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心機(仮題)  作者: 山葵
第二章 「心理と心」
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第二話 「記憶と忘却」 9

なんとかトイレに駆け込み胸を撫で下ろす。久しぶりに走ったもんだから息も上がり、心臓の鼓動が耳にまで響いていた。

少しくらい運動をしておけば良かった…

毎回こういう状況に見舞われた時に思ってしまう。それなら毎日少しでも体を動かしておけよって思うのだけど、家に帰った頃には忘れてしまっている。そこまでがテンプレ通り。

大概の人はそういう経験を持っているだろう、ソースは俺。だって面倒くさいもんね!分かるよその気持ち。

特に社会人だと仕事のストレスで疲れている時や、肉体労働をした後になんで運動しなきゃいけないんだと思うよね?一日サボると"もういいや"って諦めてしまう、長続きしない人の特徴だ。

最終的には"俺って運動とか向いてないし、運動しなくても死なないからね。運動しなきゃ死ぬって言われてもそこまで長生きしたくないし"なんてクソみたいな言い訳で自分を正当化し始める。

別に誰かに課せられた事ではないので咎められる事はないだろうが、そのクセは早めに直した方がいいだろう。何故かって?答えは簡単!諦め癖がついてしまうからだ。

人間は常に楽な方へ逃げてしまう傾向がある。そりゃ誰だって楽な道を歩きたいよね、自ら苦難な道を選ぶ人なんて滅多にいない。そういう人は先を見越してプランを立てている人やマゾくらいだ。

楽な仕事をしたい、簡単にお金を稼ぎたい、面倒な事はしたくない、誰でも一度は思った事ではないだろうか?俺なんていつも思っているくらいだし。

でも、世の中そう上手くはいかない。世の中そういう仕組みになっているのだ。

裕福な人や、運がいい人ってのは必ずどこかで努力をしている。そういう人は努力している自覚はないだろうが、周りから見れば明らかに人が進んでやらない事を自らやっている。

俗にいう"徳を積む"ってことだ。

その時はタダ働きのように思ってしまうだろうが、徳は巡り巡って自分に返ってくる。

それは時に、思わぬ幸運が転がってくる事もあるのだからバカにできない。

もちろん毎回幸運が転がってくる訳でもないし保証もないけど、人の役に立てたと思えるだけで心は豊かになるものだ。

それだけでも徳を積む価値はある。

自分のキャパを越えてまでする必要はないが、もし自分に余裕がある時は茨の道を進んでみてはどうだろう?その時は辛いと思うだろうけど、必ず自分の糧となり、いつかは報われる。

辛い時、きつい時こそ、その逆境を愉しめる度胸が付けばもう怖いものなんて無いだろう。

そういう過程を乗り越えてきた人こそ、豊かな人生を送れる。

まずは、身近な人にでも手助けをしてみよう。それだけで相手の評価は変わっていくものだ。

怖がる必要はない、君の勇気ある一歩がこの先の人生を大きく変える分岐点になる。可能性は無限大だ!

君達の活躍に期待しているよ。では、健闘を祈る!

っと言うわけで、早くこの状況を打破できるよう俺の身代わりになってくんない?大丈夫!ちょっと面倒くさい二人の相手をしてくれるだけでいいから、頼むよ…マジで…

俺の他力本願が本領発揮したところで、ようやく息が整ってきた。


心臓の鼓動もだいぶ治まり、呼吸も穏やかになる。

取り敢えず、用を足す事にした俺は男性用の小便器に向かい歩き出す。

トイレ内も白を基調とした造りになっていて、壁から便器・洗面台に至るまで真っ白だ。ここまで白を見せつけられるといい加減慣れてきて、どうでも良くなってきている自分がいる。

床にはセラミックタイルが敷き詰められ、一歩一歩あるくたびに軽快な足音がトイレ内に響いていた。

しかし、自分の足音とは別の足音が聞こえる。

"もしかして、先客がいるのか?"

