょろりとした体躯。視界を覆い隠すように伸びた紺色の前髪は、昔海近くの市場で見た海藻のようにうねっていた。身に纏う衣服はお世辞にも小奇麗とは言えないが、 その光沢から質だけはよいことが伺えた。
「…………レ二クス」
驚きのまま 見つめ過ぎてしまったからか、彼は不機嫌そうにそう名乗った。慌ててドレスの裾を摘まんで、頭を垂れる。
「お初にお目にかかります。ジーナです」
頭を下げ、彼の靴先を見つめながら、ふっと心が冷めていった。
彼はこのあたりの地域では有名な富豪の息子だった。しかしながら、三男である彼は変わり者の魔術師と噂され、代々国仕えの騎士団長を輩出している一族からは見放されていると言う。四十路をむかえ、家からもろくに出ないという彼は、確かな血の繋がりがありながらも、家族たちから厄介に思われているらしかった。
だから、彼も同じなのだろうと思った。
自分のように結婚という儀式によって、家から追い出されるのだ。幸いなことと言えば、外聞を気にする先方の家から、街外れに住居を与えられたことだろうか。
つまり、彼にも、ジーナにも、 もう帰る家はそこしかない。
顔を上げれば、表情を伺うことさえできない彼がじっとこちらを見ていた。
ジーナは、せめて淑女らしく微笑んでみせる。恨み言など口にせず、大人のふりをしようと彼を見上げる。
「レニクス様、今日からよろしくお願いします」
「あぁ」
きっと 、いつ親近感 がわいたかと聞かれれば、この時だった。
年上の彼に、こんなことを思うのは失礼かもしれないけれど、その時確かに逸れ者同士 だと思ったのだ。
十九歳と四十歳。こうして一回り以上も年が離れた、家族から必要とされていない者同士の生活が始まった。
彼との生活は始終穏やかだった。
三度の食事の支度と、掃除と洗濯。それがジーナの仕事になった。彼がジーナに要求することは他には特になかったからだ。
執事やメイドのいない生活というのは初めてだったけれど、なんでも自分でやってみることは中々に楽しい。
本来、貴族住まいには家事を専門とする人間が共に住むものだが、レニクスとジーナの普通ではない結婚のことを考えた時、屋敷に出入りする人間は少ないほうがいいという話に落ち着いた。
始めのうちはジーナを心配してくれた仲の良いメイドがジーナに家事を教えに来てくれた。
基礎を学び終えた後はジーナの方から、彼女にお礼を言い、次の日から自分一人で家事を回し始めた。
はじめは失敗も多かったものの、レニクスは何も言わなかった。
調理を失敗し、魚を泣く泣く黒焦げで出したときは、さすがに何か言われるかと思った。けれど、彼は黒焦げの魚をじっと見つめてから、何もなかったかのように頭からバリバリと食べ、綺麗に皿を空にすると手を合わせてから席を立った。
ありったけの洗濯した衣服を腕に抱えたまま躓き彼の服を泥だらけにしてしまった時も、掃除をするつもりで水桶を運んでいたらまた躓き床を水浸しにしてしまった時も、彼はその惨状をじっと見つめてから、責めるでもなく、何事もなかったかのように踵を返すのだった。
他の人間であれば、せめて何か言ってくれた方がいいと思うかもしれない。
けれど、ジーナにはその無言が救いだった 。
今まで義理母と暮らしていた家で 、彼女の言葉や仕草に怯え、窮屈に息をしていた自分からは考えられない自由がそこにはあった。
自分のことは自分でやることができるということ。
失敗を恐れずに、そこから学び次に生かせること。
誰かの目に怯える必要がないというだけで、こんなにも心を軽く なるとジーナは知らなかった。
本を読んで 、庭で草木を育てることも始めた。レニクスに伺いを立てれば、彼は何も言わずただ頷くだけ。
掃除と洗濯を効率よくこなせるようになって、 食卓に並ぶ食事が凝ったものへと変化するのにそう時間はかからなかった。
そして自分の手でできることが徐々に増えていくことが、ジーナを嬉しくさせ、より何かをする意欲を掻き立てるだった。
「これは?」
唐突に耳に届いた声 にはっと顔を上げる。目を瞬いてしまったのは、自分以外の誰かの声を家の中で聞くのが、随分と久しぶりだったからだろうか。
そもそも、思い返してみれば出会った日以降、まったくと言って聞いていなかったようにも思う。
そのせいか、彼の声を忘れかけていた。
一緒に暮らすようになってから 既に1カ月以上が経過している。 けれど、今まで、こうして食卓を共にしても彼が声を発 したことはなかった。
「これは何だ?」
答えないジーナに痺れを切らしたのか、彼がもう一度問う。
「これ……?」
質問に質問で返す自分の間抜けさは、この際置いて置くとして、ジーナの頭の中は半ばパニックだった。
彼の詰問口調に嫌な汗が背筋を伝う。いつの間にか、与えられた自由に嬉しくなり、 彼と生活しているという自覚が薄くなっていることに改めて気づく。
レニクスが何も言わないからと、最近はシンプルなだけの部屋の内装にも手を入れ始めていた。自分の能天気さを呪いたくなる。
とうとう彼の逆鱗に触れてしまったのか、 今までの無言は許しではなく、呆れだったのかと、思考はどんどん悪い方へと流れていく。今日の献立のシチューがいけなかったのだろうか。鶏の肉でなく、鴨の肉を使ったからかもしれない。それとも、先日こっそりいろんな部屋に生けた花のことだろうか。
そんな風にいくつものことを考えて青ざめていたからこそ、次に零された一言にジーナは目を丸くしてしまった。
「今日は、何かのお祝い事だっただろうか」
「え?」
彼の視線を追えば、そこに鎮座しているのは先ほどうきうきと焼き上げたパウンドケーキだ。作っているうちに熱が入ってしまい、クルミやドライフルーツがふんだんに使われたケーキいくつもが出来上がってしまった。二人きりの生活において、これは中々に目を剥く代物だろう。
「いえ、お祝い事ではなくて……ただ 甘いものを作りたいなと作っているうちにこんなことに」
かぁと頬に熱が集まっていく。最後の方はもごもごと不明瞭で言い訳じみた口調になってしまう。
一番初めに思い至らなければいけない可能性に気づかないあたり、見咎められそうなことが多すぎるのだという自覚をする。
恐る恐る黙り込んでしまったレニクスの様子を伺えば、彼はじっとケーキを見つめてから、ぽつりと言う。
「菓子屋にでもなれそうだな、君は」
「え、あ、ありがとうございます……?」
「僕の取り分はこの半分と考えていいのか」
今度こそ、手にしていたスプーンを取り落とすかと思った。それをギリギリのところで押しとどめて、平静を装って告げる。
「レニクス様が召し上がりたい分が、レニクス様の分です」
「…………そうか」
その後、レニクスはパウンドケーキの山をきっちり半分食べきると席を立ったのだった。
それ以来、ジーナはレニクスのことを意識するようになった。なにせ、パウンドケーキを無言で半分平らげる人である。
結婚して1カ月以上が経過した後の変化としては、どう考えても遅いことはわかり切っていた。むしろ今更の今更だ。
これは普通ではない夫婦関係だとは以前から自覚していたが、これまでは自分のことで手一杯だった。けれど、家事にも慣れ、家のことも自由にさせてもらえるとなれば、自然と次に目が向くのは彼以外にはない。
「私の結婚相手。つまりは旦那様。大富豪であるリバンディール家の三男……噂では変わり者の魔術師」
庭で洗濯物を干しながら、情報を列挙してみる。
それ以外は考えてみても 出てこないことに気づき、改めて夫婦関係にある彼を謎に思う。
次の日から、ジーナの日課に彼の観察が加わったのは当然の流れであると言えた。
レニクスは普段から外に出ることもなく、家の中でも寝室と自室にこもりきりになっていることが多い。魔術師という噂は知っていたものの、具体的に何の研究をしているかは知らなかった。一度、開いていた扉から覗き見た研究室は、ジーナがこれまで見たこともないような機器 や本が所狭しと並んでいた。
実は、彼の自室へ は簡単な掃除をする時だけに立ち入るのみ で、ましてや研究室には一歩も足を踏み入れたことがなかった 。
それは踏み込んでいい領域かどうかわからなかったということに等しい 。
この屋敷にはじめに案内された時、二人の 寝室は当たり前と言えば当たり前に同じ部屋 だった。
しかし、荷物を運びいれているうちにジーナにはジーナ の自室が分け 与えられ、彼は研究室の隣にベッド を持ち込んでいた。それはお互いに暗黙の了解のよう な 、今後の夫婦生活が仮面であることを 明らかにしていた。おそらくレニクスもはじめに線を引いておきたかったということなのだろ う。
そうなると世間から見れば夫婦といえど 、関係としては同居人、もしくは立場で考えるのであればジーナは居候がいいところである。だからこそ、どこまで立ち入っていいかどうかという判断は重要に感じられた 。
時折、レニクスを尋ねてくる客があり、彼が対応をしている時も、お茶とお茶請けの菓子を出すだけに留めてすぐに部屋を辞していた。それでも、隣室に待機していると、うっすら聞こえてくる会話から、その客が彼の商売相手であることは察しがついた。
めったに外出しない彼が果たして仕事をしている のだろうかと、首をひねっていたが、彼は毎月十分すぎるほどの金額をジーナに手渡し、これで家を 回してほしいと告げていた。
