-Quartet- Radis Faker その3
――いい香り。
頭がぼーっとする。眠りに落ちる直前のような心地よさ。芳香に包まれて、私の意識は暗く、深いところに落ちていく。
ずっとこのままでいたい……気持ちいい……
「――さん!」
……誰? 私を呼ぶのは……誰?
「サラさん――!」
聞き覚えのある声。ずっとそばにいたその声が、沈んでいく私の意識を引き上げようとする。
「サラさん!」
「……フロワ、ちゃん……? フロワちゃん!」
フロワちゃんの声で、私は目を覚ました。
ここは……そうだ、アニ森林に見つかった館。悪魔の巣だ。私は確か、あの花の匂いを嗅がされて。
「……! フロワちゃん、もしかして私、何か……!?」
「大丈夫、一瞬気を失っていただけです」
良かった。とりあえず、まだ変なことはしていないみたいだ。
フロワちゃんの言葉や、周りの状況を見る限り、気を失っていたのは本当に一瞬らしい。私に花を近づけたのであろうツタがすぐ側にあるのがわかる。
その花はツタからちぎれて床に落ちている。多分、フロワちゃんが処理しておいてくれたんだろう。
「何か、変わった様子はないですか?」
「ううん、何も……」
身体は自由に動かせる。心のほうも……操られているような様子はない。フロワちゃんの事はちゃんと味方だって思えているし、敵だって。
――敵?
「サラさんに……何をしたのですか」
フロワちゃんが憎しみのこもった目でラディスさんを見つめる。
「良い目ですね。そのような目を僕に向けられる日が来るとは思っていませんでしたが」
「何をしたのかと聞いているのです!」
「今にわかりますよ」
「っ……! 答えなさい!」
「!? フロワちゃん!?」
盾を思い切り振りかぶって攻撃を仕掛けようとするフロワちゃん。
私はその腕を握り、引き止めた。あまりの力の強さに私ごと振り回されそうになったけれど、フロワちゃんはすぐに力を抜いて攻撃をやめてくれる。
「サラさん!?」
フロワちゃんが困惑した目で私を見る。
「だ……駄目だよ、フロワちゃん!」
「どうしたんですか、サラさん! どうして止めるんです!?」
「だ、だって……! あの人は本物のラディスさんなのに!」
「――!?」
困惑が深まり、更に驚きも加わる。
「やっぱり、駄目だよ……ラディスさんと戦うなんて……」
「さ……サラさん、一体……? 先程、あれは偽物だと……!」
「そ、そうだけど……私が間違ってたの。あの人は本当にラディスさんだよ!」
「その根拠は……」
「え、えっと、わからない……けど、あの人はラディスさんなの!」
何を言っているんだろう。自分でも、ちゃんとした返答ができていないことがわかる。
けれど、あの人は本物だ。間違いないんだって、心のどこかからそんな叫びが聞こえてきて、もうそうとしか思えないのだ。
「ほ、ほら! さっき、"手荒な真似は避けたかった"って言ってたよ! 本当に敵なんだったら、そんな言葉……!」
「もうやめてください!」
悲痛な叫びに、私は言葉を詰まらせる。
心がざわざわして、頭の中がぐるぐるしている。考えが全然纏まらない。それなのに、あのラディスさんは本物なんだって確信だけがしっかりと心の中にそびえ立っている。
私……どうなってるんだろう。
「貴方の……仕業ですね……」
フロワちゃんは再び、ラディスさんを鋭く睨みつけた。一方のラディスさんは暗い表情で視線を逸らし、うつむく。
「これは最後の手段でした。どうしても、僕が僕だと信じてもらえなかった時の」
「やはり貴方があの花でサラさんを操って!」
「操る!? とんでもない! 僕はただ……信じてもらっただけです! 彼女に、僕は僕であると!」
言い争う二人の姿を、私はただ見つめることしかできない。
勿論、私はフロワちゃんに加勢したい……けれど、どうしても体が動かないのだ。
だって、相手はラディスさんなんだから。ラディスさんだって、私の大切な仲間なんだから。
「ぁ……」
そこで、私は気づいてしまった。
迷い、動けずにいるフロワちゃんの背後に、ゆっくりと花を咲かせたツタが迫っていることに。
――声を……声を出さなきゃ。そうじゃないと、フロワちゃんが危ない……!
そう思って私はフロワちゃんに向かって叫ぼうとする。けれど。
声が、出ない。
フロワちゃん、後ろ! と、たったそれだけの言葉が出てこない。
あれを操っているのがラディスさんなら、実はそこまで危険なものじゃないんじゃないか。そんな考えが邪魔をして、声を上げられない。
でも、あのツタは、あの花は……!