辺りを見回すも特に人影は見当たらず、大便器のドアも開いていて人が入っている様な気配はない。

ビクビク怖がっていても仕方がないので再び小便器に向かって歩き出したが、やはり複数の足音が耳に入ってくる。

俺の歩幅に合わせるような足音は、尾行されている様な気分を沸き立たせた。

尾行されている状況で満足に用なんて足せない…ここは腹を括って正体を暴くしかない。

足を止め勢いよく後ろを振り向く、すると、その正体は意外と簡単に判明した。

俺の背後にぴったりと張り付く日月と八雲がそこにいたのだ…

二人の顏はさも当たり前のように平然としていて、その堂々とした表情に俺の方が間違っているのかと錯覚を起こす程だった。

状況が掴めない俺らは暫し三人で見つめ合う。正確に言うと二人と一人が視線を交わしている状況だが、その間に俺は状況の整理を試みる。

ここ男子トイレだよね?駆け込んだとはいえ、流石の俺でも女子トイレに突入するほど変態ではない。ただでさえ不審者扱いされる俺なんだから、外出先での振る舞いは極力目立たないように心得ている。

トイレ内を見回しても男子用の小便所が設置されているし、ここは男子トイレで間違いなさそうだ。

じゃあ何故この二人はここにいる?まさかこの二人まで用を足す為にここにいる訳では無さそうだし、八雲に至っては排泄行為すら存在しないのだからトイレを使用する必要がない。

これ以上考えていても答えは出そうにないな…この膠着状態を破るため、こちらから質問を投げかけた。

「お前ら、ここで何してるの?男子トイレになんの用なんだ?」

「え?別に用って程のことはないけど…ただ君に付いてきただけだよ。早く用を済ませて雲英ちゃんの所に戻ろうよ」

「エェ、雲英ガ心配デス。砂月様ノ用ガ済ムマデ、私ガココデ見張リヲシテイマス。安心シテ用ヲ足シテ下サイ。何ナラ、オ手伝イ、シマショウカ?」

当たり前のように答える二人に沸々と怒りが込み上げてきた。

…お前らいい加減にしろよ…

沸点に達した怒りは俺の口から怒声となり、トイレ内で激しく響き渡った。


自分でなんと言っていたか覚えていないが、怒りに任せて罵詈雑言をぶちまけた記憶はある。

折角落ち着きかけていた呼吸も再び乱れ、ちょっと心臓が痛い…これ、やばい病気とかじゃないよね?この際ここで精密検査でも受けてみるか?でも通院するハメになりそうだからやめておこう。

日月と八雲は俺の怒声に驚いたようで、慌てて男子トイレから出ていった。女子禁制の花園を覗き見たのだから、当然の報いだ。

しかし、まさか男子トイレで怒声を上げるハメになるとは…こんな経験初めてだ。っというかここから先もトイレで叫ぶなんて行為したくねーよ。

あまりにも予想外の事ばかりが起きて、さっきまで限界に近かった尿意はいつの間にか消えてしまっていた。だが下腹部からは残尿感とも言えないような感覚が未だに残っている。