そのことから、彼はその 研究によって、商売相手が満足する 成果を上げ続けているのだということは想像するに難しくなかった。
「怪しいと言えば、怪しい雰囲気だけれど 」
洗濯物を干し終えて、はためくシーツを眺めながら、ため息を吐く。
ジーナは魔術のことに造詣がない 。つまりは、 彼から 話を聞いてもきっと理解できないだろうし、理解できたとしてそれをどこか怪しい 研究だと思ってしまいそうだ。だからこそ、レニクスに尋ねることは賢明ではないような気がした。
仕事関係のことは少なくともまだ触れない方がよさそうだと、心に決める。以前、実家のメイドであったナナリーも、夫の仕事には口を出さない方が賢明ですと胡乱な目をして語っていたから、そうすべきだろう。
では、他に何を知ることができるだろうか。ジーナは少し考えて、ひとつ自分の生活に目標を作ってみた。
「レニクス様、美味しいですか?」
レニクスが鶏肉のソテーを咀嚼し、それを飲み込んだ少し後を見計らって尋ねてみる。
徐々に増えつつあるレパートリーの中でも、今回の献立には少し自信があった。鶏肉に甘辛いソースを絡めて身が固くなり過ぎないように注意してソテーし、付け合わせの野菜も野菜の甘みを生かすように丁寧にバターで炒めてみた 。カボチャのスープの裏ごしは完璧で、昨日の夜から仕込みをしたパンは仄かに香るバジルの香り が食欲をそそる、はずだ。
問われた彼は、いつもであれば始終無言で皿の上が空になると席を立ってしまう。 その無言が心地よかったが、こうして一緒に時を共にするのは 食事の時間以外ないのだから、ここで話しかけなければ 会話するのは難しい。
そう、ジーナが自分に課した新しい目標は、一日に一度は彼と会話をすると言うことだった。
「美味しいが」
怪訝そうに言葉を返され、思わず頬が緩む。これまでは自分が美味しいと思えるものを作っては満足していたが、誰かにも 肯定してもらえるというのは中々に気分が良い。話しかけるきっかけとして、何気なく尋ねただけだったのに、思った以上の幸福感があった。
返事を返してもらえたことで、会話を続けやすくなった。次の質問を投げてみる。
「レニクス様はどんなものがお好きなんですか?」
「…………野菜は好きだが」
返答前の妙に長い沈黙は何だっだのだろうと笑顔で聞き流しながら、そうなんですかと頷く。範囲が広すぎて、釈然としない。質問が悪かったのだろうか。
「もし、お 好きなもの があったら 、今度作ってみようかと思ったんですがどうでしょう? 何かありませんか?」
「それなら、あれを」
言葉が被るほどの早口だった。表情 を崩さないままに、ジーナは思考を巡らす。あれとは何だろう。
彼もこちらの無言から、言葉が少なかったことを悟ったのか、今度はゆっくりと言い直した。
「先日、ケーキを作ってくれただろう。もし、よければ、また作ってほしい」
「甘いものがお好きだったんですか?」
驚いて尋ねれば、彼は一拍動きを止めた。どうしたのかと見ていれば、彼は無言でスープを飲み干し、立ち上がった。皿の上にはまだあまり 手が付けられていないパンとソテーが残ったままである。
「え、あの」
「仕事を思い出した」
引き留める間もなく、彼は踵を返してしまった。残されたジーナは席から半分ほど立ち上がった姿勢のまま、さーっと青ざめ、絞められた扉の音にへなへなとまた椅子に腰を落とした。
「失敗したかしら……」
驚いたのは、あのケーキを心から喜んで半分食べてくれた という事実だったのだけれど、それが彼には不愉快に映ったのかもしれなかった 。
彼のことを知ることができたら、この日常がまたひとつ幸せになるかもしれないと思ったけれど、それは自分の思い上がりだったのかもしれない。自分は彼の大切な妻などではないのだから。
「欲張りだったかもしれないわ」
初めて残されてしまった料理が冷めていく様子を前に、ジーナは小さく肩を落とした。
「ジーナ」
それは、いつも通りの机を挟んでの夕食の時だった。耳を疑うとはこのことだろうか。
彼から話しかけて貰ったことなど、数えるほどしかないのだから、それ自体がまず希少だった。それなのに、その第一声が自分の名前であったことなど一度もない。ましてや、名前を呼ばれたこと自体が初めてだった。
「な、んでしょうか?」
先日の一件があってから、ジーナはレニクスに話しかけはするものの、彼の機嫌を損ねないように細心の注意を払っていた。けれど、そういう会話というものは常に疲れを伴うものだ。ふいに緊張の糸が緩んだ瞬間、小さく吐息を零してしまっていた。
その瞬間に、名前を呼ばれたのだから、ジーナは名前を呼んでもらえた嬉しさを感じると同時に、また機嫌を損ねてしまったと頭が真っ白になった。
「そんなに、無理をしなくていい」
けれど、彼の口から零されたのは、静かな言葉だった。思わず、彼を見つめてしまう。彼はフォークとナイフを置くと、一度ナプキンで口元を拭った。
「聞き苦しいかもしれないが、話をしてもいいだろうか」
ジーナも慌ててフォークとナイフを置き、背筋を正すと、こくこくと頷く。レニクスはひとつ息を吸うと、口火を切った。
「僕は人と関わることに慣れていない。そして君が楽しそうなら、それでいいと思っていた。だから、君に口出しをするつもりはなかった」
「だから、いつも許すばかりで……?」
「あぁ、その方が気も楽だった。元来、僕は女性の機嫌を取るのが不得手なんだ。それは君も同じだと思っていたし、必要もないと考えていた」
「え?」
きょとんと聞き返せば、彼は悩むような沈黙を挟んだ後で、僅かに小さな声で続ける。
「これが君の望んだ婚姻でないことはわかっている。だから、君は僕を気にせず、自由にすべきだ。それが正しい」
「正しい……」
繰り返した台詞は、まるでどこかの戯曲の台詞のように思えた。作られた台本でもあるような台詞。彼は頷く。
「もし君が家事の一切をしたくないというなら、口の堅いメイドや執事を雇うことも考えていた。ただ、君が失敗してなお、楽しそうにしていたものだから、様子を見ていた。結果、必要ないという判断をしたまでだ」
少し見てわかるほど、楽しそうにしていたのかと、恥ずかしくなる。それでも、そんな風に気にかけてくれていたのかという、驚きのほうが勝った。
「ただ口出しをしないということは、一緒に生活をしていると難しいことだ。今回、学んだ」
彼が料理の乗った皿に、目を落とした。ほとんど食べ終わっている料理は、微かにジーナを不安にさせる。彼が自分の料理をすべて食べてくれるのはおそらく気を使わせないためだった。そんなことにさえ気づけていなかった自分のなんと子供なことか。
「君の作る料理は、美味しい」
「え?」
だからこそ、レニクスの言葉は疑いたくなるようなものだった。いつだってジーナは彼の言葉に驚かされる。
前髪の奥にある彼の表情は上手く読み取れない。それでも、彼が言葉を選びながらも、嘘はついていないような気がした。
「……焦げた魚が出てきた時は驚いたが、この成長の速さは純粋に称賛されるべきものだと僕は思う。掃除も、洗濯も。君の若さを思い知らされる気がしたよ」
「そんなの一番初めが何もできなかっただけです。今だって私は子供なんだと思い知りました」
「それでもだ。君は、こんな僕のような奴の妻になるべきではない。君には悪いことをした」
「それは、レニクス様も一緒でしょう?」
ふっと彼が笑った。その笑い方は、到底ジーナにはできないもののように思えた。ひどく大人びた、諦めを孕んだ笑い方。
「ジーナ、僕は世間の評判通りの男だ。詰られこそすれ、決して称賛されるような人間ではない。僕は、結婚さえすれば研究資金を援助してもらえると父から言われて、君を妻にした」
理解するのに、必要だった時間はほんの少しで、理解できてから口を開くのに必要な時間は彼が待ってくれた。
ようやく再び口を開いたときには、皿の上の料理は冷めきってしまっていた。
「つまり、私と結婚したことでレニクス様はお金を頂いたってことですか?」
わかり切ったことを尋ねるのはやめて頂戴と、かつて義理母から言われたことがある。なぜと問う前に彼女は唇に手を当てて微笑んだ。『だって、これ以上、私に嫌われるのは嫌でしょう』と。彼女ははじめから、ジーナのことなんて好きではなかったくせに。
レニクスは静かに重々しく頷いた。
「そうだ」
「そうですか」
ジーナも頷くと、フォークとナイフを再び取り上げた。そして、皿の上の合鴨のステーキを切ると、口に運んだ。ゆっくりと味わって、飲み込んで、それから大きく息を吐き出した。
「よかった……」
レニクスが驚いたように、こちらを見ている。そんな彼にも、食事の再開を促す。不思議そうにしながらもカラトリーを取り上げた彼を確認して、会話を続ける。
「つまり、レニクス様は私と結婚したことでメリットがあったということでしょう? それをお聞きして、安心しました」
「安心?」
「えぇ。だって、こんなあなたから見れば、子供にしか見えない娘と結婚させられるなんて申し訳なくて。せめて家のことは満足にと思っていたのに、途中から私、完全に自分の楽しさを優先させてしまっていて」
「それは、君に許された権利だと」
「えぇ、これからはそう思うことにします」
彼が目を瞬いたのが、なんとなくわかった。話をしてみれば、彼はそこまでわかりにくい人間ではないことがすぐにわかる。
