第四話 「平穏な日常の終わり」 3
アスファルトの焼けるような臭い、上からは太陽光、下からは照り返しの熱が俺に押し寄せていた。魚を焼くグリルってのはこんな感じなのだろう、俺は焼き魚の気分を味わっている。死んだ魚のような目と言われたことはあったが…まさか焼き魚の気分まで味わうことになるとは、スタッフさん美味しく頂いて下さいね。
このまま焼き魚にはなりたくないので、ゆっくりと一歩ずつ確実に歩を進める。だが、一歩一歩が恐ろしく緩慢な為ほとんど進んでいる気がしない。まっくのうち!なんて声援が聞こえれば少しは気が紛れるのかもしれないが、そんな幻聴は聞こえない。
喉元につたう汗を腕で拭うと、代わりに額から汗が噴き出す。これではキリがない…キリンだけに……
もの凄くつまらない事まで浮かんできたのは疲れている証拠だろう…そう思いたい。
早く冷房が効いて落ち着ける場所へと急がねば…その思いとは裏腹に足の動きは鈍重で牛歩ようだ。
要望は明確だが目的地としては曖昧。冷房なんてどこにでもあるが、俺が落ち着ける場所は限られている。安息を得られる場所はすでに封鎖され俺には行く当てがない、取り敢えずコンビニや書店なんかで涼むことは出来るが長居は出来ないだろう、まず落ち着る場所でもないし…封鎖がいつ解除されるか分からない以上、長居しても問題ない所がベストだ。
そうなると目的地が自然と浮かんでくる、俺の憩いの場はもうあそこしか考えられなかった。目的地が決まると歩くスピードは少し早くなり、木陰で小休憩を挟んでは確実に目的地までの距離を縮める。
俺の脳内では自分を奮い立たせるように、まっくのうち!の声援が鳴り響いていた。幕の内なんて名前じゃないけどね…
ようやく目的地まで数メートルの所まで差し掛かり、赤レンガの外観が視界に入る。やっぱここだよね『雪月花』
俺の行きつけ兼オアシスのレトロ喫茶店だ。ここでなら珈琲一杯で長居しても大丈夫だろう、よくオバサン達が女子会と言う名の愚痴会を開いているみたいだし…俺一人くらいプチ居候しても怒られないよね?
昼間には滅多に訪れたことがないので、太陽に照らされている雪月花は珍しく見えた。
赤レンガの装飾は長年太陽光で照らされた影響で色褪せていて、塗装剥げが少し目立つ。いつもは据え置きの看板が暗闇を照らしているが、今は昼間なので看板は明かりを灯すことなくポツリと置物のように佇んでいる。傍から見れば既に閉店して数年は経っているかのように見えるが、これでもちゃんと商いをやっているのだから不思議だ。これぞ隠れ家的なお店って感じだろ?悪く言えばただの不衛生な店なんだが…今はそんな贅沢を言っている場合ではない。俺のオアシスはここなんだ!頼む開いててくれ!
祈るような気持ちで雪月花へ歩みを進める。次第に雪月花で視界が埋まっていった、と言うかもう雪月花しか見えていない…急ぐ気持ちが体に伝わり自然と足早になる。あと少しでオアシスに辿り着く達成感と雪月花の珈琲で喉を潤す快感を想像するだけで俺のテンションは上がりっぱなしだ。あとナポリタンも忘れずに食す、これで俺の欲求は満たされる…完璧だ。
妄想は止まることなく暴走の一途をたどる、その頃には入り口までたどり着いていた。息を荒くしてドアノブに手を掛けるとドアにぶら下げてある札が自然と目に入る。
『close』と書かれた札は静かに揺れ俺に死の宣告を告げた……俺の祈りは届かなかったらしい。俺は再び絶望の淵に突き落とされ、崩れるように両膝をつき思考が停止する。
「どうする…もう俺に安息は訪れないのか…そんなの嫌だ…」
俺の中でプツンと切れたような音がした。その瞬間、感情が心を支配し抑制できなくなる。
「マスター!!いるんでしょ!?開けて下さい!!もう俺の安息の場所はここしかないんです!!こんなところで野垂れ死になんてしたくないよ!!」
ほぼ半泣き状態でドアノブをガチャガチャと力強く捻るが開かない、閉まっているのだから当前だ。だが簡単に諦める俺ではない、ノックと一緒に声を上げマスターに呼び掛けるが結果は一緒で返ってくるのは静寂だけだった。
感情が暴走するとその後に疲労感が襲ってくる、暑さも相まって体が重い。ドアにもたれ掛かるようにその場に座り込む。
「もうダメだ…頭もボーっとして何も考えられない…」
目を瞑るとセミの鳴き声が聞こえる。まだ梅雨明けしたばかりだというのにセミは気が早いのではないかと感じたが、この暑さは夏を錯覚させるには十分すぎる暑さだ。草花でも春と秋を間違えて花を咲かせることがあるのだし、生物でも季節を勘違いすることだってあるはずだ。それほど最近の天候は狂っていると言っても間違いではないのだが、本当に最近だけだろうか?俺は昔から天候ってものは狂っていると思う。ただ記録には残っていないだけで、もしかしたら昔の方が酷かったかもしれない。そう考えると今の天候ってのは案外普通・今まで通りってことになるが、昔と比べたところで今の天候が変わることはない。結局、人間ごときでは自然には敵わないってことだ、自然が人間を標的にして牙を向けることなんてあるはずがないのだが、もし自然が感情を持っていたなら…案外人類滅亡なんてものは簡単に達成できていたのかもしれない。自然に感情がなくて良かったと心から思うよ、感情がないなら自然の悪口を言ってもいいよね?
