(4)『悪霊と魔女』
「――と、どうせ今頃そんな無駄に暑苦しい論理で、甘過ぎて甘っ怠いことを考えてるんだろうなぁ。あの能天気な馬鹿どもは」
私――――“ティーアの悪霊”ことルシフェル=スティルロッテは、冷たい空気に素肌を晒しながら1人呟いた。
「ホント、あんな所にいたら頭が腐って、発酵しちゃいそうだった。甘々に」
場所は黒き森の中央にそびえ立つ霊峰ハクアクロア。
人気のないその場所で衣服を全て脱ぎ捨て、極めて自分好みの殺伐と張り詰めた空気を全身に感じながらゾクゾクと沸き上がる感情に心躍らせていた。
この森で一年とちょっと前に起こった、殺意と害意の大惨事。ついさっき、そんな森の記憶を一通り見て回ってきたばかりで、私は気分が高揚していた。
シャルル――シャルロット=D=グラーフアイゼン。
黒き殺戮の闇、究極の破壊衝動の体現者、害為すことによってのみその存在を自覚できる破滅的な人格者。
私好みに――――アイツ好みに壊れている。壊れもするだろう。生きているだけで繋がりも柵も崩壊させていく凋落の運命にある、それを自覚させられているのだから。
「そんな化け物が選んだ場所、黒き森。悪魔の山ほどじゃないけど、なかなか良い所だね~、アハッ♪」
視界の右端にシャルルの住んでいた森の開けた小高い場所“星見の丘”、前方奥の森のはるか向こうにテオドール、さらにその向こうにパクス海が見え、さらに向こうにはあの『能天気な馬鹿ども』が今もいるだろうミッテ大陸がうっすらとぼやけて見える。
「今度はここにしようかなぁ。邪魔なヘカテーもいなくなったことだし」
アルヴァレイ=クリスティアース。
あの男がヘカテーの前に現れてから、ヘカテーはおかしくなった。
私好みに壊れていて、私好みに腐っていて、私好みに狂っている。優しく、緩やかに曲がっている。そんな私以上の危険人物だったヘカテーが、たかが人程度に気を許し、接する度に角が取れて丸くなってゆく。
あの男はその程度で調子に乗って、私にまで何の警戒もなしに近づいてくる。
調子が狂う。既に気が狂いそうだった。挙げ句の果てに身体を分けられて、ヘカテーは人になり、私はさらに人から離れる。
「あのヘカテーが、今さらただの神族になるなんて……」
何もかもあの男に出会った時から狂い始めた。ただの人にしか見えないのに、ヘカテーはあの男に傾倒していった。
それこそ違和感すら覚えるくらいに。
そして、私自身も――――。
「……だから……逃げたのかもね……」
ヘカテーが大好きだから。
友達として、家族として、自分を必要としてくれたヘカテーが大好きだったから。
邪魔だ――――なんて、心にもないことを言っただけで心が痛む。
あぁ、ずたずたに引き裂きたい。自分で自分を殺してやりたい。アルヴァレイ=クリスティアースを殺せば、壊れたヘカテーも狂った私も元通りになるだろう。
そんなことはわかっているのに、あの男を殺す気が起きなかった。
ヘカテーの迷惑になるようなことはしたくないから、あの男を殺す気になれないから、私にはあの温い環境から距離を置くことしかできなかった。
「やっぱり気に入らない……あの女……」
ガダリア=ロード=ブラズ。
あの女はヘカテーと私を分けたのではなく、ヘカテーから私を切り捨てたのだ。2人の間に刻まれていた契約を勝手に破棄させ、書き換えた。短時間で、簡単に。
何がしたかったかもわからないし、理解しようとも思わない。
「あんな力は人外でもありえないはず……、何だ、あの女……」
考えても答えの出ない問いを延々と考えても、そもそも前提として答えは出ないのだから。そんなことをいつまでも続けるほど、私は愚かじゃない。
私は全てを切り替えるため、すぐに考えるのをやめて再び眼下の森を見下ろした。
「……?」
違和感。
不和感。
さっきまでは感じなかった気配。
どこかで感じたような、知っているような気配を感じた。内に意識を向けるまでもなく、ルシフェルは自分の中から目当ての人格を表に引きずり出す。
「……ってなわけでアリスですが、何か文句がありますか? って他には誰もいないんかい! ってあれ? ここはどこ?」
アンタは一度来てるんでしょ……。黒き森よ、理解を越えた珍獣アリス。
「あ、御姉さまですか。えっと、名前なんでしたっけ。すいません、アリス……シンシア姉さまとエヴァ姉さまとティアラ姉さまとミーナ姉さまとヘカテーお姉さまとシャルルしか名前を覚えてないので」
アンタ作ったの誰だったかぐらい覚えとかないと、何処かの誰かにただの暇潰しで潰されるかもしれないね?
