(7)『久遠、頑張る』
「はぁ……」
ヴァニパル共和国首都ヴァニパル港湾地区第一埠頭。
人気のないその場所に悩ましげなため息がひとつ漏れ、夜闇と波の音に溶け込むようにいつのまにやら消えてゆく。
そのため息の主――火喰鳥久遠は、海に面した港の端に設けられた物見台の上に座り込み、夜の海が奏でる無数の波音に聞き入っていた。森で生まれ森でずっと暮らしてきた久遠は、海を実際に見るのは初めてである。
その感動は、疲れ切って身体が重いことすら忘れてしまうほどだった。
しかし疲れというのは他でもない。彼女は、渡り鴉の怪異で火喰鳥の後見人である黄泉烏と別れた後、幼いとはいえ7つになる義弟――稲荷を抱きかかえたままほぼ飛び続けていたのだ。
既に体力は限界。
疲れを忘れたとはいっても、身体中にじわじわと広がる痛みまでは忘れることもできなかった。
他者から隔絶された隠れ里の中ですら引き篭もりに近い隠遁生活を送っていた久遠にとって、これまでの行程だけでも既に奇跡に近い偉業に思えているほどの運動不足である。
実際はそんなことはなく、悠久の寿命を持つ人外の端くれとして人類を軽く凌駕する身体能力を持っている彼女ならこの程度のことが出来るのは当然なのだが、どちらかと言えば彼女の問題は身体的なことではなく、身内とすらまともな関わりを持てない脆弱な精神力の方だった。
事実、この行程の中、何度も心が折れそうになっているのだ。
その度に幼い稲荷のことを思って自分を奮い立たせる辺り、姉としての矜持を示したとも言えるが、人として、人外としてダメな部類に入る存在であることは久遠本人も自覚していた。
今は隣で大人しくしている稲荷が迷子になってしまったら、探し出すほどの気力が残っている自信は久遠には微塵もなかった。いざその時になったら、きっと見つかるまで探し続けるのだろうが、それを何となく察していて、遊びたい盛りの好奇心を頑張って抑えている稲荷自身の成果とも言えるだろう。
ぐぅうううう……。
稲荷のお腹から、間の抜けた音が鳴る。
殆ど身体を動かしていないように見えても、いつのまにか空腹を訴えてくるのが子供である。
「久遠おねえちゃん、おなかすいた……」
道中で口にしたものと言えば、奇妙な味のする小振りな果実3つを久遠が1つ、稲荷が2つ。口には出さずとも、久遠の方も空腹なことには変わりないのだ。
しかし、幼い稲荷の方に我慢しろというのも酷な話だった。
「え、っと……ちょっと、だけ……これで、我慢……してて、ね……」
久遠が人差し指を立てると、稲荷が少しだけ目を輝かせた。
「火の魂、燐……」
久遠の指先に小さな魔法陣が瞬き、続けて小さな火が点る。
魔力を消費して生み出した魔力炎――――普段は人と同じ物を食べる火喰鳥だが、火喰鳥の名を持つとは言え、稲荷の本質は妖炎・狐火。火を食べて、その空腹を満たすことができる。
無論、体内の魔力を使った久遠の方はその分、空腹感も増すわけだが。
自分の指から吸うように火を食べる稲荷を見ながら、久遠は誰でもいいからこの頑張りを褒めて欲しいとさえ思っていた。そして、褒めてくれる彼女の姉たちがもういないことも思い出してしまう。
「みんな……」
顔を埋めた膝が、少し生温かい液体で濡れていく。しかしそれは、久遠の求めていた温もりとはあまりにもかけ離れたものだった。
しかし、どんなに涙を流しても、空腹が収まるわけでもない。
稲荷が火に夢中になっている間に隠すように着物の袖で涙を拭うと、久遠は再び顔を上げた。
(私には守らなきゃいけない弟がいるんだから……)
久遠がぼんやりと空を見つめていると、ふと不安そうな表情で自分を見上げる稲荷に気付く。
「まだ……食べたい……?」
一瞬、久遠の脳裏に不安が過ぎる。
自分はこの子に不安を与えていないか、ちゃんと笑えているか。この境遇では、姉として当然の不安。その不安を払拭してくれるように、稲荷はにこりと笑ってくれた。
「ううん、だいじょうぶ」
その言葉が本当なのかどうか、その時の久遠には判断できなかったが、実際にお腹が満たされてひとまず満足したのか、稲荷は久遠と物見台の柵にもたれかかるようにして眠り始めた。
「火の魂、陽炎……」
久遠がそう呟くとその真下に魔法陣が広がり、術者である久遠の身体を覆うようにぼんやりとした明かりが点った。
「少し待っててね、稲荷くん……」
あるかなきかに見えるもの――陽炎から身を引くように立ち上がると、稲荷を支えるように久遠の形をした朧げな光がその場に残る。
直前までの久遠の姿を、しばらくの間肩代わりする術式だった。
足音を殺して物見台から降りた久遠は、さらに物見台全体に防護結界術式『火の魂、不知火』をかけて、日が沈んで幾時も経っているのに賑やかな明かりに彩られている、街の中心の方に向かって歩き出した。
人里でもなければ、夜は魔の存在たちの活発な時間。当然、黒き森の近くにあるという貿易都市テオドールまでの船は出ていない。
明日の朝まで待つにしても、今夜中に食べ物だけでも調達しておかないと、早い内に破綻が来る。
世間ずれという言葉ではいささか弱く、極端な世間知らずと言うべき久遠でも、店に並ぶ食べ物が勝手に持っていっていいものではないことはわかる。
一律化した代替物で共通の価値指標を定め、その交換を中継して物々交換を行う。
久遠も人が使うお金というものの概念はわかっていたけれど、火喰鳥の里ではお金を使わないし、周囲の人里で何かを買う必要が出た場合も長姉の秧鶏か次姉の伊凪の役目だった。
そもそも世俗に触れること自体なかった久遠に、価値の代替物である貨幣を得る方法など知る由もない。
「どうしよう……」
つまり、久遠は困っていた。
狭い路地を通り抜け、街の中心を港から外部通用門まで突き抜ける大通りに差し掛かった途端、久遠はついいつもの癖で人を避け、元の路地にしゃがみこんでしまう。
幅8メートルほどの道路の両端には商店が軒を連ね、中心には露店が一直線に並んでいた。そして何より、久遠が今までに見たこともないほどの数の人で賑わっていた。
他者が苦手な久遠が出ていくには、非常に厳しい空間がそこにあった。
ついに久遠は頭を抱え、食べる物の調達と苦手意識を天秤にかけて悩み始めてしまう。ちょうどその時だった。
「そんなとこで踞って、具合でも悪いのか、嬢ちゃん」
びっくぅぅっ……!
