(17)『ルーナの異変』
「昨夜、話した……霧の森のこと、を……覚えて、ますかっ……?」
久遠の問いに俺、ヘカテー、ヴィルアリアがそれぞれ頷くと、久遠は少しだけほっとしたように姿勢を正す。ルーナも話を聞いていたはずだが、早々に久遠の死角に当たる部屋の隅でやや精神年齢の近い稲荷と遊んでいたから、数えられなかったのだろう。
「ちょっと待って。ネーベルヴァルトって、あの“奇跡の森”?」
「ぅひゃいっ」
今朝会ったばかりの――つまり昨日は居なかった紙縒が口を挟んだ途端、久遠が過剰反応でビクつき、一瞬腰が浮いた。
「――さすがにこれだけ似てる相手にこんな反応されると、精神的にクるモノがあるわね……」
紙縒はこめかみを押さえるように俯き、何事かぶつぶつ呟いている。
船で一通りの自己紹介は済ませている(らしい)が、今日どころかつい数時間前に出会ったばかりでろくに話したわけでもない紙縒に怯むのはわかるけど、久遠のあの怖がりようは何なんだろうな。
「え、えっとっ……よ、よくっ、ごぞ、存知でっ……で、すねっ……」
いつもより多く文章崩壊してます。
「少しは落ち着きなさいよ……」
「あぅっ、うぇぅっ……すー……ッ、こほっ、こほけほッ……!」
深呼吸でもしようとしたのか、顔を真っ赤にしたまま息を大きく吸った久遠は突然前のめりに踞って咳き込む。
ホントに大丈夫か、この子。
「その霧の森、は……黄泉烏、様と……いう方、が……管理をして、てっ」
「黄泉烏……?」
久遠の辿々しい声に耳を傾けていたヴィルアリアが、聞き覚えのない言葉に(可愛く)首を傾げた。
「遥か昔、から……生きて、きた……渡り鴉、の……怪異様、ですっ……」
久遠がそう言うと、似たような仕草で天井を見上げていた紙縒がポンと手を打つ。
「“渡世の詠者”ね。前に文献で読んだことがあるわ」
「紙縒さん、知ってるんですか!?」
ヘカテーが驚きの声を上げるが、無理もない。こと学問で負け知らずのヴィルアリアですら知らず、長く生きているヘカテーも首を傾げている。
「確か“人でありながら本質は異形で、あの世とこの世をわたる存在”……だったかな。あ、あと“神杖の管理者”に“比翼連理の黒鴉”。色々呼び名はあるけど、アプリコットやチェリー、ヘカテーよりも、ずっと外れた存在のはずだね。憶えてるのはそれぐらいだけど」
「紙縒って何者……?」
人知れず呟く。
話に付いていけていないのは、数えられるだけで四人――――ヘカテー、ヴィルアリア、康平。そして他でもない俺自身だった。付いてくる気のないルーナと稲荷は勿論放置で。
というかむしろ紙縒と久遠の二人だけで納得し合ってる。
ヘカテーに初めて旧き理を背負う者について教えられた時のことを思い出させるような光景だが、あの時は鬼塚とリィラだけ。理解できそうなのが自分だけだったから仕方なくだったが、今回は何しろ人数は多い。
詳しいことはまったくわからないが、船上でヘカテーと一騒動あったらしいヴィルアリアも、当たり前のようにその話に参加しているし、理解力や知識なら俺は二人よりも圧倒的に下なのだ。
無論、康平はわからないが。
――というわけで紙縒に後で説明してもらおうと妥協した。
「その神杖とは何ですか? 聞いたことない名前ですけど……」
「もっとわかりやすく言えば『奇跡杖』。奇跡を司る能力を持った杖ね。もっと正確に言うなら、『存在する可能未来を使用者の望みに基づいて確率変動させて確定させる、あるいはひとつの可能性を除いて他を起こらなくする』チカラがあるってことだけど、たぶん細かいことは理解できないと思うから『自分の望んだことが実現する』くらいで考えておけば、だいたい合ってると思うわ、そうでしょ? 久遠……さん?」
「あ、え……あぅ……」