彼は、優しい人だ。
「これからはもっとお話しませんか? 私、遠慮していたんです、レニクス様に」
「あぁ……構わないが」
「レニクス様も、私に遠慮しなくていいです。ケーキが食べたくなったら言ってください。気が向いたら作りますから」
にっこりとそう告げれば、彼は食事する手を止めて、ジーナを見ると噴き出した。
「そこは気が向いたらなのか」
「えぇ、もちろんです。そのかわり、レニクス様も気が向いたら、私に研究のお話をしてください」
「わかった。約束しよう」
彼が笑いながら、目元を擦る。彼の笑うところを初めて見たけれど、この様子からきっと本当は笑い上戸なのだろう。
これからはもう少し笑ってほしいなと、思ってしまい、おかしくなる。ここまで来るのに二ヶ月かかる夫婦なんて早々いないだろう。むしろ、これは夫婦というよりは、友人としての始まりと捉えて大差ない。
「私、レニクス様とは良い友人に慣れそうだと思います」
そう告げれば、本当にそうなれそうな気がしてきた。
「あぁ、改めてよろしく頼む」
そう言って、レニクスは初めてあった日とは違う風にジーナに言ってくれた。
それからの毎日は、その前の日々とは大きく違っていた。
穏やかで心地いいことには変わりがないものの、レニクスはジーナと会話をしてくれるようになった。
食事のこと、趣味のこと、この家のこと、それから研究のこと。
難しいかと思っていた研究のことも、それが誰のために、どんなふうに役に立つかという言うことを聞けば納得できた。
「今作っているのは、町外れの教会から依頼された魔物除けの薬だ」
「魔物除けの薬なんて作れるんですか?」
「魔物が嫌いな魔術や、植物があるからそれを組み合わせて構築していく。実験を重ねる必要はあるが理論上は可能だ」
「すごいものを作っていたんですね」
「何を作っていると思っていたんだ?」
「……怪しい薬とかかと」
正直に打ち明ければ、彼は黙り込んでしまった。謝罪の意味も込めて、後で焼き菓子を持っていけば喜んでくれたから、おそらく大丈夫だと思っている。新情報、彼はいくらか繊細らしい。
2人で街に出ることもあった。
レニクスはよくジーナに欲しいものがあったらすぐに言ってほしいと伝えていた。
以前は遠慮をしたものの、そう問われてまっさきにお願いしたのは一緒に買い物に行ってほしいということだった。
そんなことでいいのかとレニクスは支度をしてくれたが、父親と以外に人と出掛けること自体あまりなかったジーナにとっては楽しみなことのひとつになった。
ただし、いざ、並んで歩くとやはり夫婦というよりは親子にしか見えないようで、そういった風に店主に声を掛けられる。
「娘さんとの仲がよろしいみたいで、羨ましいですなぁ」
レニクスは決まってそういう時、わざわざ訂正することはしなかった。ジーナもその対応に不満はない。
世間の目からして、この年齢差は普通とは言えなかったし、何より彼の家が本当であればこの婚姻を快くは思っていないであろうことはすぐわかる。
家路を二人で辿りながら、目の前に落ちた影を見れば、その差は本当にどこまでいっても埋まらないのだと思えた。
ある時、二人で暖炉の前で互いに読書をしていれば、ぽつりと彼が言った。
「僕の家では、有名な騎士の家で、だからこそ力こそがすべてで、その力で魔物を打ち倒すことこそが正しいと教えられてきた」
正しい、という言葉は彼がよく口にするもので、うっすらとだけどその言葉によって彼は幾度となく家族から押さえつけられてきたのだろうという想像があった。
本を閉じて、彼の方を見る。彼はソファに深く身を沈めながら、ぼんやりと天井を仰いでいた。
「だから、間接的に魔物に干渉しようとする僕はあの家には必要のない人間だった。それは弱い者がすることで、この家にはふさわしくない脆弱で臆病な思考だと。今もそれは変わらない。それでも」
彼は目を瞑ると、腕で自分の顔を隠した。
「いつか、認められたいと、願ってやまない自分がいることを知っている」
暖炉の中で、乾いた薪が爆ぜる音がする。いつの間にか暗くなってしまった部屋で、その火は赤く煌々と燃えて、部屋を暖めようとしていた。
彼がなぜ急に自分よりよほど幼いジーナにそんな話をしたのかはわからない。もしかしたら少なからず、彼もジーナのように、お互いに近いものを抱えていることを感じていたのかもしれなかった。もしくは、気まぐれなただの独り言の延長線上なのかもしれなかった。
腕を撫ぜるひんやりとした部屋の空気がそうさせたのか。ジーナはいつの間にか彼の脇に立って、その頭を撫でていた。
触れる瞬間だけ、彼が身じろいで、けれどその後はされるままになる。
初めて触れた彼の髪は、思っていたよりずっと柔らかくて、まるで子供の髪のように素直だった。
ゆっくりと、ゆっくりと彼が小さな子供だった頃を思いながらその髪を撫でる。
ジーナには頭を撫でてくれる人がいた。今はもういないけれど、ジーナは温かい家を知っている。
けれど、レニクスにはそんな人はきっといなかった。それは、どれほど彼の心を孤独にしたのだろう。
しばらくして、レニクスが掠れた声でジーナ、と囁いた。
「君に夢はあったか」
「夢、ですか?」
「あぁ、僕はいつも夢見ていたよ。いつか父がお前は素晴らしいと言ってくれる日を……でも、『お前はこの家の恥』だと『生まれてこなければよかった』と飽きるほど言われ続けた僕は、そんな日はもう来ないことを知っている。だから、もし、君に夢があるのなら、それを叶えたい」
いつの間にか、水晶のような蒼い瞳がジーナを見上げていた。森の奥にある誰も立ち入れない湖のような蒼がそこにはあった。
「勇者」
ジーナの唇から、かつての夢が零れ落ちる。雫のように、言葉はその瞳にまっすぐと落ちていく。
「勇者様に会いたかったです」
「魔王を倒した伝説の?」
「そう」
「なぜ?」
なぜと問われて、なぜだろうと思った。本当は父を助けてほしいと思った。もし勇者が魔王を倒したときに、一緒に魔物をすべて滅ぼしてくれたのなら、父が傷つくことはなかった。父が傷つくことがなかったら、寝たきりなどにはならなくて、こんなに早く死んでしまうこともなくて、そうしたら。
そこから先は、考えてはいけない気がした。
「ジーナ?」
「初恋だったんです。父がよくその絵本を読んでくれて、飽きるほど、何度も」
彼の頭から手を引っ込める。手が震えてしまうような気がした。今の自分は笑えているだろうか。
それに、もしもなんて言葉は今だから言えることだ。起きてしまったことはもう二度となかったことにはできない。でも、それなら、これから伸びていく道はどれほど恐ろしいものなのだろう。
「だから、会ってみたかったんです」
本当に会ったら、きっとどうしてだと詰ってしまうに違いない。そんな心の声に蓋をした。
レニクスはそれ以上、何も聞かなかった。
きっと、傷の舐め合いだった。
レニクスはきっと父親に認められるまで、本当の意味で自分のことが嫌いなのだ。
そしてジーナも、見ないふりをしているだけで、今の自分を恨んでいる。
父のいない家から逃げ出したくても、義理母の顔色に怯え、自分を押し殺していたことも、追い出された惨めな自分も。
似た者同士だと、笑いたくなる時がある。
でも、だからこそ、ジーナはいつかレニクスが自分で「生まれてよかった」と言ってくれたらいいと思った。
彼が救った人は確かにいて、それは彼が求める感情を呼び起こしはしなかったとしても、ジーナは彼がいてくれてよかったと思ったから。
その手帳を見つけたのは偶然だった。
許しを得て、彼の自室を掃除していた時に誤って落としてしまった中にそれがあった。
慌てて拾い上げ、汚れがないかを確認しようとして、暦のページに控えめに言葉が添えられていることに気が付いた。
「レニクス様の誕生日……」
それが指し示すのはちょうど一週間後。ひらめいたのは本当に単純な子供の思い付きに過ぎなくて、だからこそ胸が躍った。
その日から、ジーナはレニクスに隠れて、街で買い物をしたり、普段使われていない客室へとこっそり忍び込んだりした。
彼に気づかれないように、注意しながら、それでも頬が緩むのを抑えきれない自分がおかしかった。
誰かのために、走り回ることがこんなに楽しいと思えるのは初めてだった。
「申し訳ないが、少し出掛けることになった」
本当に申し訳なさそうに彼がそう告げた時、手にしていたカップを取り落としそうになってしまった。慌てて、きちんと持ち直して、棚の上に戻して振り返る。
「いつから、どこへ……?」
「出立はすぐにでも、王都から呼び出しを受けた」
王都と言えば、この屋敷から馬車で半日はかかる。普段、彼が会う客人は皆、この屋敷に足を運んでいたものだから、彼がどこかに出かけるという発想がなかった。固まってしまったジーナが、不安がっていると思ったのか、レニクスは慌てて言葉を足す。
「それほど長く家を空けるわけではないから、あまり不安そうにするな」
「お帰りはいつごろに……」
「二日後……いや三日後の夜には帰ってこられるはずだ」
彼の誕生日は三日後だ。それならぎりぎり間に合うはずだ。ほっと息を吐く。そうとなれば、話は早い。
「わかりました。私は馬車を呼んできますから、レニクス様はお支度を」
「あ、あぁ」
「あと約束しましたからね。できるだけ早く……いえ、三日後には必ず帰ってきてください」
