虚無の浸食
「はぁ……はぁ……」
俺はアトミスのマスター・ルームを出たあと、しばらく歩いて廊下の壁にもたれかかって休んでいた。
動悸と息切れがする。呼吸が整わない。
全て……全てこの心に寄生している大きな虚無感のせいだ。
今までこんなことは無かった……いや、違う。今までもこの虚無感はずっと俺の心の中に寄生していたのだ。
ただ、サラちゃんの言葉をきっかけに、それが表面化してきただけなのだ。
「ん? イブリス……一人かい?」
若い男の声が聞こえた。
聞き覚えのある……それはそれは聞き覚えのある声だった。
「……イブリスッ!? 一体どうしたんだ!?」
その男……剣聖、ラディス・フェイカーはどうやら俺の異常に気がついたらしく、駆け寄って顔を覗き込んでくる。
……そう、この男はラディス……ラディスだ。そしてその従者がフロワ。大丈夫、大丈夫だ。ちゃんと覚えている。
心の中で『大丈夫だ』と繰り返して、必死に自分を宥めようとする。だが効果は無い。寧ろ、心の中の虚無感はそれをむさぼり食って成長しているようにどんどんどんどん大きくなっていく。
「何があったんだ、一旦落ち着いて……! まさかサラちゃんに何かあったのか!?」
ああ、そうだ、こいつはサラちゃんが無事に目覚めたことを知らないんだ。教えてやらなければ。
「だ、大丈夫……彼女は無事だ……」
サラちゃんは無事だ。
サラちゃん、サラちゃんは……サラちゃんだ。
「っはぁ! はぁ、はぁ……」
「イブリスッ!」
そう、サラちゃんだ。あの子のことを考えると、この動機と息切れが酷くなる。何故なんだ?
いや、違う。何故……じゃない。俺は知っている。この原因は、とっくにわかっている。
「なあ……ラディス。教えてくれ……」
わかって……いるんだ。
「俺は……俺はサラちゃんとどうやって出会ったんだ?」
俺は、彼女との出会いの記憶を失っている。
「な……なんだって!?」
この記憶が消えていることに気がついたのは、つい先ほどのことだ。
サラちゃんの言った、俺が基礎だけ教えると約束したと言う話。あの話を聞いてからだ。それで初めて、彼女との出会いが俺の記憶からなくなっていることに気づいたのである。
なぜなら、俺にはそんな事を約束した覚えがなかったからだ。
それだけじゃない。何故、サラちゃんは俺の弟子になっているのか。何故、俺はサラちゃんの師匠になっているのか。俺は……どうやってサラちゃんと出会ったのか。全て、俺の記憶には存在していなかった。
その発見の後にはとても大きな恐怖心が生まれた。
記憶が消えていくのは前から知っていた。だが、今回は訳が違う。
サラちゃんとはそんなに長い付き合いでないことは覚えているのだ。すなわち、短い付き合いにも関わらず、既に記憶からの消失が始まっているということ。
……一体、俺の頭の中はどうなっているんだ。
このまま……ただでさえあやふやな自分についての記憶さえ、完全に消え去ってしまうのか。
そんな恐怖心が、雪崩のように俺に襲い掛かってきたのだ。
「君がサラちゃんと行動を共にしはじめてまだせいぜい一ヶ月と少しだぞ……! それなのに、もう……」
一ヶ月……たった一ヶ月だと。
俺はもはや、一ヶ月間の記憶しか保つことができないのか。
「くそっ――の影響――時間がもう――」
頭がぼーっとしている。目眩が酷い。ラディスの声も途切れ途切れでしか聞こえてこない。
「イブリスッ!」
気がつくと、俺は前のめりになってラディスに支えられていた。どうやらふらついて倒れかけてしまったようだ。
「イブリス、ショックなんだろうが、一回落ち着いてくれ……!」
「……すまねぇ」
俺はバランスを整え、頭をぶんぶんと振って無理やり意識を覚醒させる。
一瞬、意識が飛びかけたが、とりあえずは大丈夫そうだ。動悸も息切れも、完全ではないがとりあえずなりを潜めた。
少し、深呼吸をしてラディスと向き合う。
落ち着いてくれと言ったラディスも、その表情はどこか焦燥感に駆られたもの。俺のようにパニックになっているわけではなさそうだが、決して落ち着いているとも言えない。
「とりあえず……君とサラちゃんの出会いに関しては、知っていることを話そう。僕も人づてに聞いただけだから、細かい状況まではわからないが……」
それから、ラディスは知りうる限り、俺とサラちゃんの出会いを俺に話した。
俺とサラちゃんがグランドクエストで出会ったこと。そこで俺に惚れ込んだサラちゃんが弟子入りを申し出たこと。セレナちゃんを交えてカフェで話し合った挙句、俺が根負けして、師匠となったこと。
……どれも、覚えの無い出来事だった。どこか他人事のような気さえしてしまうのが、俺の不安を更に煽る。
話を聞いたことをきっかけにふと記憶が戻ってくれる……なんて都合の良い展開もなく―最も、元々期待なんかしちゃいないが―俺はサラちゃんとの出会いを忘れたままだ。
「とにかく、症状がかなり深刻なのは間違いない。これ以上記憶の消失を加速させないためにも、ちゃんと知り合いとはこまめに話をするんだ」
まるで老人のボケ防止の話を聞いているかのようだ。事態はもっと深刻だが。
