ウォール・チェイス!
「あん?」
「え?」
レオの言葉にイブリスとリアスは後ろを振り返る。
するとどうだろう、先ほどまで距離のあった壁が、確かにこちらに近づいているようだ。階段が埋まってしまった床、少なくともその分の距離はあったはずなのに。
「……確かに、動いてるみてぇだな」
イブリスがその壁へ近づいていく。
別に、近づいてくるだけなら特別なことではない。悪魔の瘴気が影響しているこの建物において、壁や床が少し動くくらい大いにあり得る。
階段が消えた時のようなインパクトもなく、これだけならば特に気にするようなことでもなかった。
これだけ、ならば。
「まあ、何かおかしなことが起きる前にここから離れた方が良いかもしれねぇな」
壁に近づいたイブリスは、何気なく、その壁に左手を触れた。
本当に、何気なく。どこにでもある"普通"の壁に左手を触れるように。
だが……その壁は、決して"普通"ではないのだ。
「……なっ!?」
突然、壁がイブリスの左手を飲み込み始めた。
泥に沈むように、イブリスの左手は壁の中にゆっくりと吸い込まれていく。
「イブリスッ!?」
「くそっ!」
慌てて腕を引っ張るが、飲み込む力は強く、引っ張り出せる気配はない。左手はもうすっかり飲み込まれ、手首が壁に埋もれかけている。
「仕方ねぇ……!」
イブリスは空いている右手で銃を取り出した。既に銀製の弾丸が装填されている。
狙うは、飲み込まれかけている自分の手首。弾丸が壁の中にある左手の方向へ向かうよう、銃を斜めにして発射する。
「"blasT"!」
イブリスが銃を撃った瞬間、壁が爆発した。
レンガの破片が飛び散り、中から火傷を負ったイブリスの左手が現れる。
「いってえええ!!」
イブリスが激痛のあまり叫んだ。
自分の左手を中心に爆破し、壁そのものを破壊することによる抵抗。飲み込まれることは回避できたが、流石に爆発した左手は使い物にならないだろう。
「大丈夫か、イブリスッ!!」
「大丈夫……とは言えねぇな……いつつ……」
左手を抑えて倒れたイブリスにレオが駆け寄る。
酷い火傷だ。近くで見るとそれがよくわかる。黒属性魔法を自ら喰らったのだから無理もない。こんな時、サラかセルテが居たのならば回復ができるのだが。
「控え目に撃ったはずなんだがな……やっぱり人に向けて使うもんじゃねぇや、これ……」
「見てください! 壁が!」
どうやら痛いからといって休んでいる暇は無いようだ。
見てみると、飛び散った壁の破片は全て床に吸収され、壊れた壁はみるみる再生していく。
それだけではない。壁がイブリスたちへ向け、ずんずんと迫ってくるではないか。
「くっ……! 走れ!」
イブリスは左手の痛みに耐えて立ち上がり、廊下の奥へ奥へと走り出した。他の二人もそれに続く。
恐らくあの壁に追いつかれてしまったのならば先ほどと同じように飲み込まれてしまうだろう。次は片手だけではなく、完全に。
そんな事になるわけにはいかない。三人はひたすら前へと走り続けた。
壁はスピードを上げ、まだまだ迫ってくる。廊下の窓も扉も飲み込んで。
「危ないっ! 二人とも伏せてっ!」
リアスの叫び声に、レオとイブリスは咄嗟に態勢を低くする。
その直後、壁のレンガが数個、飛び出してきた。
「あっぶねぇ……!」
「後ろよりも前に注意した方が良いかもしれんな!」
瘴気の影響はなにを引き起こすかわからない。迫る壁ばかりに気を取られていては、結果として自分の死を招くだけだ。
「曲がるぞっ! 転ぶなよっ!」
廊下の突き当りまで来た。直角のカーブを靴底を擦りながら曲がる。
「嘘だろ、まだ追いかけてきやがる……!」
これで終わってくれれば良かったのだが、そんなに甘くはないらしい。どうやってか壁は角を曲がり、相変わらずイブリスたちを追ってくる。
「前っ! 階段ですっ!」
「よーっし! 上るぞ二人共ぉ!!」
リアスが指さす方向には、上層階への階段があった。ただ、やはり下り階段は塞がっている。
曲がっても追ってくるのならば、階を変えるしかあるまい。
「ぬおおおおお!!」
レオがスピードを上げ、一足先に階段を駆け上がった。
大股でのダイナミックなダッシュ。一歩階段を上がるたび、どすどすと大きな足音があがる。
「元気だなあいつは……」
「我々も行きましょう!」
続いてイブリスとリアスも階段を駆け上がる。左手の痛みが邪魔をするのか、はたまたリアスが身軽な狩人クラスだからか、イブリスが一歩遅れている。
それでも壁には追いつかれまいと必死で走り、踊り場で待つレオの元へ向かった。
踊り場にたどり着いたイブリスは振り返り、壁の様子を窺う。
角を曲がってきたくらいなのだから、階段くらい上がってきても不思議ではなかったが、どうやらそこまではしないらしい。壁は上り階段の目の前で停止し、これ以上イブリスたちを追う様子は見せなかった。
「はぁ……はぁ……キッツ……」
とりあえずの安全を確保できたとわかった瞬間、イブリスは思わずその場に座り込んだ。
やむを得ず左手を爆破した後の、全力疾走。時間にしてはものの数分だが、消費した体力はとてつもない。
特に壁からの逃走。体力のあるレオや身軽なリアスなら兎も角、決して若いとは言えない(厳密な年齢は自分にもわからないが)イブリスの体には結構な重労働である。
「思ったよりも瘴気の影響が濃いようだな……一部分だけではなく、建物全体が我々を排除しようとしているような印象だ」
「追いかける壁に、逃走を妨害するようなレンガ。確かに、こんなコンビネーションを仕掛けてくるパターンはあまり聞かないな……」
息を整えるイブリスの隣で、レオとリアスは考察を始める。
瘴気の影響を受けた物は、異常な動きこそすれど大抵は各々思い思いに動く。先ほどのレンガの様に、明確に逃走を妨害するような行為は珍しい。
……それについて考える時間を取るためにも、出来ることなら、この場で少しだけ休んでおきたいものだが。
「ご苦労……と声を掛けられたいところであろうが」
ここは敵の本陣。心休まる場所など存在しないのだ。
「残念ながら、貴様らに休む暇など全くない」
不意に上層から聞こえた男の声。
黒コートに、シルバーのペンダントの容貌。
機巧士ヴェルキンゲトリクスが、3階から踊り場に居る三人を威圧するように見下ろしていた。





