(18)『妙なこともあるものだ』
「アルヴァレイさん、さっきルーナちゃんと何かあったんですか?」
短剣だけ右腰の鞘に差し、武器を納めた革袋を手に下の階に降りると、階段の前でわざわざ待ってくれていたらしいヘカテーが唐突にそう訊ねてきた。おそらくさっきルーナとすれ違った時に彼女の様子がおかしかったことに気付いていたのだろう。
「何かあった……のか?」
「何もなかったんですか?」
「なかったって断言はしにくいけど……」
一拍言葉に詰まる。さっきのアレを言ってもいいものか、正直なところ迷っていたのだ。
多分ヘカテーは俺のことを信じてくれる――と言うよりはむしろ疑わないでいてくれるだろうが、だからといってルーナに――全く別種族の子に告白(?)されただなんておいそれと言ってしまっていいものではない。
まずはアレが白昼夢でないことをルーナに確かめることからだ。ヘカテーが何となく察した時点で半分その証明はできているような気がしないでもないが。
「大丈夫なんですか?」
つらっとこの聞き方が出来る辺り、さすがはヘカテーと言わざるを得ないだろう。
「大したことじゃないから、今のところは俺に預けておいてくれ」
読心能力を失っている今のヘカテーだからこそ通用する台詞だな、これ――――などと思いつつそう返すと、ヘカテーは何か思うところがありそうな表情になり、伏し目がちに「わかりました……」と呟いた。
しかしすぐに取り繕うようにいつもの清廉な面持ちを取り戻し、俺が何か言おうと口を開く前にくるりと背を向けた。
「早く行きましょう、アルヴァレイさん。きっと皆待ってますよ」
「あ、ああ……」
急に少し素っ気なくなったヘカテーの態度に何となく悪いことをしたような気分になりつつも、俺はヘカテーの後に附いて店の裏口から路地裏に出た。
「遅ーい」
狭い路地を抜けて店の正面に出ると、少し不機嫌そうな表情の紙縒が開口一番不満げな声を上げた。
「お待たせしてごめんなさい、紙縒さん」
「アルもヘカテーも何してたの? くー……じゃなくて、久遠がどうしても早く行きたいって言ってたから、皆だけ先に行かせちゃったわよ?」
「いや、何でもないけど……とりあえず待たせて悪かった」
今までの事も話せば長くなるし、わざわざ彼女に伝えるようなことでもないのでそう答えると、紙縒は「ふーん」と何処か当てつけるように語気を強くして応えた。
その猜疑心を思わせる態度に押され、俺は思わず目を逸らしてしまう。
「こ、紙縒さん。他の皆を先に行かせた……って大丈夫なんですか?」
少し困ったような笑顔ながらも、ヘカテーは話題逸らしの助け船を出してくれる。
「アリアさんやルーナちゃんは戦いに不慣れですし、久遠さんや稲荷くんも戦いには不向きでしょうし……。康平さんはどれくらい戦えるのですか?」
「あまり……と言うか全然ね。仕方ないから私が色々と面倒見てあげてるってワケ。ほっとくと小地蟲にもやられそうだし」
ホントに困ったものよ、と肩を竦めた紙縒の顔は、言葉とは裏腹に少し嬉しそうに見えた。
それにしても康平のヤツ――――神経性の毒牙を持っているものの、動きが鈍くて靴で踏むだけで対処できる最弱の害虫にもやられるのか。確かアレ、大きいものでも手のひらに乗る大きさだぞ。
「ってことは8人もいて戦えるのはここにいる3人だけなのか……」
「心配しなくても、私たちがもし追いつけなくても北の通用門で待ってるように言ってあるわ。勿論内側でね。他ならともかく、このテオドールの街中の面倒事なんてたかが知れてるしね」
テオドールの治安は世界的に見ても比較的いい方だからな。
住人のほとんどが信用第一の商人で、役職の違いはあっても身分に差はないこの街では大っぴらに悪事は働けない。
とは言え、この街にも暗い部分はあるわけだが、そんなのは商人ですらない俺たちには関係のない話だった。
荒事以外はアリアが機転を利かせてくれるだろうし、この街の荒事なんて酔っぱらいの喧嘩ぐらいのものだ。