しばらくもごもごと口ごもっていた久遠は、紙縒がどうやらほとんどの事情を知っているらしいということを理解したのか、おそるおそるという様子でコクリと黙って頷いた。
「細か、い……事情を、省く、と……、その神杖は、今……その、シャル、シャルロット……と、いう……旧き理を背負う者が、持ってる……と、黄泉烏様が……それ、で……探しっ……来ました」
「ちょっと待った」
思わず制止をかける。
するとまた、びっくぅ! と飛び上がった久遠はあたふたと慌てながら姿勢を正し、「なっ、な、なんなっなんなですかっ!」と
「……何ですか? アルヴァレイさん」
「シャルルは今、黒き森にいるのか?」
「わかりません……。黄泉烏様が、知って……いる手がかりは、そのシャルロット、さんが……黒き森、に……関係が、ある……ということ、だけで……。だからとりあえず、その……黒き森に、行ってっ……みない、ことには……」
俺とシャルルとの関係を知らない久遠は、何かを感じ取ったのか急に声がか細くなっていく。そして、見るとその視線は段々と下がっていき、遂に膝の上に乗せた手を見つめながら「すみません……」と小さな声で呟いた。
何故謝る。
「となると、今日はとりあえず黒き森で決定か」
個人的には特に反対する意見もない上、一刻も早くこの家を離れたかった俺が結論を急いで立ち上がると、それに気付いたのかヘカテーとヴィルアリアの視線がちくちくと刺さる。
しかし、すぐに二人の視線は久遠に移り、互いに顔を見合わせた。
「そうですね。久遠さんの方が逼迫してそうですし。元々私たちがこっちに来た理由は、ルシフェルを探すためですから、もしかしたら黒き森にいるかもしれませんし」
ヘカテーが立ち上がると、ヴィルアリアも続いて立ち上がった。
「お兄ちゃんってたまに仕切るよね。…………普段の発言力がアレだから?」
「アリアさん、囁くような調子でナニ普通に聞こえる声量で言ってんですか!?」
「……もしかして皆に聞こえてた?」
「地味に傷つくからもう棒読み禁止っ」
昔はこんな子じゃなかったのにっ! …………多分。
そして予想外にも、次に立ち上がったのは紙縒だった。
「私も当然行くわよ」
「えっ、紙縒、さっきはこっちを色々見て回るって……」
「さっきはさっき、今は今でしょ。よくわかんないけど、少しマズいことになってそうじゃない。ほら、私の仕事のことはもう話したでしょ」
「で、でもそのシュヴァルツヴァルトって確かここから遠いんじゃ……」
足をさすりつつ、不安げにそう言う康平。
「ルーナがいるから数人……三人は何とかなるかな。後は歩いていくことになりそうだけど。ちなみに一年前の俺が全力で走って夕暮れから夜遅くまでかかるくらいだな」
「僕なら明日の朝までかかるよ、それ!」
今の(三時間半全力疾走後の)俺なら、明朝まではさすがにかからなくても夕方頃にはなりそうだ。
「文句言ってる暇があったら走りなさいよ」
「今からッ!?」
「何言ってんのよ。今から行くんでしょ。もうすぐお昼になるんだし」
「じゃ、じゃあ、せめてお昼食べてからでも……」
「文句言わない。さ、行きましょ」
気が付くと完全に主導権を紙縒に取られていた。
いや、今となっても女性陣には勝てる気がしないから別に構わないと言えば構わないんだが、「そ、そんな……」と崩れ落ちる康平には同情しそうになる。
が、しない。
何故なら、康平は間違いなくルーナに乗って比較的楽に向かうことになるだろうからだ。他に乗るのは、ヴィルアリアと久遠(+稲荷)で確定だろう。荷物はここに置いていけばいいにしても、ルーナの背に俺まで乗れるような余裕はない。
紙縒、ヘカテーと部屋を出て行き始めると、運悪くなのかちょうどなのかお茶の用意をしてきた母さんと鉢合わせたらしく、母さんの残念そうな声とヘカテーの謝る声が聞こえてくる。