打って変わってきりりと表情を引き締めたジーナに、レニクスが戸惑ったように頷く。
そして馬車を呼び、再び家に戻ってレニクスと顔を合わせて、ジーナは思わず彼を二度見した。
「レ、レニクス様?」
「なんだ?」
呼びかけに答えたのだから、まぎれもなく目の前の彼がレニクスだと言うことはわかるのだが、それでもまだ自分の目が信じられない。怪訝に潜められた蒼い瞳に見つめられ、無意識のうちにジーナの顔が赤くなった。
それも無理はなかった。普段のレニクスとは、比べ物にならない美丈夫がそこには立っていたからである。
ぼさぼさだった紺色の髪はうなじで綺麗に束ねられ、普段は下ろしたままの前髪は優しく立ち上げられ自然な形で横へと流されている。身に纏う衣服も普段の体のラインを隠すようなゆったりとしたものではなく、きちんとした正装だった。
心なしか猫背の背筋もピンとしているように見える。前髪から時折除く顔を整っているのではないかと思ってはいたが、ここまでとは思わなかった。
「勿体ない!」と叫びかけるのをあと少しというところで飲み込み、彼をまじまじと見上げる。
「一瞬、どなたかと思いました」
「……だから前髪を上げるのは嫌なんだ」
落ち着きなく前髪に手をやる彼をみて、やはり中身は変わらないのだと、どこかほっとする。変化は前髪だけのせいではないと思いつつも、それを指摘するのはやめておいた。玄関先に既に馬車が待っていることを告げる。
そうでないことはわかってはいるものの、早く出立した方が、早く帰ってこられるように思えてしまう。今は一刻も早く王都へ発ってほしい。そして、早く帰ってきてほしい。
「お忘れ物はないですか?」
馬車に乗り込んだ彼に最後に声を掛ける。彼は大丈夫だと手短に伝えてから、少し押し黙った。もう言うことがないのなら、御者に声を掛けるのだが、険しい顔をしている彼はまだ何かを言いたげなので待ってみる。
ようやく口を開いた彼は、ジーナと目を合わせないままに早口で言う。
「戸締りはきちんとしろ」
「え?」
「言っていなかったが、君はいささか危機感が足りないところがある。僕以外の人間が来たら、玄関を開けなくていい。あと薄着も気を付けてくれ。風邪を引かないかひやひやすることがある。他にも、寝ぼけて廊下で寝そうになったことがあるだろう。ちゃんと温かくして寝てくれ。あと背か低いのはわかるが高い棚からものを取る時には十分に注意を払ってだな」
つらつらといつ終わるともつかない彼の言葉に一瞬、呆気に取られて、それからにっこりと彼に笑って見せる。
「いってらっしゃいませ。用事を済ませて、早く帰ってきてくださいね」
有無も言わせず、そう告げれば、御者はちらりとレニクスを見遣ってから無言で馬に鞭を打った。
まだ言い足りないという顔をした彼が蹄の音と共に遠ざかっていく様を見ながら、ようやく口元が緩む。誰かに心配されたことなんて随分と久しぶりな気がする。
よくよく考えてみれば、彼が家にいない三日間で準備がし放題ということである。
隠れてこそこそ準備するのも楽しかったけれど、どうせやるなら大仰にやりたいと思っていただけあって、やる気がむくむくと湧き上がってくる。
「よし! 頑張ろう!」
ぐっと胸の前でこぶしを作って、気合いを入れるとジーナは家の中にとって返した。やることはたくさんある。
もちろん、戸締りはきちんとした。
けれど、予定というものは往々に狂うものである。
翌朝、朝早くからうるさいくらいに鳴らされたドアベルに、恐る恐るドアを開けると、そこに立っていたのは、
「ジーナ、調子はどうかしら?」
棘を持った花によく似た人――――義理母、その人だった。
客間に彼女を通し、紅茶と茶菓子を出す。
目を合わせられなくて白磁のカップを満たす琥珀色を食い入るように見つめ続けていれば、ため息が零された。
「私が従者もなしに、出向いたっていうのに労りの一言もないのね。本当に嫌な子」
「……なんの用で来たんですか」
「あら。可愛い娘の顔を見に来るのに、理由が必要なの?」
嫌な子だと言ったすぐ後に、可愛い娘と言われたところで、なんの感慨も湧かない。冷たくなった指先を握りしめながら、情けなくなる。温かい日々の中で、少しのことではもう心が揺れないと思ったのに、彼女を前にしただけでいつもは大好きなこの家が冷たく映る。
「それにしても旦那様に会いに来たのに、丁度いらっしゃらないなんて、ついてないわ」
この時ばかりはレニクスがこの場にいなくて本当に良かったと思った。義理母と彼を会わせることを考えるだけで、胃が引き絞られるような気持ちになる。
「帰ってくるまで待たせてほしいところだけど」
「レニクス様は、当分の間お帰りにはなりません」
「あっそ……それにしても、まるでメイドみたいね」
ジーナの頭から足先までを見定めるように眺めて、彼女は足を組んだ。その様子に嫌悪感が募る。彼が帰ってこないとわかっただけで、簡単に一枚仮面が剥がれる。こんなにも容易い女に、いまだに怯えてしまう自分がジーナは本当に嫌いだ。
「本当に何の用があってきたんですか。私の顔を見に来たというのなら、もう十分でしょう」
「あらあら、偉くなったものね。貴女はもうファルタル家の人間でないけれど、私の娘なのよ?」
「……私の母はひとりだけです」
指先をきつく膝の上で握りしめる。その家名と屋敷だけが父と母の形見だと思って大切にしてきたものだったのに、この女はそれを奪ったのだと、思考が青く燃え上がる。三人で暮らしたあの暖かな家が、彼女の存在によって黒く穢されていくような気さえする。
「ふうん? まぁ、貴女がどう思おうが、事実は変わらないわ。本当は今日、お願いに来たのよ」
傷ひとつない白魚のような手が、茶菓子のクッキーを摘まみあげて、口に運ぶ。それをゆっくりと咀嚼しながら、彼女がジーナを試すように無言で唇を吊り上げる。
「お願いとは」
「実は貴女がいなくなってすぐのことだったかしら……ジルの体調がよくないのよ。偉いお医者様に掛かってみてはいるのだけれど、なかなか調子がもどらなくて」
義理母は頬に手を当てて、視線を落とす。義理母は好きになれなかったものの、今年の春で五歳になる弟のジルアートのことは少なからず可愛く思っていた。予想外の彼女の様子に、思わず本当に心配して本音が零れる。
「そんなに悪いんですか? 私に何かできることは」
一度見舞いに行きたいと申し出ようとして、義理母がくつくつと肩を揺らしていることに気が付いた。彼女はジーナを再びその目に映すと、おかしくてたまらないとでもいうように弓なりに瞳をしならせた。
「嘘よ。そう言って、旦那様にも同情してもらおうと思っていたの」
声が出なかった。
「旦那様のお宅はお金持ちでしょう? 貴女もなかなかにいい暮らしをしていると聞いて。だって、狡いじゃない」
呆然とするジーナに唇を寄せて、義理母は囁いた。
貴女だけが幸せになるなんて狡いでしょう、と。
じわりと、涙が滲んだ。勝手に婚姻の書類にサインされた時でさえ、これほどまでに惨めな気持ちにはならなかった。
「あら、どうしたの? 目が赤いわよ」
「絶対に」
おどけてみせた彼女の顔を、睨み付ける。あの艶やかな赤いルージュを彼女が引くときは、誰かを誘惑するときなのだ。そんなことを今更に思い出し、吐き気がした。
「絶対に貴女をあの人には会わせない」
「無理だと思うわ」
「無理じゃない。彼にだけは貴女の言葉を絶対に聞かせたくない」
猫のように彼女が目を細める。いつの間にか、口元に浮かべられていた笑みは剥がれ、冴え冴えとした瞳がジーナを見つめていた。
父が亡くなって、義理母の優しさは瞬く間に剥がれ落ちた。外聞を気にし、人目のあるところだけは繕われる母親像はひどく醜悪だった。弟のジルアートだけを可愛がり、ジーナのことはまるで使用人のように手酷く扱い、意思も選択も全て奪われた。
それでも、自分を愛してくれる人は、もうこの世にこの人しかいないのだと、夢を見て、必死で彼女に縋りついた。そして、いつだって手は振り払われ、毒を流し込むように微笑まれ、突き放されてきた。
いつからか、ジーナは彼女に愛されることを諦めた。諦めて、彼女に害されないように身を縮め、彼女の視界に入らないように過ごすようになっていった。
彼女が冷ややかな瞳を向けるとき、ジーナはどうしたらいいのかをいつも擦り切れるほど考えていた。あの家に居続けるために、ジーナはそうするしかなかった。
でも、今はそうではない。
「出ていって」
義理母の片眉が上がる。こんな風にジーナが反抗を見せたのは初めてだったからだろう。
「もう貴女との縁は切ります。私はリバンディール家の人間です。もうファルタル家の人間ではありません。私の家族は、レニクス様だけです」
彼女の表情が憎々しげに歪む。その様を見ながら、心の中にずっとあった重りが溶けていくような気がした。
もうあの家には帰れない。それでも、今の自分には居場所がある。そのことがどうしようもなく誇らしかった。
義理母はにっこりと仮面をかぶりなおして、また来るわと帰っていった。取り乱して怒らないところが、言ってみれば彼女の最後の砦なのかもしれない。
彼女を家から追い出し、一人になった瞬間、玄関の扉を背にして、ずるずるとその場に座り込んだ。下を向けば、息をするように涙が零れ落ちた。
なぜと問うてみても、よくわからない。ただ後から、後から溢れる涙が玄関の床を濡らしていく。