「まあそれでも合流するのは早いに越したことはないわ。すぐ追いかけましょ」
紙縒はそう言ってにこやかな笑みを浮かべると、ヘカテーと連れ立って北通用門に向かって歩き出した。
「来てないッ!?」
紙縒の声が北通用門の番兵詰め所に谺した。
「嬢ちゃんたちくらいの女子供5人だろう? ここ数刻は通っていないな」
鎧姿の番兵がそう言って同意を求めるように振り返ると、詰め所の中に座っているもう一人の兵士も頷いた。
「大角鹿を連れてるかもしれないんだが」
あるいはと思ってそう言うと、兵士たちはやや胡散臭げな視線を俺に向けてきた。
俺たちのような十代二十代でベルンヴァーユを所有しているなんて、それこそ貴族でもない限りほぼありえない。実際には所有被所有ではなく友達関係なのだが、ルーナという旧き理を背負う者の存在を知らなければ傍から見てわかるものでもないだろう。
俺も紙縒も特別いい身形をしているわけではないし、そういう雰囲気を纏っているわけでもない。
具体的にどう思われているかはわからないが、少なからず怪しいと思われているのは間違いなさそうだった。
気品という意味では、今周辺を探しに行っているヘカテーなら通用するだろうが、さすがに身体の動きを妨げるように身に付けている金の鎖までは説明できない。
番兵たちが顔を見合わせたのと同時に目配せし合った俺と紙縒は、変に怪しまれる前に詰め所を後にした。
「どういうこと? ここまでの道は一本道。迷うようなところはないはずよ」
早足で歩きながら紙縒が言う。
「アリアがついてるし、街の地図も荷物に入ってるから、迷ったってことはまずありえない。門番が気付かない内に通ったってことも考えられるけど、俺の妹がそんな無茶するわけがない」
「ってことは何かに巻き込まれた可能性が高そうね。康平のバカ……自分のトラブル体質考えなさいよね、ったく」
紙縒は腹立たしそうに虚空を睨み付けると、懐に手を差し入れ、束ねられた紙の束を取り出した。
何の記号も文字も書かれていない、手のひらに収まる程度に切った白紙の束。船の騒動で濡れてダメになってしまった式紙の代わりについさっき道中で購入したものだ。
「こっちは筆記用具が不便で困るわね。鉛筆があるだけましだけど」
紙縒は何やらぶつぶつ呟きながら、同じくついさっき買ったばかりの鉛筆を取り出し、一番表の一枚のちょうど中央に複雑な記号を描き始める。
「ああ、もう……。先に下準備さえできてないのが腹立たしいわ」
愚痴りながら描き上げたのは魔法陣のような模様と見覚えのある独特な雰囲気の文字。その紙をピッと引き抜いた紙縒は伸ばした右手の指先で捧げ持つ。
「『飛燕式』式動」
紙縒の短い詠唱と共にひとりでに浮いたその紙は、折り畳まれたり切れ込みが入ったりしながら燕のような形に変化して、スーッと上空へ飛び上がった。
「あれは?」
「遠見用の式紙よ。時間がないから探知能力だけの簡易式だけどね。この辺を飛び回って、私が識別できる人の位置を教えてくれるの。あ、ヘカテー見っけ」
走り出した紙縒についていくと、ぐるっと一周回って一度別れた辺りに戻っていたらしいヘカテーと合流した。
「どうでしたか、アルヴァレイさんっ」
俺たちの姿を見つけたヘカテーは駆け寄って来ると、開口一番急かすようにそう訊ねてくる。
「街の外へは出てないみたいだから、少なくともこの街の中にはいるはずだ」
「そう、ですか……」
ヘカテーは心配そうな表情ながらもその唇の下に人差し指を添え、何かを考えるような素振りを見せる。
「取り敢えず地道に『飛燕』で探してみるしか無さそうね。まずは――――えっ!?」
片目を閉じて上空の式紙を遠隔操作し始めた紙縒は、わずかな間も置かずに目をぱちっと開けたかと思うと、ババッと周囲を警戒するように見回す。
「どうかしたのか?」
思わず腰の短剣に手を遣りつつそう訊くと、紙縒は信じられない言葉を口にした。