「ちょっと待ってください。思いだしました! ルーシー大姉さま!」
ルシフェルよ。覚悟はいいよね、アリス。遺書ぐらい書かせてあげてもいいけど……まあいいよね。
「私の大切な意思表示の機会を簡単に流さないでください、ルシフェル大姉さま! すいません、謝りますからお許しください! ってなんか面白おかしく元気なさげですか? ルシフェル大姉さま。いつもなら語尾跳ね跳ねで気味悪怖いぐらい楽しそうなのに」
いい加減消し飛ばしてやりたくもなるけど、用事が済むまでは保留にしてあげる。今の内に遺言でも考えておけば? 私は聞かないけど。
「怖いです、ルシフェル大姉さま! 語調に怒気が含まれておりますよ! ところで私はなぜここに?」
今さらそんなことを聞く?
……まぁ、いいわ。アンタのその“目”で森の中を見て、摂理を探しなさい。もしかしたら面白いことになるかもしれないから。
「森をです?」
思案顔になったアリスが目を閉じると、ルシフェルの見ていた視界が同時に消失する。
そして暗転した視界のまま、ゆっくりとぼんやりとした白光線が世界を形作り始める。光を基準にして見た世界とは間逆の、影を、闇を基準にして見た世界。まぶたはもう開いている、が、黒い闇に覆われた今の眼球を通して見た世界は、光こそが透過して闇こそがよく見える。
次の瞬間、微動だにせず呼吸すらしないアリスの目にかかる影が光を浴びた闇のように消えた。
よろけるアリス。しかし今回は、アリスの身体を支える者は誰もいない。
アリスは無防備なまま固い地面に頭や腕、膝を強く打って倒れた。
しかし、その瞬間にはルシフェルはアリスから身体の支配権を取り戻し、もとい奪い去っていた。
痛みと共に。
「っつー……この痛みは私が引き受けてあげるわ。それでどうだった?」
即座に身体をいじり、負った擦過傷を回復させる。
(旧き理を背負う者を確認できましたですっ!)
「それにしても……」
思わず口元が歪む。
意識が、『見下ろす』から『見下す』に変わる。その目は悪戯を考え付いた子供のように輝きを帯び、正確な旧き理を背負う者の気配を探していた。
「面白くなってきた♪」
ルシフェルはその身体を空中に投げ出した。そして――――落下。
崖すれすれの場所を重力に従って落ちてゆく。
「アハッ♪ フィーア!」
呼ぶべき人格を内から引っ張り出すと、その瞬間、赤から蒼銀に変わった髪が風になびく。
途端に空中で宙返りした私の――もといフィーアの背中がぐぐっと盛り上がり、弾けるように巨大な何かが広がった。
枯れた木の枝の表面に樹脂を塗ったように不気味に光る棒。それは、羽搏くこともなく揚力を生み出すそれはフィーアの翼――鳥のものでも、コウモリのものでもない異形の翼だ。
旧き理を背負う者がいる所まで飛んで、とフィーアに告げると、
「……………………はい」
虚ろな目。
表情には光も陰りもなく、人形を見ているような感覚を受ける。
赤と黒の不自然なオッドアイに、エヴァほど大きくもなくルシフェルほど小さくもない背丈。
背中に生えた無機質な翼。
しかし、妙な翼という特徴すら気にする暇を奪いとっていく圧倒的な異形。第十一人格『フィーア』の両腕は、ドラゴンの腕をそのままくっつけたようで、明らかに少女のモノとは不釣り合いな大きさ。それは均整のとれた身体や顔、両足と絶大な違和感を覚えさせるほどバランスが悪い。
瞬間的で爆発的な加速を果たしたフィーアは、後方で足場にした崖があっけなく崩れるほどの反動を生み、まるで弾丸のような速度で螺旋を描くように、森の上を行ったり来たりする。
「……………………いました」
目まぐるしい高速の中、フィーアはわずかな時間で方向転換し何の躊躇いもなく森の中に突っ込んだ。
超高速駆動による衝撃波で、必然的に巻き起こる破壊。
木々は風圧だけで薙ぎ倒され、衝撃で身体をズタズタにされた動物たちは即座に息絶え、フィーアはその着地だけで地面を大きく抉りとる。
「……………………確認」
土煙を暴風で吹き飛ばした後に、唯一残った人影。
フィーアにはそれが誰かわからないだろう。
やっぱりね♪
フィーアを押しのけて表に出たルシフェルは、高らかにその名前を呼ぶ。
「初めましてね♪ シャルロット=D=グラーフアイゼン!」
その人影――シャルルが息を呑む音が聞こえた。