(15)『術式談議』
「アルヴァレイさんったら……」
追走を朴龍に任せたヘカテーが序でに所用を済ませて部屋に戻ってくると、壊れた木製扉をヴィルアリアが外側で支えながら待っていた。
「あ、ヘカテーさん、おかえりなさい」
「ごめんなさい、アリアちゃん。ここ任せちゃってて。今、魔法で直すから……」
「こちらこそお兄ちゃんがあんなこと……。身内として謝りますっ」
非力なためか両手でないと木製扉を支えていられないようで、少し迷ったような素振りを見せたヴィルアリアは「ごめんなさい」と頭だけを下げる。
(さすがにこの流れで『アルヴァレイさんのあれは日常茶飯事なので慣れてますよ』とは言えないかな……)
ヘカテーは「あはは……」と困ったように笑う程度に収めると、ヴィルアリアの支える木製扉に歩み寄った。
そして、空いている左手を扉に宛がって「放してもいいですよ」とヴィルアリアを扉の傍から下がらせる。
「ところでヘカテーさん、それどうしたんですか?」
ヴィルアリアがヘカテーが右手に持っていた戦棍を指差して訊ねた。
「落とし物を拾ってきたんですよ」
ふふ、と上品に笑うヘカテー。
ついさっき紙縒が海中に落としてしまったものを、耽溺の蔓に引き上げさせておいたものだ。
持ち上げようとしてみると、ただの人類の限界を軽く凌駕する力を持つヘカテーですら何故か持ち上げられないほどの異常な重さだったため、今は重力魔法を応用してメイスに掛かる重力を0にしてある。
つまり、メイスの重さをなくしてある、ということだ。
少しはぐらかすようなヘカテーの言葉に首を傾げたヴィルアリアだが、ヘカテーが扉に向き直ると、もう一歩後ずさった。
「あるものには無情にも滅びをもたらし、またあるものには無涯にも癒しをもたらす大いなる時の流れよ。今、この時、我が無辜なる願いに応え、このものの安寧の時を暫し永らえさせよっ。“一時の帰途問ひ”!」
目を閉じてそう唱えたヘカテーの足元に、扉を透過して広がる魔法陣が現れた。
そしてその魔法陣が一瞬明滅すると、床に落ちていた錆びた蝶番の残骸がスッと浮き上がり、まるで時間を巻き戻すように再び組み合わさって扉が直っていく。それどころか汚れて黒ずんでいた部分が瞬く間に鮮やかな木目模様を取り戻して、竣工当時の姿まで遡ってしまった。
魔法陣から発せられていた光が収まると、ヘカテーは閉じていた瞼を開く。
「何だか扉だけ新品になっちゃったみたいで、変な感じですね……?」
そして明らかに船内の他の場所と色が違う扉を見て、そんな感想を漏らした。
「す、すごいです、ヘカテーさん……。こんな凄い魔法が使えるなんて……! ……あれ? でも、それって確か古代魔法……?」
(やってしまいました~!?)
迂闊な自分を思わず責める。
これまで少し行動を共にしてきた結果として、並外れた身体能力や今は失ってしまったが読心能力、そして金の鎖等隠しきれない部分は誤魔化してあるもののヴィルアリアはヘカテーが特殊な存在であることは説明してある。しかし、具体的にはどのような存在であるのか――つまり旧理やルシフェル等のことまで詳しくは知らないのだ。
ヴィルアリアの認識では、ヘカテーは“自分と同じように一つの特殊な才能に恵まれた同世代の女の子”でしかないのだ。
同世代である以上、一般的な常識である“現代人には古代魔法を使うことはできない”という法則から外れてはならない。
幸い今までヘカテーがヴィルアリアの前で使ってきたいくつかの魔法は現代には伝わっていない古代魔法であり、“古い隠れ里で育った”という設定のヘカテーがそれらを使うことは何ら問題ではなかった。ヴィルアリアにとってそれらの魔法は、“私が知らないだけで少し特殊な法則で動いている隠れ里の秘術”という認識だったからだ。
実際、アイリスという異形の竜に深い森の奥で育てられているため、強ち間違いでもないのだが、今はそれは置いておくとして。
