オズ
「へっくしょん!うぅ……誰か噂してんのかな」
多くの人が行き交う街の中。
相変わらず変わった見た目のせいで目立ちまくりな吹雪は、盛大なくしゃみと共に物凄い寒気に襲われていた。思わずたってしまった鳥肌に腕をさすりながら、もし先程の二人組によって話のネタにされていたら最悪だな、という感想が頭を過る。
先程は驚きすぎて自分でもどうやってここまで逃げてきたのか分からずにいたが、上手くあの二人を躱せた事には安心していた。
特にあのイオとか呼ばれていた幼女。なぜか彼女に対して身の危険を感じずにはいられなかった吹雪は、できれば今後一切会いたくないとすら感じていた。
とそこで、ふと唇へと指を当てる。
「そっか俺、初めてだったんだよな……」
そこはまだ、微かに熱を帯びていた。
「───って、ばっ!ばかばか俺の馬鹿!」
なに、初対面の幼女にいきなり主導権を奪われるというあの衝撃的なキスを、感慨深げに思い出そうとしているのか。
例え見た目は幼女だろうとあれは幼女の皮を被ったキス魔、つまりは不埒者に違いない。そしてあれは絶対に、忘れるべき事故。そう事故である。
そうだと思わなければ、自分の中でずっと定められている掟を破ってしまった事になってしまう。
「俺は、あんな不純な事しちゃいけないのに……」
そう。吹雪は幼い頃からずっと両親に、純真であるようにと言いつけられてきた。
男女の交わりはもちろん、誰かに恋愛感情という物を抱く事さえ不純だと教えられてきたのである。それは、欲を持つことさえ吹雪には一切禁止されているという意味でもあった。
また吹雪は、両親から「吹雪」と呼ばれた事は一度もなかった。いや。正しくは、名前とすら言えないぐらい不明瞭な『仇名』だけを両親から与えられて生きてきた。
実のところ「吹雪」という名前は、昔よく遊んでくれたお姉さんが付けてくれた名前である。吹雪自身、両親から与えられた『仇名』よりもずっとこちらの名前の方が気に入っていたが、お姉さんから「これは二人だけの秘密だよ?」と言われれば、その気持ちを下手に表に出す事はできなかった。
だから、両親から呼ばれる時はいつも何も感じない。ただ、呼ばれる事だけに慣れていき、まるで刷り込み作業の様に『仇名』が自分の中へと零れたジュースみたいに染み込んでいく。
そこに愛された証拠は、なかった。
吹雪が両親から教えられた事は専ら、「清く生きなければならない」という事だけ。だから外の世界も、景色も言葉も、吹雪は何も知らないままで育っていく。
そうすれば、吹雪はいつしかただの何も知らない真っ白な人間へと成り果てていた。それは「純真無垢」であると言われれば聞こえは良いが、所詮悪く言えばただの「お人形」。
必要な情報だけを与えられ、俗物だとか、子どもが喜ぶ遊びとかとはずっとずっと切り離されていく。
なぜ?とは、何度も考えた事だった。だって弟は、当たり前の様に普通の子どもと同じ事をしているじゃあないか。外に出る事ができるし学校にも行けて、オモチャだって全部家にある物は弟の物。
吹雪にあるものは、ただ真っ白な世界だけ。だから小さい頃はずっと弟の事が憎かった。
××
「あっちに行ってよ!何でこっちにくるの?!」
ぽてぽてと歩きながら無邪気に寄ってくる弟に、いつもと変わらずオズは怒鳴り声を上げていた。
「でもぼく、にぃちゃのことしゅ「俺は嫌いなんだよ!」
両親に愛を与えられているくせに、とことん噛み付いたように両親には懐かない弟。やっとたどたどしく言葉を喋れるようになっても、「ぼく、ぼく……」と後ろからずっと付け回ってくる事しかしない。
両親に懐けば良いものを、逆に避ける。嫌いと言われ今にも泣きそうな顔になるクセに、オズの服にだけしがみついてくるような弟だった。お陰で好きでもない、寧ろ毛嫌いして仕方ない弟の世話は、自然と兄であるオズがやるようになっていた。
だが真面目に世話する気なんてさらさらない。
近寄ってきたら今みたいに怒鳴ったり、無視したりした。もっと酷い時は物を投げつけた事もあり、両親に見つかれば「そんな事で清く生きられるか」と叱られた。
それでもオズは、どうしても弟に兄らしく接する気にはなれなかった。
なのに弟は、何故か嫌がらせばかりするオズの方にだけ寄ってくる。それがオズにとっては、弟を恨めしく思う気持ちに一層拍手を掛ける原因へとなっていく。
「何で。俺にだって、ちゃんとした名前を付けて欲しいよ……」
自分と六つ年が離れているだけ。なのに弟は、あんなに立派な名前を貰っている。
───んじゃ、お前は今日から吹雪だ───
初めてお姉さんに貰った名前を、両親にも呼んで欲しかった。でも、二人だけの秘密だよ?と言われたからオズはそれを誰かに言う事はしなかった。両親はもちろん、毛嫌いしている弟にだって。
××
(───嫌な事を思い出した)
吹雪は、小さい頃を思い出して苦笑する。
「あの頃は、雪那の事が嫌いで仕方なかったんだっけ……」
今思えば、実に子どもらしい嫉妬だったわけだが。
「そういえばあの仇名、誰かに名前聞かれた時に使えるかな?」
ふと思い付いた名案にポンと手を打つ。和風の要素が全くもって見当たらない中、そこに上手く溶け込めそうな『仇名』は随分と便利に感じる。まるで、こういう時のために用意されていたかのよう。
それに、大事な名前をあまり晒したくなかった。
───今度はオレが、吹雪兄ぃを守るから!安心して、町にだって行けるように……っ!───
一人称まで変えて、無理に強くなろうとした弟。外を知らない吹雪のために、いつも内緒でいろんな物を持ち帰って教えてくれた。
いつしか真白だった吹雪の世界には、弟という色が加わっていた。
「今度は、お兄ちゃんが守る番だから」
二人だけの秘密だよ?
あの頃二人で楽しく囁いていた言葉が、吹雪の耳を擽る。
その感覚に、吹雪───オズは静かに微笑んだ。