そして康平も絶望的な表情で出て行ってふと気が付くと、最後まで何故か残っていたルーナが入り口に立ち塞がるようにして振り返る。
「どうかしたのか?」
「その……」
妙にもじもじと指を絡ませながら躊躇いがちに目を伏せるルーナの表情は、何か言いたげながらも真っ赤に染まっている。
何だ……? こんなルーナ、見るの初めてだな――――なんて思いつつ、ごにょごにょと小さくて聞こえないその声を聞き取るべくルーナに一歩歩み寄ると、ぴくっとその肩が跳ねた。
相手が動物とはいえ、傍目には普通の女の子のように見えるルーナの震えるようなその反応に、思わず手控える。今が出かける直前だったからか、頭から修道女のように被っているフードが耳を隠していて、意識的に普通の女の子として扱う癖が付いていたからだろう。
「えっと……?」
俺がそれ以上近付かないようにしつつフードの下で目を伏せるルーナの顔を覗き込むと、ぼぼっと顔を真っ赤にしたルーナが顔を逸らし、またごにょごにょと小さな声で呟く。
「どうしたんだ、急に……。声が小さくてよく聞こえないぞ?」
「あぇ……ぅあぅ……わ、私と……その……」
まさか人見知り同士で久遠の口調が移ったのか! とも思ったがそんな感染は聞いたことがない。勿論、前から言っている通り俺は医学の知識については血筋を感じさせないほど薄学だし、常識的に考えて喋り方は感染しない。一時的に伝染はするかもしれないが。
「アルヴァレイさんっ……!」
「えっ、は、はい、何ですかっ!?」
突然、ルーナが思い切ったように声を張り上げた途端、その畏まったような態度に思わず背筋が伸び、ルーナに対して何故か丁寧な言葉で返事をしてしまう。
そして、あたふたと視線を泳がせたルーナはぴたっと俺と目が合った瞬間に停止して、
「わ、私と……」
口をパクパクとさせたルーナは次の瞬間、信じられない一言を放った。
「わた、私と……こ、交尾っ、して下さい!」
「…………………………は?」
コービ、後尾……いや、これは後備……。
完全に思考が停止からの混乱を経て、正常じゃない状態に陥りかけ、俺は一拍呼吸の間を置くと徐にルーナの額に手を伸ばす。多分熱があるのだろう、と現実逃避気味に思考した結果だったのだが、その途端に少し頬を膨れさせたルーナに手を払い除けられた。
「ダメ……ですか?」
「いや、ダメとかそういうんじゃなくて、え……?」
我ながら語彙が少ないと猛省を余儀なくされる。
「今からじゃなくてもいいです……。その……後ででも……私と……。もう、が、我慢できなくて……。それでは、そ、そういうことでしたっ……!」
いや、どういうことでした!? と俺がツッコミを入れるよりも早く、ルーナは真っ赤に染まった顔をフードで隠して部屋を飛び出し、ドタドタと大きな音を立てながら階下に降りていった。
「な、何あれ……?」
一人残された俺は、理解が追いつかない頭を一度振って白紙に戻しつつ、ルーナの言葉を再び脳内で反復――反芻する。
『わた、私と……こ、交尾っ、して下さい!』
『もう、が、我慢できなくて……』
顔を真っ赤にして、大胆すぎる事を言ったルーナの姿が頭にちらつく。
「交尾……ってつまり、ア、アレ……だよな……」
俺が考え得るアレとやらに思考が埋め尽くされた時、突然廊下からひょこっとヘカテーが顔を出し、俺は思わず心臓が跳ねるような感覚で飛び退く。
「アルヴァレイさん、な、何してるんですか……?」
「あ、いや……何でもない」
何とか平常を装ってヘカテーにそう返すと、チラッと視線を泳がせ、
「皆さん、待ってますよ?」
「あぁ、武器だけ出したらすぐ行くから」
「わかりました♪」
ヘカテーはにこりと微笑むと、すぐに踵を返して階段を降りていった。