「一緒に行動する以上、サラちゃんやフロワは大丈夫だとは思うけれど、できるだけアトミスのメンバーたちとも定期的に顔を合わせるようにしたほうがいいね。記憶を保持するためには関わる人数が多いほうがいい」
「あー、えっとだな……その、今のパーティに関してなんだが……」
俺はサラちゃんがアトミスに加入すること、それに伴って現在のパーティが解散となる旨をラディスに説明した。
「……なんてタイミングの悪い」
「しゃーないだろ、少なくともサラちゃんに関してはアトミスに居たほうがずっとあの子のためになる」
これに関しては曲げるつもりは無い。サラちゃんには、このアトミスでの環境が圧倒的に良い。
だが、記憶の保持と言う観点に関しては、これは愚作だろう。サラちゃんがアトミスに行き、フロワがラディスの元へ戻るのならば、彼女たちと毎日顔を合わせることがなくなってしまうのだから。
「まあ……その選択に口を出すつもりはない。君なりに考えた結果なんだろう。ただ、せめて定期的に一緒にクエストに行く位はしてくれ。君だってこれ以上記憶を失うのは嫌だろう?」
「……ああ」
俺はラディスの言葉に静かに返答する。
サラちゃんとフロワは勿論、アトミスの連中も気のいい奴らだ。これが全員、記憶から消えてなくなるとは……考えたくも無い。
「僕はこのまま皆の所へ行く。報告があるけれど……君には後で個別に伝えよう。今更戻るのも気まずいだろう」
「すまねぇな……俺は適当な宿でゆっくりしてるから、手紙でも用意しといてくれ」
適当な宿……といっても、どうせルベイルのじいさんの所になるだろうが。
今回の事件はもう街で騒がれているし、俺が当事者であることも知れ渡っているだろう。そんな俺を泊めたがる宿が他にどこにある。
……しかし、良かった。あのじいさんのことはギリギリ記憶の範疇か。
「いいか、間違っても勝手に部屋に押し入ったりするんじゃないぞ」
「はは、それはどうか……な……」
俺の後方、廊下の奥へと歩きはじめたラディスの言葉が、止まった。
「ラディス?」
「……しまったな」
ラディスがいかにも不味そうな声を出す。俺は思わず振り返った。
「今の話、一体どういうことですか?」
俺が振り返ると同時に聞こえる、少女の声。
俺の視界に、その声の主の姿がフェードインしてくる。綺麗な白髪をおさげにした、澄んだ青色の瞳の少女だ。
……なるほど、ラディスの言葉が止まったのは彼女を見たせいか。
「イブリスさんの記憶がどうとか、何の話なんですか?」
ああ、どうやら一番聞かれたくない人物に今の話を聞かれてしまったらしい。
「二人とも、ちゃんと聞かせてもらいますよ」
いつの間にか……俺の(元)弟子の見習いプリースト。他でもない、サラちゃんがそこに居た。
「あー……」
まさかのサラちゃんの登場に、思わず言葉につまる。どうにも俺はこういうときの誤魔化し方がヘタクソだ。
「ど、どうしたんだサラちゃん? 皆のところにいたんじゃあないのか?」
「イブリスさんの様子がおかしかったから追いかけてきたんです。案の定でしたね」
話を逸らそうとしたが、これもうまくいかない。
しかも、まさか俺を追いかけてきたとは……この状況は偶然でもなんでもなく、なるべくしてなったというわけか。
「サラちゃん、何か勘違いしているようだが、何も変な話をしているわけじゃないぞ。ただ……なんつーんだ、俺も年だから、どうも最近物忘れが激しい気がしてな。それだけ」
我ながら、かなり苦しい言い訳だ。
ただの物忘れの雑談をあんなに深刻な雰囲気で話す人間がどこにいる。あまりにも不自然すぎるだろう。
「そんなわかりやすい嘘で誤魔化さないでください」
「だよな」
当然ながら、即刻見破られる。
「……イブリス、こうなっては仕方がありません。サラちゃんにくらいは真実を話してもいいでしょう」
サラちゃんが来たことでラディスは丁寧な口調の"猫っ被りモード"になっている。
「これ以上、隠そうとしても時間を無駄にするだけですから」
「……確かにそうだが」
正直、隠し事だらけのこいつにだけは言われたくない。
だがまあ、確かにサラちゃんになら話しても……問題はないかもしれない。
「はぁ……しゃーねえ。いいかサラちゃん……多分それなりのショックを受けるだろうが、聞いてくれ」
心臓が今にも破裂しそうなくらいバクバクなっているが、それをなんとか抑えつつ全てを話す。
俺は、記憶が一定期間しか保てないことをはじめ、自分が何者なのかわからないことや……サラちゃんとの出会いの記憶を、既に失ってしまっていることも。
「……」
俺が話し終わっても、サラちゃんは口を開こうとしない。俯いてずっと黙ったままだ。被っている魔女帽で顔が隠れて、表情もわからない。
……しばらくして、彼女は何かを決心したように顔を上げた。
「サラちゃん?」
サラちゃんは答えない。代わりに、真っ直ぐな目をしてローブの懐から一枚の紙を取り出す。
これは……先ほどサラちゃんが書いていたアトミスへの加入申請書だ。彼女はそれを自分の目の前に高々と掲げ……
「決めました。やっぱり私、イブリスさんに着いていきます」
勢いよく、破り捨てた。