もう二度とあの家に帰れないことが悲しいのか、父と母の名であるファルタルの名を失ったことが悲しいのか。それとも、これは義理母から精神的に解放されたことへの安堵の涙なのか。
わからないけれど、一つ確かなことは、早くレニクスに会いたいということだった。
まとまらないかもしれないけれど、彼に出会えて、彼とこの家に暮らして、それがどんなに自分を救ってくれたか伝えたかった。
だから、
「早く帰ってきてください……」
自分の体を抱きしめて、ジーナは声を上げて泣き続けた。
ほぼ一日かけた部屋の飾りつけは完璧。料理の仕込みもいつもより手間暇かけてでき、十二分に納得できる出来栄えになった。
彼が王都に立って三日後。プレゼントにもリボンをかけて、あとはレニクスが無事に帰ってくるのを待つのみだった。
少し早めに終わってしまった支度のせいで、待つ時間が長く感じられる。
綺麗に生けなおした食卓の花と、時計との間で視線を行ったり来たりさせていても、さっきから少しも時計の針は動いてくれない。何か気を紛らわせることをしたいとも考えたけれど、そわそわしてしまって少しも集中できなかった。それに、もし帰ってきてすぐ、彼を出迎えられなかったらと考えると気が気ではなかった。
レニクスが帰ってきたら、まず何と言おう。ジーナは食卓に肘をついて足をぶらつかせながら、ふとそんなことを考える。
そうだ、まずおかえりなさい、と目いっぱいで微笑んで、目を閉じてもらうようにお願いしよう。それから身長の差が大変かもしれないけれど、目を閉じた彼の手を引いて、食卓まで案内しよう。それから目を開けた彼の前でおめでとうと拍手する。
そうしたら、彼はどんな顔をするだろう。
考えれば、考えるほど、楽しくなってきて、早く帰ってこないだろうかと窓の外に目をやってしまう。
彼はプレゼントを喜んでくれるだろうか。そのことは少し不安だけれど、もしあまり喜んでもらえなかったら、また来年頑張ればいい。これからは毎年、彼の誕生日をお祝いしよう。それは思い描くほどに、幸せな未来だった。
そして、彼に毎年伝えよう。彼が自分からそう思えるまで。生きていて、生まれてきてよかったと思えるようになるまで。生まれてきてくれて、ありがとうと、そう伝え続けよう。
時計の鐘の音ではっとする。
いつの間にか机に突っ伏して寝てしまっていたようだった。慌てて、顔を上げて時間を確認する。
暗い室内に沈んだ飾りつけは、どこか寂しさを引き寄せ、ジーナは無意識に小さく息を詰める。
窓の外には夜が広がり、冷たい空気が頬を掠めていった。
「まだ……帰っていらっしゃらない」
あと数時間もすれば、日付が変わってしまう。彼が約束を破るとは思えなかった。
『当分帰ってこないと言ってたけど、彼、めかし込んで出掛けたの?』
不意によみがえるのは、先日、帰りがけの義理母が玄関先で嫌な風に笑ったこと。
『もしかしたら、他にいい人がいて、会いに行ったのかもしれないわよ?』
その時には何の気にも留めなかった一言が、ジーナの胸をチクリと刺す。広がりかけた想像を首を振って散らした。
けれど、それを否定してしまえば、今度は彼の身に何か起きたのではないかと不安になる。
灯りをつけないから、こんな気持ちになるのだと思い、部屋を明るくしてみたものの、心は晴れない。
返って、飾りつけされた部屋が空虚に照らし出され、心をざわつかせる。
落ち着きなく、部屋を歩き回って、とうとうぺたんと絨毯の上に座り込んだ。
「…………レニクス様」
早く帰ってきてと言ったから、無理に馬を走らせたのかもしれない。そもそも王都に呼ばれた件が、危ない仕事だったのかもしれない。もしかしたら、自分がうきうきと支度をしている時、彼は危ない目に合っていたのかもしれない。
転がり出した不安は、膨れ上がり、震えとなってジーナを襲う。
こんなことになるなら、早く帰ってきてほしいと言わなければよかった。ただ帰ってきてくれさえすれば、それでジーナは嬉しかったのだと、今更に気づく。
ふいに目を向けた先には、彼が先日、ジーナのためにとプレゼントしてくれた絵が飾ってある。
花が好きだと言ったからと、渡されたそれは、図らずもジーナの一番好きな花が描かれていた。
「好き…………」
零れ落ちた言葉は無意識だった。
口にしてから気が付いた。そして、気づいたジーナは顔を覆った。きつく、握りしめたこぶしを目元に押し当てる。
こんな風に自覚してはいけない気持ちだった。父のようで、それでいて捨てられた猫のような人を、いつの間にか好きになっていること。
その時、ジーナは遠くから馬の蹄の音が近づいてくることに気が付いた。ふらふらと立ち上がれば、その音はどんどん大きくなっていく。
弾かれたように、ジーナは走り出した。
足がもつれそうになりながらも、玄関に辿り着き、焦って上手くいかずに騒々しく鍵を開ける。
開いた扉の外から、夜の冷たい空気がジーナを包む。
旅行鞄片手に馬から飛び降りる姿が目に飛び込んできた瞬間に叫んでいた。
「レニクス様!」
弾かれたようにこちらを見る彼の瞳が、暗闇の中、確かに見開かれたのが感じ取れた。
「ジーナ!」
どうしてかはわからない。彼に名前を呼ばれただけで、堪えきれなくなった。駆け寄って、ただその腕の中に飛び込んだ。
なにかを言いかけたレニクスが衝撃にたたらを踏んで口をつぐむ。それでもしっかりとジーナを受け止めた。
彼の髪が乱れていたこと、馬車ではなく早馬で駆けてきてくれたこと、そして抱き着けば息が切れていることに気づいて、抱きしめる腕の力が強くなる。無事に帰ってきてくれたことを確かめるように、ジーナは頬を摺り寄せた。
けれど、余韻に浸る間もなくばっと彼に引きはがされて、少なからずショックを受ける。その一方で、目線を合わせてしゃがみ込んだレニクスがジーナの両肩を掴んだ。近いぐらいに顔を寄せられて、目を見開く。
「どうしたんだ、何か怖いことがあったのか!」
「…………え?」
「君がこんな風に取り乱すなんて何かあったんだろう? 僕のいない間に強盗でも入ったのか!」
めったに見ない彼の剣幕のおかげでその言葉への理解が遅れる。自覚すれば、少し気恥ずかしさも相まってむくれたくなった。
「……ただ心配しただけです」
「心配?」
「レニクス様が中々お帰りにならなくて」
目が落ちそうなほどに、レニクスが大きく目を見開いて、口を開ける。そのあまりに典型的な驚きの表情に、恨みがましい視線を向ければ、彼は視線を彷徨わせたのち、小さく呟く。
「その、遅くなってすまなかった」
「謝らなくていいです。ただ」
「ただ?」
「……ただいまってちゃんと言ってください」
自分で言っていて恥ずかしくなってきて俯けば、ややあってレニクスが小さく笑ったのがわかった。
「ただいま、ジーナ」
2人で食卓を囲んでから、まだ彼にお祝いを言っていないことに気が付いた。
あれだけ計画していた流れは、彼の帰宅に安心しきってしまい、すべて飛ばしてしまった。
レニクスの様子を伺えば、部屋の様子が違うことにも、しっかりとは気づいていないようだ。それに、よくよく様子を伺えば帰宅してから、レニクスはまるで雲の上でも歩いているようにどこかそわそわと落ち着きがない。
そう言えば、ジーナと顔を合わせた瞬間に何かを言いかけていたような気もする。
ひとまず落ち着いたところで、ケーキを出して、その時にお祝いを言えばいいだろうとジーナは決めて、彼に食事を促した。
いつもより豪勢な食卓に彼は、少しだけ目を瞬いてから、料理を口に運び始めた。
レニクスは食事中あまり自分からは口を開かない。いつもはジーナが話しかけてしまうのだが、今日はただレニクスが食事をしている様をこっそりと見ていた。
表情はあまり変わらない。それでも、彼が美味しいと思ってくれていることがうっすらとわかる。この沈黙を愛おしいと思うジーナがいる。
2人とも食事を終え、ふっと目が合う。それだけでジーナの心は温かくなる。零れ落ちる声が以前の自分では、想像できないほど柔らかいのが自分でもわかった。
「レニクス様、お仕事、お疲れさまでした」
「あぁ。ジーナも留守の間、この家をありがとう」
「いえ……無事に帰ってきてくださってよかったです」
改めて、レニクスが帰ってきてくれたことを実感する。彼がいるだけで、この家は温かい。
ふふと微笑めば、レニクスが真剣な表情をしていることに気づいた。彼は心なしか背筋を伸ばして折り目を正した。
「ジーナ、君に聞いてほしいことがあるんだ」
「? なんでしょう?」
「今回の王都でのことだ。一番に君に伝えたくて急いで帰ってきた。途中で友人にも会ったんだが、まだ誰にも報告してない」
一言、一言話すたびに、彼の瞳が輝いていく。うっすらと蒸気した頬が、彼の興奮を物語る。
けれど、何よりジーナの心に響いたのは彼が自分のことを考えていてくれたということだった。その言葉ひとつで舞い上がりそうになる。
けれど、続く言葉は、恐ろしいほどの冷たさでジーナを凍り付かせた。
「ジーナ、聞いてくれ。国王から直々に魔獣を滅ぼす大役を仰せつかった」
「………………え?」
「研究してきた魔法陣が、すべての魔獣を滅ぼすことのできるものだと認めてもらえたんだ!」
彼が、何を言っているのか理解できなかった。
「もちろん、魔法陣の発動は僕がやる。こんな大役は誰かには任せられない。それに、父が、」