つまり俺が言いたいことは『夏は嫌い』ってことだ。こんなクソ暑い日なんて消えてしまえ!
俺の悪口は太陽に向けて飛び立ったが猛暑には敵わず跡形もなく蒸発した。ドアを背もたれにして力なく座り込み小休憩を挟む、これからどうしたものか…と無意識に呟く。その直後、後ろのドアから衝撃を感じ思わず飛び上がった。
恐る恐る振り返ると、聞き覚えのある声と同時にドアが開く。
「全く、お店の前で大声を上げるなんて礼儀を知らない方ですわね。そんな礼儀知らずの愚か者には私が直々に礼儀作法というものを徹底的に指導してあげますわ。それにこの札も見えていないのかしら?今日は折角マスターが貸し切りにしてくれたのに…これじゃゆっくりとお茶も出来ないじゃない、この責任どう取ってもらおうかしら…」
この口調に傲慢な態度、俺は記憶している、間違いなく彼女だ。自然と顔が綻び安堵の声が漏れる。しかし、同時に疑問も浮かんできた。
「雲英!なんで君が?」
「砂月さん?どうしたのですか?こんな昼間から活動しているなんて珍しいこともあるんですね」
質問を質問で返してくる。ダメだぞ、質問にはちゃんと答えないと。お母さんに教わらなかったのか?それなら俺が直々に手取り足取り教えてあげてもいいのだが…今はそんな余裕がない、ここはまず俺が質問に答えるのが早いだろう。
「俺は一時的に家を追い出されてな、この猛暑から避難するためにここを訪れたのだが、あいにく新装開店中だったみたいでな…どうしたものかと途方に暮れていたところだ」
「新装開店?その意味は分かりかねますが…行き場がないようなら、ここをお使い下さい。今日はマスターが私の為に店を貸し切って下さったのですが、私とマスター二人だけでは広すぎますし…砂月さんなら私も気兼ねなく楽しい時間を過ごせそうですわ」
マスターが貸し切り?どんだけ雲英にえこひいきしてるの?俺にも少しはその心配りを分けて欲しい…
雲英の申し出は素直に嬉しかったが、ここは紳士として一旦断りを入れる…本当はすぐにでもお店に入りたいんだけどね。
「いや、雲英が良くてもマスターは良しとしないかもしれないだろ?マスターには悪いし、今日は止めて出直して来るよ」
「ちょっとお待ちになって、マスターに許可を得れば大丈夫なのですね。マスターに伺ってきますわ」
「え、ちょっと待っ…」
俺の制止を無視して雲英は店内へ戻っていった。その間、俺は祈るように何度も十字を切る。十字を切ったところでマスターに祈りは届きそうにないが、逆に俺が半殺しにあってマスターに十字を切られるかもしれない…
頬の十字傷ならいいかもしれないが、痛そうだからやめておこう。働きたくないでござる!!
意外に早く俺の元へ戻ってきた雲英は笑顔を浮かべながら報告した。
「マスターから許可を得られたわ、"雲英ちゃんのお願いなら仕方ねぇな"だって…ふふ、さぁ遠慮なく入って下さい」
「そうか、それなら安心だ。お言葉に甘えてお邪魔するよ」
雲英様、ありがとうございます!この御恩一生かけてお返しします!