背後の至近距離から突然かけられた人の声に、久遠の心臓が飛び跳ねた。そして飛び退いた拍子に尻餅をついてしまい、後退った途端に商店の石壁に肩を強く打ってしまう。
「おいおい、そんなに驚くこたぁねえだろ。俺は嬢ちゃんが大丈夫か聞いただけさ」
久遠の後ろには、船乗りらしき格好の男が取っての付いた手の平大の酒樽を片手に立っていた。
慌てて退散しようにも、狭い通路の両側は大通りと軽く酔っているらしいその男とで塞がれてしまっている。飛んで逃げることもできただろうが、尻餅の状態から立ち上がり、翼を広げて飛び上がるまでに、男を含めて何人に見られるかわかったものではないと久遠は咄嗟に自制した。
それ以前に、久遠は驚き過ぎで腰を抜かしていたと言うのもあったのだが。
男は尻餅をついたまま硬直している久遠に目の高さを合わせるようにしゃがみ、しげしげと物珍しげな視線を久遠に向ける。
「珍しい格好だな。嬢ちゃん、他所者か」
男はそう言うと、手にしていた小さな酒樽の中身を一息に煽り、空になった器を路傍に放り捨てる。
「嬢ちゃん、何処から来た? こんなところで何してる? 迷子か? ……そんな警戒すんなって。何もしやしねえよ」
久遠からすれば警戒しているわけではなく、矢継ぎ早に投げ掛けられる質問と人と対面して話しかけられていることで頭の中がいっぱいいっぱいになっているだけなのだが、男は反応を見せない久遠の顔の前で手を振ったりして、怪訝な顔をする。
「あ、あのっ……」
「おっ、やっと応えてくれたか」
久遠が一言声を発すると、男は歯を見せて笑って手を差し出してきた。
久遠がおっかなびっくりその手に指を近づけると、男は痺れを切らしたのか久遠の手首を掴んでやや乱暴に立たせる。
「何だ? 腰抜けてんのか」
男の支えがありながらぎりぎり立ち姿勢を保っている様子の久遠に、男は立たせるのを諦めたのか傍にあった空き木箱まで久遠の手を引き、そこに座らせる。
「あ、ありっ――」
「で、あんなトコで踞って何してた?」
やっとのことで口に出そうとしたお礼の言葉も運悪く出鼻を挫かれ、久遠はさらに萎縮する。
しかし男が「何なんだ、コイツは」という顔をしているのに気付き、久遠が真っ赤な顔で「あ」やら「うぇ」やら「え」なんて言葉にすらなっていない音を連発しながらも声を絞り出すと、
「要するに腹が減ってるのに金がねえから何も買えねえ、っつーわけか」
どうにかこうにかそれだけのことを伝えられたようで、5分間しかめっ面で久遠と対峙していた男はそう言った。
「んだよ、盗まれたか?」
久遠は首を横に振る。そしてまた3分ほどかかって、男に「どうすればお金が得られるかわからない」ということを伝えた。
「おいおい、何処の箱入りだよ。何だ、お前。貴族令嬢ってヤツかぁ?」
久遠は首を横に振る。
「……んじゃあ、相当なトコから来た田舎者ってとこか」
男は訝しげな目で久遠の全身を眺め回し、最後に再び顔を突き合わせた。
そして口元をにやりと歪めた。
「何なら俺が一食二食ぐらいの金は出してやってもいいぜ」
「ほん、と……ですかっ……?」
「あぁ、嬢ちゃんに嘘は吐かねえ。ただしひとつ条件があるぜ」
「条、件……?」
「ついてきな」
男が手招きをして路地の奥の方を指差すと、久遠は立てるかどうかを慎重に確かめつつ、先に立って路地の奥へとゆっくり歩いていく男に何の疑いもなくついていく。
世間知らずの無垢故に――。
その時、ちょうど大通りを歩いていた群衆の中の1人が、薄暗い路地の奥へと消えていく2人の人影の後ろ姿を一瞬だけ視界に捉えて立ち止まった。
「……?」
路地の切れ目が見える位置から振り返り、誰もいないのを見て微かに首を傾げると、再び大通りを歩き始めた――。
が、すぐに眉を顰め、2人の人影の後を追って、薄暗い路地に迷いなく足を踏み入れた。