しかし、ヘカテーが今使用した魔法は古代史の教科書にも載っているくらい有名な古代上位魔法。専門外とはいえ優等生のヴィルアリアが覚えていないはずもない。
ヘカテーがどう誤魔化そうか考えを巡らせていると、直したばかりの扉が内側からギィィと開いた。
「あ、服ありがと。助かったわ」
着替えもすっかり済んだ紙縒だ。
動きやすいような洋裁構成にしつつもお洒落な装飾をあしらったその服は、所々の装飾部分に半分隠された金の鎖を固定するための輪が示す通り、ヘカテーの予備の服の一着だ。ちなみにヘカテーの手製である。
「いえいえ。あ、それと紙縒さん、これお返しします」
ヘカテーは咄嗟に右手に提げていた戦棍を両手で捧げ持つようにして差し出す。
「わざわざ取ってきてくれたの!?」
「“耽溺の蔓”の回収序でに、さっき引き上げさせておいたものを拾ってきたんです」
「ありがとっ。ごめんね、重かったでしょ。何せこれ980キロあるか――――軽っ!?」
「980キロ!?」
現時点では重さを持たないメイスを受け取った紙縒が軽さに驚いたような声を上げ、ヴィルアリアが980というその驚異的な重さに驚いたような声を上げた。そしてメイスに落ちていた視線がすーっとヘカテーの手を経由して腕に向けられる。
当然、紙縒はメイスが軽い理由、ヴィルアリアは重いメイスを軽々支えられていた理由、とそれぞれ理由は違うものの。
「あ、ごめんなさい。さすがに持ち上げられなかったので、ちょっと重力魔法で重さを無くしていたんです」
「あぁ、そういうことね」
紙縒は納得した様子だったが、ヴィルアリアはさらに驚きで声にならない、というように口元をあわあわと震わせる。
「今、解除しますね」
ヘカテーが指した指先に小さな魔法陣が瞬き、メイスに重力が――重さが戻る。
「紙縒さんはどうして持てるんですか?」
「私のも魔法だよ。元々このメイス――鋼の枢機卿に付いてる“騎士任命権”っていう術式のおかげ」
ヴィルアリアの異変にも気づかず、ヘカテーと紙縒の術式談議は続く。
「そうだ、ヘカテーとアリア、何か文字書けるもの持ってない?」
「書けるもの、ですか……? ごめんなさい、今は何も……」
「やっぱりこの世界じゃあんまり携帯しないのかなぁ……」
「え?」
「あ、ううん。何でもない」
誤魔化すように胸の前で手を振った紙縒はため息を一つ吐き、懐から一度濡れてグシャグシャになってしまった紙の束を取り出す。
「それは?」
「式紙。私専用の魔法陣みたいなものかな」
「珍しい……いえ、変わってますね」
紙縒は貼りついていた中から破らないように一枚抜き、手の上に乗せる。
『不変』という文字が描かれた式紙だ。本来なら24時間の間貼り付けたものの状態変化を停滞させる効果を持つ術式なのだが、
「『不変式』式動」
不変。
変化はまったくなく、紙縒はため息を吐く。
さらにもう一枚、今度は『炎式』と書かれた式紙を取り出す。
「『炎式』式動」
ボッと紙に火が着く。否、実際には紙が燃えているわけではなく、紙の周囲から炎が出ているだけ、ということにヘカテーが気付いた瞬間に式紙は燃え尽きた。
「予定では3分ぐらい保つはずなのに……」
紙縒がまた溜め息を吐く。
「『不動式』式動、ハイ、まさに不動。『霊式』式動。うん、霊じゃなくて零だね。動く様子が。『略式』式動。ハイ、以下略」
次々と式紙を試していた紙縒が脱力したように崩れ落ちた。
「と、とりあえず部屋に入ってましょう。せっかく扉も直ったことですし……」
ヘカテーがそう言うと、急に「そうですね」と呟いたヴィルアリアが後ろからヘカテーの肩にポンと手を置いた。その声色の変化に気付いたヘカテーは嫌な予感を覚えつつも、おそるおそる背後を振り返り――――見た。口元に笑みを湛え、しかし目はまったく笑っていないヴィルアリアの姿を。
「ど、どうかしましたか……?」
「ヘカテーさん、重力魔法は古代最上位魔法ですよ?」
「あ……」
ヘカテーの頬が引き攣る。
「説明、してくれますか?」
あの時のアリアちゃんは『否が応でも』という感じでした、と後のヘカテーは語る。