俺は涙を堪えながら感謝の意を述べる、この場に雲英がいて本当に良かった。
まるで女神様のように俺は雲英を崇める。あぁっ女神さま!!ベンダルディー可愛かったなぁ。ウルドも捨てがたいが、スクルドが俺の一押しだったな…色々と妄想が捗りそうだからこの辺で止めておこう。
妄想を押し留めていると、脳裏に氷華の言葉がフラッシュバックのように過った。
確か氷華は雲英の適当な名案で動いていたはず…となると俺が追い出された原因は……
先程まで信仰心で満ち溢れていた心は、雲英に対する憤りで真っ黒に変わっていた。オジサン根に持つタイプだからね…
雲英に招かれ店内へ入ると、本当に貸し切りだったらしくマスターと雲英以外は誰もいなかった。大体この店じたい客は少ないのだから貸切る必要があるのかと疑問に思ったが、そこはマスターの判断なので俺が口を挟む必要はないだろう。変に口出しすると逆鱗に触れそうだから止めておく。
そのまま雲英に続き奥のカウンター席に座る。マスターは珈琲を入れながらこちらをチラッと見ては嫌そうな視線を送っていた。どうもすみませんね、俺で。
雲英の前には既に珈琲が出されていて、まだ湯気がほんのりと上っていた。雲英はそのまま珈琲を一口含み微笑を浮かべている。俺はまだ答えを聞いていなかった質問を再度聞いてみた。
「今日はなんでここに?しかも貸し切りなんて、なにかあったのか?」
「いえ、ただ時間があったのでここを訪れただけですわ。それに、この前のお礼を兼ねて挨拶をしておこうと思ったのですが、マスターが気を利かせて貸し切りにして下さったの。そこまで長居するつもりもなかったのですが…なかなか帰り辛くなってしまって…」
微笑から苦笑に変わり困り果てた仕草を見せる。つまり雲英も困っていた訳だ、マスター…気を利かせるのもいいですが度が過ぎると迷惑になるので気を付けましょうね。
「な、なるほどな…お互い大変だな。ところで一つ聞きたい事があるんだが、いいか?」
「はい、なんでしょう?私に答えられることであればいいのですが」
いや、雲英しか答えられないから安心していい。その返答によっては俺が怒り狂うことになるかもしれないが…
「さっき俺は一時的に家を追い出されたって言ったよな?なぜだか分かるか?」
「勿論、私が命令したのですから知っていますよ。"特別アンドロイド研究施設"の話ですよね?」
やっぱりお前の仕業だったんだな、俺の中で再びなにかが切れるような音がした。こうなったら誰も止められんぞ!お前は俺を怒らせた!
俺の怒りが爆発する寸前、雲英の話はまだ続いていたらしく俺はタイミングの逃す。
「でも、昨日の朝に私がメールで通知はしていましたから砂月さんもご存知のはずでしょ?返信はなかったので、少し心配していましたが…」
「えっ?メール?そんなの見ていなんだが…」
急いでスマフォを取り出し確認する。そこには確かに昨日の日付でメールが一通届いていた。メールを開いて内容を確認すると今日の予定が事細かに書いてあり、最後に"返信がなければ了承の意と捉えます"と一言付け加えてあった。
雲英の言う通り通知は来ていたのだが色々と疑問点が浮かんでくる。
なんで俺のメールアドレス知っているんだ?
それに氷華が言っていた伝書鳩はなんだったの?
そして最後の一文の"返信がなければ了承の意と捉えます"ってなに?新しい詐欺手法なの?そんな一方的な誓約見たことねーぞ!
思考が迷子状態なのでここは一つずつ整理していこう。まずメアドだ。
「なんで俺のメアド知ってるの?俺教えてないよね?」
「氷華が大家さんに聞いてましたわ、あそこの大家さんは本当に親切でいい人だと氷華が褒めていたようですけど、私はまだお会いしていないので是非今度紹介して下さいね」
雲英は悪びれる様子もなく、大家さんのことを絶賛していた。
俺もなんとなく予想出来ていたから大きなショックを受ける事はなかったが、大家さんへの不信感は増大していた。本当に俺の個人情報ってなんなの?これもう訴えてもいいレベルだよね?