ここで出しておかないと、また尿意を催した時に耐えられないだろう。

この歳でお漏らしってのも恥ずかしいし、これ以上黒歴史は残したくない。

取り敢えず小便器前に立ち、ズボンを下ろしてみるも尿意を全く感じない。いつもの排泄動作で少しは尿意が出てくるかと思ったが、そう簡単にはいかないらしい。

暫くその場で立ち尽くしていると、ふと今朝の夢が脳裏によぎった。

確か、あおいって名前の子だったよな。漢字は分からないが"葵"って漢字が何気なく浮かんでくる。

なぜ夢のことが浮かんできたのか、それはこの病院の空間があの夢の中に似ていたからじゃないだろうか。

人が住んでいる・行き来している場所なのに生活感を感じられず、それでいて、環境音が聞こえない程の静かな場所。

寧ろこれほど大規模な病院施設なのに気味が悪いほど静かすぎる、その違和感を俺はずっと感じていた。

だから救急外来を見たとき俺は少し安心感を得たのだ、ここにはちゃんと人の気配があったんだ、と。

無機質のような静けさはあの夢の中を彷彿させる、世界から切り離されたように感じたあの実家を…

しかし、あの時は実家だと思っていたが、今ではあまり思い出せず本当に実家だったのか怪しい。

夢の記憶なんてものは忘れやすく印象に残りにくい、後で思い返そうと思っても思い出せない事がほとんどなのだ。

そして、一つの疑問が浮かんできた。


"俺には本当に妹がいたのか?"


今まで妹の夢を見ることは結構な頻度であったのだが、毎回容姿が違う。それに、今回に至っては名前まで書いてあったのに思い当たる節がない…葵…その名が本当に妹の名なのか?

まず、なぜ俺の中で妹の存在が薄れてきている?これも年齢による記憶の欠如ってことか?流石に初老手前と言ってもそこまでボケちゃいない。

じゃあなぜなんだ?両親や子供の頃の事はおぼろげながらも覚えているのに、なぜ妹の存在・記憶だけがこんなに不透明なのだ?まるで意図的にノイズを掛けられているような…

脳内がモヤモヤするなか、下腹部は妙にスッキリしていた。どうやら考え事をしている内に排泄を済ませていたようだ。

これで一安心、お漏らしを心配しなくて済むと思うと自然と肩の荷が下りた気がした。

ズボンを上げ社会の窓にしっかりとチャックをすると、手洗い場へ向かう。下腹部はスッキリしたのに足取りは何となく重く感じた。


手洗いを簡単に済ませ、また真っ白な廊下へ出る。そこには金魚の糞みたいに付いて来てた二人の姿はなく、俺だけが廊下に佇んでいた。

俺にしびれを切らして先に雲英の所へ戻ったのか、それともどこかで暇を潰しているのだろう。

初めから一人で行くつもりだったし寧ろ好都合だ。

しかし、日月と八雲のコンビか…死人が出なきゃいいけどな…俺には関係ないけど。

特に気に病むことなく、俺はゆっくりと自販機へ歩き出した。


自販機の場所はさっき確認済みだったので迷うことなく辿り着く。

ちょうどトイレを出て横に逸れたところに休憩室があり、そこに自販機も一緒に設置されていた。

静寂に包まれた休憩室には自販機の重い機械音だけが響いている、普段は環境音に紛れて耳にも入ってこないような音だが、ここではその音が耳障りに感じるほど気になった。

"さっさと飲み物を買って雲英の所へ戻るか…"

三台ほど立ち並ぶ自販機を右往左往しながら選んでいると、一番奥の自販機に小さく"あたたか~い"の文字と飲み物の群れが目に入る。

暑い日でも温かい飲み物を飲みたくなるよね?寒い日にアイスを食べたくなるような感覚と似ているかな。

ここは冷房が効いていてそこまで暑さを感じないけど、だからこそ少し冷えた体を温めるのにいい選択じゃないだろうか?

…いや、単純に体を冷やしたくないだけなんだけどね…歳を取ると寒さに弱いのよ…

ある程度絞り込まれたので、一番奥の自販機にお金を入れる。

さて、どれにしようか…と、人差し指を伸ばそうとした時、ガコンッとけたたましい音が響いた。

あれ?俺まだ選んでないのに飲み物が出てきたんだが?どういうこと?

横に視線を向けると、細くて白い人差し指がボタンを押していた。

そのしなやか指先を辿りながら視線を上げると、見知った顔と視線が合った。

「貴方、こんな所でなにをやっているのですか?」

冷めたような声音と鋭い言葉。まるで虫ケラを見るような視線はあの極悪非道で有名なメイドさんだった。

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