「……撃ち落とされたっ」
「は?」
「飛燕が何かに撃ち落とされたの。多分、魔法で。ていうか何で!? いったい何が起こってるってのよ!」
苛立ち紛れに民家の石壁に拳を叩きつける紙縒をよそに周囲に視線を送ると、少し離れた商店の屋根越しに黒く細い煙が立ち上っているのが見えた。
すぐに薄れて消えてしまったから街行く人の殆どは気がつかなかったようだが、紙縒の式紙はあの辺りで撃墜されたのだろう。
「魔法で落とされたってことは――」
「――術者が何処かにいるはずですっ」
俺は革袋から鉤爪を引っ張り出し、刃先の留め具を外しながら左手に装着する。
「それにしてもやっぱ、アルがそれ使ってると悪役にしか見えないわね。普段は優男系なのに戦ってる間はヤバい方の裏人格が出てくるーみたいな?」
「今それ関係ないよな!?」
しかも疑問形。
しかしふざけたような台詞とは裏腹に、紙縒は何処からか例のメイス――鋼の枢機卿を出現させて臨戦態勢を整えている。
どうやら俺を利用して、場の緊張を和らげたかっただけらしい。
その証拠に紙縒の目はまるで鋭利な剣のような、凛々しくも雄々しい研ぎ澄まされた輝きを放っていた。
世間の偏見もやや入っているが、紙縒のようなギルドメイトは比較的安い賃金で世のため人のために働く職種。つまりそれなりの覚悟とやる気がないと立ち行かない仕事の筆頭なのだ。よほどの物好きか、マトモな貴族が後継ぎにいい経験を積ませたい場合、そしてあるいは自分なりの理由がある時ぐらいにしか就かない職だ。ちょっとした小遣い稼ぎにはあまり向いていないし、彼女の性格を考えても正義感がそれだけ強いのかと思いきや――
「康平たちがいなくなったのと関係あるかは知んないけど怪しいのも事実……。って言うか、私に喧嘩売ったッ! 理由にはそれで十分重いわ」
――猪突並みに短絡的で、自己中心な理由だった。
康平は四六時中こんなのと一緒にいるのか。大変そうだ。
などと行方知れずの康平に同情を新たにしている隙に、紙縒は辺りを確認して式紙が落とされた辺りの裏路地に通じる路地へ駆け込んでいく。
「置いてくわよ、アル!」
「え? あ、ちょ、待っ……」
気が付くと隣にいたはずのヘカテーもいなくなり、その姿は紙縒の隣にあった。
俺だけ置いてけぼりである。戦力的にも二人の足元にも及んでないかもしれないが。
まさにその時だった――。
「あれ? お兄ちゃん、そんなしっかり武装して何やってるの?」
俺たちが緊迫した雰囲気を醸している中、傍から投げかけられた能天気な声に俺とヘカテー・紙縒の動作が一瞬だけ完全に停止する。咄嗟に戦闘動作のまま振り向くと、俺の動きに驚いたように目を丸くするヴィルアリア。その後ろにはベルンヴァーユ姿のルーナとその背に乗っかっている稲荷くん、久遠、康平の姿があった。
俺の反応やアリアの声に路地から飛び出してきた紙縒が、その光景にこめかみをぴくりと引き攣らせる。
「って康平! ナニ自然に久遠……じゃなくて久遠の腰に手遣ってんのよ!」
「これは掴まってるだけだよ!? こうしないと落ちちゃうでしょ!」
「うっさい、その手ェ放せ、アホ康平!」
「そんな無茶な……」
さっそくいびられてる……。しかも意図不明の理不尽さで。それでもしぶしぶ従っているところを見るとその力関係は歴然としか言いようがないだろう。
「今までどうしてたんだ? 追い越した覚えはなかったんだけど」
5人が来た方向はまさに俺たちが来た方向と同じだった。
「ほえ? 私たちは普通にこっち来ただけど……」
まさか3人が3人ともこんなに目立つ5人を見逃したって言うのか?
そんなこんなで5人の一時失踪と式紙撃墜について、真相が有耶無耶のまま実質的には解決してしまった。紙縒も康平を怒鳴りつけるので忙しいようだし、この時の俺は妙なこともあるものだと思う程度で済ませてしまったのだ。
この異変の真相を知るのはもう少し後の話である。