レニクスはそこで言葉を切って、何かを思い出すように柔らかく微笑む。
「父が、父が初めて褒めてくれた。お前が息子で心底誇らしいと」
足先から凍えていくようだった。震えだした腕で自分の体を抱きしめる。助けを求めるように彼を見つめても、言葉が追い付かない。彼はジーナの様子も目に入らないように、熱に浮かされたように広げた自分の掌を見ている。
「僕はやっと夢を叶えた。僕が生まれてきた意味はあった。それがやっと証明できる」
ジーナは魔術に詳しくない。けれど、彼が何を言っているのか、ジーナにはわかる。
かつてジーナが魔獣を恨んでいると彼が知った時の会話が、今は呪いのように頭を巡っていた。
『魔獣には生命の源泉のようなものがある。だからその泉を枯らすことができたのなら魔獣は滅ぼせる』
『でも、そんなものどこにあるかわからないし、きっと危ないところでしょう?』
『いや、場所は目星がついている。十中八九、魔王の城だ』
『……やっぱり危ないじゃないですか。そこは今やこの世界で一番魔獣がいるところですよ。そんな場所に誰が行こうと思うものですか』
『……そうだな』
『そうですよ。魔獣が滅びたら嬉しいですけど、その方法もないですし、何よりその方法では誰かが確実に――――』
「ジーナ」
はっとして顔を上げたジーナをレニクスの瞳が柔らかく映す。絶望に腕を掴まれたジーナに彼は気づかない。
「君も喜んでくれるだろう」
君の夢も叶うんだ――――もう、それ以上、何の言葉も聞きたくなかった。
翌朝、レニクスは用事があると早々に家を出てしまった。
キッチンに一人立ち尽くしたジーナは、食事の片づけもできずにぼうっとしていた。
戸棚には昨日の夜、結局出し損ねてしまった誕生日ケーキがしまい込まれている。
取り出してみれば、痛みはないものの、レニクスに渡せる気はしなかった。プレゼントも、お祝いの言葉も、あれほど楽しんで準備した何もかもが、結局レニクスには披露できなかった。
少しの気のゆるみで、机に置くときにケーキの形を崩してしまう。慎重に慎重を重ねて、飾り付けたケーキが、崩れてしまった。
「これは、もう出せないわ」
傍らにあったフォークを無造作に突き刺す。口に運べば、甘さが舌の上で溶けていく。
「我ながら、美味しくできたわね」
ろくに咀嚼もせずに、次から次へと口にケーキを運んでいく。
「これなら、本当にお菓子屋さんになれるかもしれないわ」
美味しいと、笑ってくれる気がした。
あなたのために作ったのだと告げて、あなたが生まれたことを祝うために作ったと目を見て、まっすぐに告げるつもりで。
『僕はやっと夢を叶えた。僕が生まれてきた意味はあった。それがやっと証明できる』
「…………」
気づけば、ケーキは無残な有様だった。
何もかもが、何よりも自分が、許せなくなって、とうとう皿ごとケーキを床に叩きつけようとして、
「えー、捨てちゃうなら、それ俺が貰ってもいいよな」
急に割り込んできた声に、ジーナはぴたりと動きを止めた。
声の主はひょいと窓枠を乗り越えるとキッチンの中に入ってきた。声を上げる暇もなく、彼は机の隅に置いてあったフォークを取り上げると、ジーナの手からケーキの皿を丁寧に受け取って食べ始める。
そのあまりも堂々とした立ち振る舞いに、驚く暇も、叫ぶ暇もなくなり、ジーナはぼんやりと突然に表れた男を見る。
妙齢の男性であるにも関わらず、どことなく犬を彷彿させるような愛嬌のある顔立ちとさっぱりした短い黒髪。
叫ぶこともできなかったのは、今のジーナにとって重要なのは自分を責めて罰してくれるか、そうでないかでしかなかったからかもしれない。
ケーキを口に運んだ男は、ぱっと華やいだ表情になった。
「え、なにこれ、めっちゃうまいじゃん!」
「……本当、ですか?」
「ほんとほんと! 俺、嘘つかないから」
うまい、うまいと男の口の中に消えていくケーキの欠片に目を奪われる。美味しいと言ってくれたレニクスの声を思い出していた。
「でも、これ本当は誰か大切な人に出すつもりだったんじゃないの? こんないいもの食べ損ねるなんてかわいそうな奴」
『先日、ケーキを作ってくれただろう。もし、よければ、また作ってほしい』
その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れた。ぎょっとしたように男が目を見開く。
「お嬢ちゃん、どうしたの? おじさん変なこと言った?」
「美味しいって、言ってくれたのに……っ」
零れる言葉は答えではなく、ただの後悔でしかない。自分勝手な思いのたけでしかない。
言えなかったのは自分のせいなのに、自分で台無しにしたくせに。
「どうしてこんな簡単なこともできないの……!」
家事ができたって、自由になれたって、少しも大人になれていない。
怖かったのは、彼がいなくなってしまうのを引き留められない自分の小ささだった。
でもそれよりも、彼に否定されるのが、ジーナは恐ろしくて堪らなかった。
「おじさんが不審者だから泣いたわけじゃなかったのな……焦った」
泣き止めば、男は疲れ果てたようにがっくりと肩を落とした。
「泣いたら少し落ち着いたので、すみません。それで、あの……お帰り頂いてもいいですか、主人に怒られるので」
下手に言ってみたものの、これでダメだったときはどうしようとジーナは思う。冷静になってみれば、彼が凶悪な強盗だったのなら、なんという事態だろうか。
以前に、危機感がないと指摘したレニクスはやはり正しかったのかもしれない。
男はジーナが精いっぱい下げた頭に驚いたのか、言葉を無くして、それからややあって噴き出した。
「いや、お嬢ちゃん。名乗り遅れてごめん。俺、実はその旦那の友人なんだよ。名前はザックス」
「レニクス様の?」
「そ。あいつの唯一の親友様ってね。噂を聞きつけて、どんな幼妻もらったかと思って来てみたら、一人で恐ろしく無表情のままケーキ食べてるから、おじさんびっくりしちゃったよ」
「す、すみません。窓から入ってこられたので、てっきり強盗かと」
予想外のことに慌ててそう言えば、男は気を悪くする風もなくにかっとさわやかに歯を見せて笑う。
「まぁ、しょうがない。しょうがない。久しぶりに会った友人様を顧みることもなく、早馬で帰るっていうからどんなお嬢ちゃんかって気になって、急に押し掛けた俺が悪いんだから」
ザックスの話を聞き、レニクスが帰宅後に友人も話していないと言っていたのを思い出す。どうやら、目の前の男がその友人のようだ。
同時に、これまでのことを思い出し、掌を握りしめる。
そんなジーナの様子を見て、ザックスは少しだけ思案気に頭を掻いた。
「おー、やっと帰宅か。お邪魔してるぞ」
「ザックス?」
ひらひらと手を振って迎えた旧友の姿に、帰宅したレニクスが持っていた鞄を取り落とした。
予想外の反応にジーナが驚く暇もなく、足音も抑えることなくレニクスがザックスに駆け寄る。
感動の再会かしらと思えば、レニクスが彼の首元を締め上げた。
「なんで、お前が、ここに、いる……! 」
「あはははは、その反応が見たくて思わず早馬で追いかけてきた」
「どうせ窓から侵入してきたんだろう」
「ご名答。いかしたファーストコンタクトだったよ、ね、奥さん」
ぱちんとウインクされて、曖昧にはにかみつつも、ぎりぎりと今にも歯ぎしりしそうなレニクスの新鮮な様子から目が離せない。
「だって、お前、結婚式も上げないしさー。親友の俺に紹介する気配なかったからな。これ会いに来るしかないだろ」
「ジーナが怖がると思ったんだ! 」
「ま、今怖がってるのはお前のことだと思うけどな」
ふふんと笑ったザックスの言葉に、レニクスが動きを止める。振り返った彼と目が合って、一瞬固まる。
「普段、こいつ静かだろうけど、こっちが素だから」
彼の後ろから楽しそうにザックスがそう言えば、レニクスは上擦った声で違うと呻いた。
「こいつが変なことばかり言うから、こんな風に言ってしまうだけで……怯えたなら、すまない」
「あ、いえ、違います! いつもと違う様子にはびっくりしたんですけど、でも」
「でも?」
「とても、仲がよろしいんだなって思って」
ジーナの素直な言葉に、レニクスは眉をひそめ、ザックスは大笑いした。
それから3人で食卓を囲み、いろんな話をした。
ザックスは1人で三人分喋るかという勢いで、よく喋りよく食べよく笑った。ジーナも聞いたことのないレニクスの幼少期のころの話もたくさんしてくれた。
レニクスは不服そうだったものの、ジーナが嬉しそうならそれでいいようで、途中からはザックスの話に目が輝かせるジーナを穏やかに見守ってくれていた。
楽しい夕べだった。
けれど、だからこそ、溢れる思いは取り返しのつかない言葉になって、幸せに影を落とすのだと言うことを、ジーナは知らなかった。
「あぁ、それでお前が俺にまだ報告してないってことは何だったんだよ」
食後の片付けも終わり、各々が心地よい疲れのままにソファに腰を下ろしてしばらくたった時だった。
ザックスの何気ない言葉に、ジーナの体が強張る。
「あぁ……王から大役を仰せつかったんだ」
「大役?」
「研究していた魔物を一掃するための術式が評価されて、実際に行ってもいいことになった」
徐々に自分が顔を上げていられなくなっていくのがジーナにはわかった。まるで違う世界の話をするように、想像の追い付かない未来が語られていく。
ザックスが怪訝そうな声を上げる。