「フロワちゃん! 後ろ!」
「――!」
ようやく声を絞り出した時には、もう遅かった。
私の声にフロワちゃんが振り返ると、もうツタは目の前。盾を振るう暇もなく、フロワちゃんは花の香りを吸いこんで、ふらりと倒れてしまった。
「フロワちゃん!」
急いでフロワちゃんに駆け寄る私。私が……私がもっと早く声を出せていれば……!
「サラ、さん……?」
「フロワちゃん……ごめんね、私……もっと早く言えたのに……」
私はただ、倒れたフロワちゃんを抱えて謝る事しかできない。
「さて、もういいでしょう」
私たちへと向けられた、ラディスさんの声。厳しい口調だけれど、その中にどこか優しさを感じてしまう。
「二人とも、まだ戦意はありますか?」
「……」
私もフロワちゃんも、ラディスさんの方を向いたまま何も言わない。けれど、答えは明白だった。
私はもう、戦えない。
今、ラディスさんは大きな隙を晒している。きっと今、光弾を撃てば間違いなく当たるんだろう。でも、それはできない。そうしようと思えない。私には、ラディスさんを攻撃するなんてできない。
そして、フロワちゃん。
フロワちゃんがラディスさんを見る目には、もう敵意はない。恐れと、迷いと、そしてほのかな安心。負の感情が混じり合った中に、ほんの一筋の希望を抱いているような、そんな目をしている。多分、私も同じ顔をしているんだと思う。
――私たちの中からは、もう戦おうという気は消え去っていた。
「……よろしい。では、もう一度交渉です。僕と一緒に来てください。絶対に……危ない目には合わせないと約束しますから」
カタナを置き、私たちに向かって差し出される手。
私はさっき、この手を迷わず跳ねのけた。皆が守ってくれているのに、自分から悪魔の手に落ちるなんてあまりにも無責任だと、そう言って。
その気持ちは今も変わっていない。だけど、今の私には迷いが生まれていた。
ラディスさんは、どうして悪魔の側に居るんだろう。本当に元々悪魔の仲間だったの? 実は人間の味方で、悪魔の側に居るのは、あくまで潜入しているだけじゃないのかな。
そう、きっとそうだ。そうに違いない。だから今も、悪魔の手から私たちを保護しようとしてくれているんだ。
「わ、私……」
「そうです、こっちへ。大丈夫、安心して」
私の手は、無意識にラディスさんの手へと伸びていた。
大丈夫。ラディスさんならきっと、きっと……
「やれやれ……すまん、遅刻だ」
――爆音と共に部屋の壁が崩れ去ったのは、私とラディスさんの手が触れ合うその瞬間だった。
「"blasT"」
「っ……!?」
聞き覚えのある声と銃声。
ツタが盾となって、飛来する魔法からラディスさんを守る。
「イブリスさん……!」
壁を突き破る豪快な登場。
イブリス・コントラクター。誇らしく、厳しく、そして優しい私の師匠がそこに居た。
「おいラディス。こりゃ一体どういうことだ?」
――!
そうだ、イブリスさんはラディスさんが悪魔たちの元に潜入していることを知らない。
加えて今のラディスさんの額には角がある。このままだと、イブリスさんがラディスさんの事を敵だと思っちゃう! 最初の、私たちみたいに……!
「イブリスさん、その!」
「サラちゃん。大丈夫、自分で言います」
弁解しようとする私を、ラディスさんが制止した。
「イブリス、見ての通りです。僕は……」
「お前じゃない」
しかし口を開いたラディスさんを、今度はイブリスさんが制止する。
「俺は"ラディスに"聞いたんだ」
ラディスさんの名前を強調して呼ぶイブリスさん。
「イブリスさん……? 一体、どういう……」
「こういうことですよ、サラちゃん」
声と共に、ラディスさんの背後に人影が現れる。
「何!?」
カタナはさっき手放してる。ツタが防御しようとするけれど間に合わない。
咄嗟に腕で体を守ったラディスさんが――ラディスさんのカタナで斬りつけられた。
「――主様」
「僕が居ない間に好き勝手やってくれたようですね。クロウ・ロ・フォビア」
私もフロワちゃんも、目の前の光景が信じられなかった。
イブリスさんが、ラディスさんを連れてやってきた。
ラディスさんが、ラディスさんを斬りつけた。
ラディスさんが、ラディスさんに斬りつけられた。
――ラディスさんが、二人いる。





