木下家 ―母親―
玄関ドアを少しだけ開けて、隙間から廊下を覗く。『あの人』はいない。そのことにほっと胸を撫で下ろし、そろりと足を踏み入れる。
「……た、ただいま」
小さく声を絞り出す。
「あ、お帰り。ミノリ」
あの人はリビングから出てきた。声を聞いたからだろう。
どくん、と鼓動が跳ね、穴という穴から冷たい汗が出てくる。
「あ、の……友紀さん……」
『あの人』――もとい、友紀はミノリの母親だ。しかし実の母親ではない。父親が再婚した相手だった。
彼は友紀から視線を逸らす。ダメだ。顔がまともに見られない。
「――っ」
居たたまれなくなったミノリは靴を脱ぎ、彼女の横を通り抜ける。
「あ、ミノリっ」
友紀は階段を上るミノリを呼び止めようとするが、当の本人はそれを無視し、階段を上る。
――ごめんなさい、友紀さん。ごめんなさい。彼は心の中で何回も謝る。届く筈がないことは判っていた。
「……まだ、呼んでくれないのね」
彼女はポソリと呟いた。
一緒に暮らし始めて四年目になる。だが、ミノリは未だに『お母さん』と呼んでいなかった。
「って……弱気になっていちゃダメね。『友紀さん』って呼んでくれるならまだマシよ」
――少しは、進歩したよね。
母親はポジティブ思考の持ち主だった。