「つまり、どういうことだよ?」
「僕が魔王の城跡地付近の魔物の力の源泉を、その術式で破壊する。そうすれば、もう二度とこの世に魔物が表れることはない」
「……お前、いつからそんなにまっとうに社会に貢献しようってスタンスに転向したんだ? それ、時代が時代というか、今でもそれやったら英雄とか第二の勇者として後世に語り継がれるくらいの功績だろ? 本当にやり遂げれば」
「僕は絶対にやり遂げるから、そういうことになるのだろうか」
「加えて妙な自信だけは大いにあると。ん? ちょっと、待て、その術式の発動ってどれだけ時間がかかるんだ」
先まで茶化すようだったザックスの口調に、真剣みが混じる。ジーナはもう聞いていられなくて、俯いて目をぎゅっと閉じた。
「僕の力を見積もれば、源泉に直接であれば半日もあれば展開できる」
「半日って、お前、軽く言うけどな。魔王の城付近なら凶暴な魔物も澱んだ魔力も溢れてる最危険地区だぞ。わかってるのか?」
「もちろん、そんなことは僕もわかっている。だからこそ、術式の展開は僕一人でやるつもりだ。王にもそうするのがいいと言われた。僕が生まれてきたのはもしかしたらこの大役ためだったのかとも、今なら思える」
レニクスの満たされたような言葉ののち、沈黙が落ちた。柱時計の針の音だけが、部屋の空気をより張り詰めたものへと変化させていく。ジーナはじっと震える両手を握りしめて、叫び出してしまわないように耐えた。
頭の中で何度も何度も、かき消しては浮かんだ、訪れてほしくない未来がまたジーナを苛む。
「それで、生まれてきてよかったって?」
しばらくしてザックスが低く、再び口火を切った。
「お前、それ死ねって言われてるようなもんだろ」
その言葉にジーナは弾かれたように顔を上げた。目に飛び込んでくるのは、明らかな怒りを孕んだザックスの射抜くような瞳と、呆けたように動きを止めたレニクスの姿だった。
「お前、本当にわかって言ってるのか」
「わかっているさ。僕の術式が認められたんだ、王にも、父にも、そしてこの術式で僕は世界を救える」
「違う、違う、違う。そうじゃないだろ。お前、それはただの生贄だろ。体のいい試しとしてしか見られてない」
「そんなことはない。王は僕と、僕の術式を認めてくれたんだ!」
「騙されてんだよ!」
行きかう言葉は次第に鋭利さを増していく。ジーナは震える唇が戦慄くのを耐えられないまま、どうしてだろうと思った。
さっきまではあんなに幸せな時間だったのに、今はこんなにも張り詰めた糸のように危うい。
「ジーナ」
はっとするような不安そうな声音で、レニクスがジーナを呼ぶ。その縋るように向けられた視線で、ジーナは首が絞められていくような気がした。
「ジーナ、君は喜んでくれたんだろう? 僕は栄誉を得る。僕はもしかしたら死んでしまうけれど」
この人は何を言っているのだろう。
自分が死んだ後の話を、どうしてこんなにも穏やかな声で語れるのだろう。
張り詰めた糸が、切れてしまうのはいつだって、一番張り詰めた次の瞬間だと人は気づけない。
レニクスが笑う。安心させるように、ジーナを見て、優しく微笑む。
「そうだとしても、君は栄誉を賜った者の元妻として箔が付くだろうから、きっと次は幸せな結婚が」
破裂音。続いて知覚したのは、掌の痛みだった。
呆けたような彼が赤くなった頬にゆっくりと手を当てる。
あぁ、そうか、とジーナは思う。
この人は、このレニクスという人は馬鹿なのだと思った。
詰めた距離も、あの暖かな食卓も、ジーナと自分を呼ぶ声さえ、すべてこの人にとっては引き留める楔にもならない。
ぼろりと、涙が零れた。
ジーナをその目にうつして、彼が目を見開く。
この人は自分に叩かれたことより、自分が泣くことの方に驚くのかと、そんなことを思う。
「僕は、きっと、君も喜んでくれると思って」
二度目の破裂音がレニクスの頬と、振り上げたジーナの手の間で生まれる。
どうしてだと彼の目が問う。
理解したかった。彼のことを少しは理解できたと思っていた。
ジーナに似ている人。ジーナに自由と温かさをくれた人。
いらないと言われた者同士。
伝えるつもりだった。あなたが生まれてきてくれて、自分に出会ってくれて、どれほど幸せか。
少なからず、彼も似た思いを、似た安らぎを感じてくれていると思っていた。
――――――すべて思い違いだった。
「私は、」
彼を見上げる。湖のような澄んだ瞳が、もう涙で霞んで上手く見えない。
「私は、そんなにあなたにとってもいらない存在でしたか……?」
言葉を無くすレニクスの後ろで、ザックスが息を詰めたのがわかった。それがわかって余計にいたたまれなくなった。
答えなんて聞けなかった。ジーナはすぐに踵を返して、上手く捌けなかったスカートの裾に転びそうになりながらも一息に階段を駆け上がる。
自室に飛び込むと後ろ手にドアを閉めて、肩で息をして、それから、溢れる嗚咽を殺して、耐えられず座り込む。
なんて身勝手な台詞だろう。
でも、もう誰かにいらないと言われたくなかった。
違う。
レニクスにだけはいらないと、そう思われたくなかったのだと気づいて、涙が止まらなくなった。
自分のことしか考えられていない自分の浅ましさに、ジーナは一晩中泣き続けた。
次の日から、ジーナはレニクスと顔を合わせないように生活を始めた。
出立の日は食卓の上に置かれたメモから一週間後だと知っていた。
もう、何を言えばいいのかも、何を言ってほしいかもわからない。ただそのメモの震えるような字を見て、また少し泣いた。
レニクスもジーナの意思を読み取ったのか、生活のリズムをわずかにずらしてくれているのがわかった。
あれだけ、温かく感じていた家はひとりで過ごすには大きいばかりで、ここに暮らし始めた初めの一カ月と変わりないはずなのに何もかもが違う。
ザックスは、レニクスが王都へと向かう日に一緒に王都へと帰ると言ったため、それまで客室を自由に使ってもらうことにした。
レニクスとザックスは夜、時折二人きりで話をしているようだった。
微かに廊下に漏れる光の向こうで交わされる、雨音のような短くゆっくりとした言葉の応酬は意味を持って耳に届かないだけに、ただ重く、ジーナには踵を返すことしかできなかった。
そうして気づけば、あっという間に時は流れ、レニクスが出立する日となった。
「お嬢ちゃん」
開いたドアをノックする音に緩慢に振り返る。そこにはザックスが少し困ったように、はにかんで立っていた。
自室を片づけている途中だったジーナは、その何か言いたげな瞳から逃げるように目を逸らす。
「ザックスさん、どうしたんですか」
「見送りはしてくれないの?」
「……はい。まだ部屋の片づけがあるので」
「嘘。昨日からずっと、そう言って部屋にばかりいる」
「…………もう、顔見られないですから」
笑ってごまかすつもりが、失敗して、涙が零れ落ちそうになる。毎夜、あれほど泣いているのに、自分の中にはまだこんなにも溢れるほどの水があるのかと、自嘲が零れた。
ザックスはそんなジーナの様子に、小さく吐息を零すと手近な椅子を引き寄せ、背面を前に跨るように腰を下ろした。
「お嬢ちゃん、俺ね大事な人がいたんだ。今はもう会えないんだけど」
「え?」
突然の切り出しに思わず、ザックスを見る。彼は穏やかに目を細めて、頷いた。
「あの、それって」
「うん。俺を残していなくなっちゃったんだわ」
言葉をなくしたのは、それを語るザックスの瞳が本当に優しさで満ちていたからだった。
「俺には出来すぎたくらい、いい奥さんでね。いつもいい加減に生きてた俺をそれでもいいよって笑って全部抱きしめてくれるような女だった。でも、そう言われてみたら、堪らなくなって、まっとうに生きようって気になった」
「……だから、私にも受け入れろって言いたいんですか」
言いたくないのに、そんな責めるような言葉が転がり落ちる。握りしめた指先はもう震えて、感覚すらない。
違うよ、とザックスは穏やかに呟く。
落とされた視線の先には絨毯があるばかりなのに、彼が何を想いながら口を開こうとしているかがわかるような気がした。
「俺は今でもあいつしか愛していないし、もしあいつが俺を残していなくなるってわかっても何度だってあいつと一緒になりたいと思うと思うんだわ。それってさ、はたから見ればきっとあほに見えるんだろうなって思う」
「そう、ですよ……皆、馬鹿です。幸せになりたいならなればいいじゃないですか、誰かに愛されたいなら、必要とされたいなら別の人でも、親じゃなくても、誰でも、探して、見つけて、勝手に幸せになればいい。一人に囚われ続けるなんて馬鹿みたい」
「でもさ、お嬢ちゃんだってそうだろ?」
「え……?」
ふいに向けられた矛先に驚いて、俯いていた瞳を上げる。ザックスは椅子に指を走らせながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「お嬢ちゃんだって、レニクスに執着してる」
「執着じゃ、ありません。だって、私とレニクス様は夫婦で、」
「かりそめの嘘っぱちの結婚なのに?」
その一言に、息が詰まった。静かな瞳と言葉に、彼はこの婚儀のすべてを知っていたのだと悟る。呼吸がねじれた。それでもひきつる息を吸い込んで、言葉を重ねる。
「で、でも、私は」
「実際問題、レニクスが死んだら君はまっとうな人と改めて結婚できるんじゃない? 君のことを愛してくれて幸せにしてくれる、必要としてくれる人に出会えるんじゃない?」