気を取り直して次の質問に移る
「氷華が伝書鳩で通知したって言ってたけど…」
「伝書鳩?なんですかそれは?私はメールでしか通知はしていませんけど」
ですよねー今時伝書鳩なんて使う訳ないだろ…少しでも信じた俺がバカだった…
そして最後の質問を投げかける。もうだいたい答えは分かってきたけど、ここまで来たら聞いておいても損ではないだろ。むしろあまり聞きたくない…
「最後の一文に"返信がなければ了承の意と捉えます"って書いてあるのは?」
「氷華が"どうせあの方はメールなんて読まないでしょうから返信を期待するだけ無駄です。この文を入れておけば計画通りに進める事が出来ますので入れておいて下さい"って言ってたわ」
この怒りをどこにぶつければいいのか…拳を握りしめ、俺はわなわなと震えていた。
あの野郎ーー!!!!雲英お嬢様の命令と言っておきながらほとんどがお前の仕業じゃねーか!?まんまと騙されたわ!だいたい、怒りの矛先を主に向けさせるとは従者としてどうなの?これは雲英に伝えてあいつにキツイお灸を据えてもらわなきゃ怒りが収まらん。
家での出来事を洗い浚い雲英に打ち明けようを口を開いたが、雲英の方が先に口を開く。
「砂月さん、自宅でなにかあったのでしょう?様子を見ていれば分かります。もし従者達が無礼な事をしたのであれば私が代わって非礼をお詫びします。申し訳ございませんでした…」
椅子から立ち上がり俺に向き直ると深々と頭を下げる雲英。俺は咄嗟の出来事で言い淀んでしまう。
「え、いや、雲英が謝るのは違うだろ?謝るのはあいつらであって、雲英が謝る必要はないと思うのだが」
「そうはいきません、従者の行いは主である私の責任でもあります。なので私がお詫びするのは当然のことです」
雲英は真剣な表情で俺を見つめ、誠実に謝罪を述べる。その姿勢に俺の怒りは何処かへ飛んで行ったらしく、怒るのが莫迦莫迦しくなって溜息をつく。
「…はぁ……謝罪はもういいよ、別に謝ってほしい訳じゃないからな。それに腹が減って怒る気が失せた…代わりと言っちゃなんだが、もう一つ答えてくれるか?」
「はい、なんでしょう?」
既に怒りはなく俺は一番の疑問点を問う。これも雲英にしか答えられない質問だ。
「なんで俺の家なんだ?いくら施設関係者に悉く断られ信用できないと言っても、日本中にはまだ依頼を出していない施設もあるだろ?それに日本に拘らず海外に目を向ければ優秀な施設はいくらでもある。なぜ研究道具を仕入れてまで俺を選んだんだ?」
雲英は少し微笑を浮かべながら端的かつ至極当然のように答えた。
「それは、私が砂月さんを信じているからです。」
俺は目を丸くし驚いたような表情を見せたが、すぐに照れくさくなって苦笑する。
そうだ、この子はこういう娘だった。人を疑わず、自分の信念のように人を信じる。俺には到底できないことを、この子は当たり前のようにやってのける。あまりの眩しさに直視出来ない…それ程俺の目は濁り腐っているのかもしれない。
顔を背けていると雲英は不安だったのか聞き返してくる。
「なにか不満でもありましたか?それとも答えとしては間違っていたかしら?」
「いや、間違いでもないし…その答えで十分だよ」
まだ雲英を直視できず、そっけない言葉で返したが雲英は椅子に座り珈琲を一口に含むと、独り言のように呟く。
「砂月さんがその答えで納得できたのなら、私はなにも言いません。それが信頼の証です」
ニッコリと微笑む雲英。
……この子は本当に……俺を萌え殺す気なのか?しかし、これ位で心を奪われる俺ではない!ルパンでも奪うことが出来なかった心だからな!ってか、銭型警部も絶対ルパンに心を奪われてるよな。だから執拗に追いかけている訳で…つまりBL…いや、やめておこう…
始めは何故俺の家に?と考えていたが、至極簡単な答えに呆気にとられた。それに、こんな事言われてたら理由を聞いたところで断れないだろ…これも計算の内だったら雲英の本性を疑うべきだが、雲英の目はそんなことを思わせる気すら起こさない程に澄んだ瞳をしていた。
雲英に信頼されているのは喜ばしい事だが、俺の部屋が"特別なんたら"になるのは憂鬱だ…俺の心は非常に複雑な気分に満たされている。
話の切れ目を見越したかのようにマスターが珈琲を持ってきてくれた。流石マスター!誰かと違って空気を読むのには定評のある人物だ。素直に受け取り俺も珈琲の余韻に浸る。…ん?今日の珈琲は苦みが強いな。
……さて、これからどうしたものか…取り敢えずナポリタンで腹を満たしてから考えることにしよう。マスターに注文をお願いしようと声を掛けるが、何故かすごい眼力で睨まれた…とても機嫌が悪いみたいだ。
え?俺、なにかしたのかな?自分の行いを振り返るとすぐに思い当たる。
雲英の為にマスターが店を貸し切り状態にしたのをぶち壊したのは俺だった。そりゃ怒るはずだ…後でちゃんと謝っておこう。
珈琲の苦みが強い理由も分かったが、今はこれ位の苦みも美味しく感じる。さて、まずはマスターの機嫌を直してもらわないと、ナポリタンにまで苦みを仕込まれそうだ。
残りの珈琲を嗜みながら俺は謝罪の言葉を考える。