「論点がずれて、」
「ずれてないよ。君はこのままこの部屋に閉じこもったままで、レニクスを責めているだけだろ。これからあいつは死にに行くっていうのに、ここで一人めそめそ泣いてるだけ。本当に子どもだね、お嬢ちゃんは」
かっと頭に血が上った。詰めよって振り上げた手は難なく掴まれて、手首の痛みに眉根が寄る。まともに反論もできない自分の情けなさに目頭が熱くなった。
雫が零れ落ちるより早く、気づけば叫んでいた。
「あなたに、何がわかるんですかっ! 私はレニクス様に、ただ生きていてほしいだけなのに、あの人が生きていてよかったって思ってほしかっただけなのに! ずっと聞きたかった言葉が、それが死ぬために口にされるものなんて、まるで呪いじゃないですか……っ」
あぁ、と思う。
そうだ。そうだった。そう思っていた。
これは呪いだ。望んでいた言葉の中身は、望んでいたものとは全くの真逆だった。
「嫌です、私はあの人に死んでほしくない。だってまだ、なにも返せてない。私はまだ何もできてない。私はこんなにいろんなものを貰ったのに、こんなのは嫌です!」
まだ贈り物もできてない、お祝いもできていない。約束したケーキも作っていない。
何も伝えられていない。
「……もう、自分でもわかってんじゃん。それ、伝えてくればいいんだよ」
はっとして見上げれば、ザックスの瞳とかち合う。その奥に揺れる色に、今度こそ涙が溢れた。
「俺はもう、何もいえないから、さ。お嬢ちゃんはまだ言いたいこと、こんなにたくさんあるんだから」
ほら、と手を離され、背を押される。よろける足でそれでもちゃんと立って、涙を拭う。
そのまま、駆けだそうとして、それではだめだと、振り返る。
こちらの視線に気づいたザックスがおどけたように首を傾げた。
「ん? どうしたの、早く行かないと」
「ごめんなさい、さっき私、酷いこと言いました」
柔らかく悲しい記憶を、切り裂くような言葉が蘇る。彼が自分のために言ってくれた言葉を投げ捨てようとしたことに気づいて、声が震える。
「いーよ、俺も君のこと煽ったのは事実なんだから」
「でも」
「んー、じゃあ、またケーキでも焼いてよ」
穏やかに微笑んで彼は言う。
「それで、今度は三人で食べよう」
「レニクス様!」
馬車に乗り込もうとしていた背中に声の限り叫ぶ。
ひどくゆっくりと振り返った彼は、驚いたようにジーナを見ていた。
「ジーナ、」
「気を付けて行ってきてください!」
「え?」
戸惑ったような彼の姿に、想いが溢れそうになる。
言いたいことも、伝えたいこともたくさんあった。でもそれは全部言葉にならなくて、だから本当に伝えたいことだけはどうしても伝えたかった。
目頭が熱くなる。喉の奥が痛い。それでも、精一杯に笑う。
「ケーキを作って待ってます! 留守もちゃんと守ります! だからっ」
だから、と涙の滲むかけた目元を手早く拭う。
「なるべく早く、帰ってきてください!」
彼が目を見開いているのがわかる。何を言っているのだろうと思われているのかもしれない。
でも、それでもいい。
「私は、小さくても、子供でも、馬鹿でも、それでもあなたの妻だから、ずっとあなたの帰りを信じて待ちます」
彼の手を取る。骨張った綺麗な手。この手はジーナを選ばなかったかもしれない。
「レニクス様」
でも、ジーナがこの手を選んで、望んだことは変わらない。
真っすぐと彼を見つめる。
柔らかな髪も、湖の瞳も、穏やかな声も、見守るようなそのまなざしも全て今、この時に焼き付けるように。
「私はあなたに出会えたから、生きていてよかったと思えました」
この一言が、他でもない彼に伝わるように、ジーナは一筋零れた涙は知らないふりで微笑んだ。
草木が茂り、そして色付いて枯れ、白雪が地を覆い、そして溶けゆき、花芽が芽吹き、そうして時間は流れていく。
時間は思っていた以上に穏やかに、流れていった。
植えた草木の成長だけが確かな時間を、形として知らしめる。
知らないうちに埃の積もってしまった物置小屋を掃除していれば、玄関のベルが来客を告げた。
汚れてしまったエプロンを手早く脱いで、玄関へと向かえば、そこに立っていたのは見知った顔だった。
「ザックスさん!」
「今日はちゃんと玄関からきたから、褒めてもいいんだぜ?」
喜びと驚きのままに名を呼べば、彼はいたずらっぽく笑った。
「簡単なものしかなくてごめんなさい」
紅茶とお茶受けのクッキーをテーブルに並べて、彼の向かいに座る。
「いや、お嬢ちゃんが用意してくれたものなら何でも嬉しいよ。あー、久しぶりに来たけど、この屋敷は前と変わらないな」
ぐるりとザックスが屋敷を見渡す。それを真似して自分でも屋敷を眺めてみる。
「一人で住むにはやっぱり少し手が行き届かないのが困りものですけどね」
おどけて笑ってから、紅茶をすすめる。少しだけ視線が俯くのは、彼相手ならきっと許されるだろう。
何も言わず、ザックスが紅茶で喉を湿らす。この無言が彼の優しさだと言うことがわかるから、この空間は貴重だった。
カップをソーサーに戻すと、からっとした明るい口調でザックスは笑う。
「それにしても、お嬢ちゃんはみるたびに綺麗になるよな」
「そんなこと言ってもこれ以上、お茶受けは増えませんよ?」
「こりゃ、まいった。受け答えもどんどん大人になっちゃって、おじさんも年を取るわけだなぁ」
「そんなこと言ってると本当におじいちゃんになっちゃいますよ」
ふふと微笑めば、ザックスの瞳が穏やかに緩んだ。
「ザックスさん?」
「ん、本当にお嬢ちゃんは強い子だよなぁと思ってさ」
「強い? 私が?」
「あの日から、なんの便りもないんだろ?」
簡潔な問いは、その主語がなくても容易に察しがつく。思わず零れたのは苦笑だった。
「だって、待っているって啖呵切ったんです。これくらいの忍耐はないと」
「だからって、何年も手紙のひとつも寄越さずに王都に身を置くってのは」
「良いんです。だって、これはきっとあの人の優しさだから」
「優しさ?」
訝しげに繰り返したザックスに、ひとつ頷いて紅茶を飲む。
「もう待っていなくてもいいんだっていう」
「は」
「まぁ諦めてあげる気なんてありませんけどね」
いたずらっぽく笑えば、ザックスは一拍置いて噴き出した。それにつられてジーナも笑った。
あの日、レニクスが屋敷を出ていった日。彼はジーナに言ったのだ。
『僕は、僕の死なない道を探そうと思う。誰も死なせずに、術式が発動できる方法を探してみせる』と。
何年かかっても、それを待つと告げたジーナに、レニクスはその時だけ何も言わなかった。
だから、ジーナは待つのだ。
ただ、たった一人の夫の帰りを。
「じゃ、そろそろ俺は退散しようかな」
お茶を入れなおそうと立ち上がったジーナに合わせて、ザックスも立ち上がった。思わず、目を瞬いてしまう。
「もうお帰りに? 折角ですし、一緒にお食事でもと思ったんですけれど」
「んー、なんていうか、俺の役目はここまで大丈夫そうだから」
「え?」
窓の外に向けられた視線を負えば、遠くの方で光の柱が輝いているのが見えた。
まばゆい光が天空まで高く伸び、その光が放射状線上に空に伸びていく。
神々しいまでのその光景に息が止まる。弾かれたようにザックスを見れば、彼の瞳はしっかりとジーナを見ていた。
言葉にならない問いに、ザックスはうっすらと笑んで、頷いた。
「成功したみたいだ。外、迎えに行ってあげてくれる?」
その一言で、転がるように走り出す。スカートの裾を持ち上げて、息が詰まるくせに、気持ちばかりが急いで、玄関までひた走り、体当たりでもするようにドアを開ける。
この日を、この瞬間を、ずっと待ち望んでいた。けれど、それはどこか自分の心を遠くに押しやる行為にも似ていた。
望みや祈りや、そういった目に見えないものを静かにさせておくための、大人であるべきの沈黙を、覚えるべきだと思った。
なぜなら、そうしなければ、いつまでも自分は子供のまま、あの人の隣に立つにはふさわしくないと、そう考えて。
「レニクス様――――!」
屋敷の前、扉を開けてすぐに視界に飛び込んできた、淡い光に包まれて佇むその人。
その胸に、あの日のように飛び込む。
受け止める腕は、温かく、あの日を思い出させた。
「ジーナ」
たったその一言で、すべてが報われる瞬間があるのだと知った。
「ただいま」
*****
父に、初めて逆らった。
お前は我が家の誇りだと、あんなに欲しかった言葉を貰ったのに不思議と少しも心は動かなかった。
この機会に改めて王都で婚儀を上げてはどうかと言われた。
告げられたのは王家とも繋がりの深い、旧家の令嬢の名。
その時、ようやくわかった。
ずっと父に、認められたかった。
生きていていいと、そう言ってほしかった。
でも、今はそれより彼女の焼いたケーキを食べたいと思った。
簡単なことだった。それくらい単純な答えだった。
僕は、彼女が僕を認めてくれた日から、もうそれだけでよかったんだ。
「ジーナ」
名前を呼ぶ。たったこれだけのことで、こんなにも満たされる。
涙で潤んだ瞳が真っすぐにこちらを見上げてくる。
「僕は君の夢を叶えられただろうか?」
見開かれた瞳を、見つめ続ければ、そこから宝石のような涙が一粒零れ落ちた。
えぇ、とジーナはその頬を花のように赤くほころばせて、頷く。
「私の勇者様」