(2)『黄泉烏の言いつけ』
「――おねえちゃん……久遠おねえちゃん、おきた?」
ぼんやりとした闇の中に光が差し、目が覚める。そしてうっすらと目を開くと、顔を覗き込んでくる幼い弟の顔が映った。
蒼白い透き通るような髪は女の子のように長く、稚ない顔立ちは人でないことを感じさせない。
火喰鳥稲荷、遜色なく人に見えるよう化けさせてはいるが、妖炎・狐火の子供。先代、火喰鳥終夜が集めた身寄りのなかった子の1人だ。
「おきて、おきて」
まだ起きてないと思ったのか着物の裾を引っ張られ、それがはだけそうになって
「起きて、るっ、から……」
慌てて飛び起き、着衣の乱れを整える。
そして唐突に、直前まで見ていた夢を――――平穏だった日々の夢を思い出し、同時に悪夢のような現実に引き戻される。
ドクン、ドクン、と心臓が高鳴り、きゅぅっと胸を締め付けられるような痛みを覚え、カタカタと身体が震え始める。
「だいじょうぶ? おねえちゃ――」
心配そう顔で顔を寄せてきた小さな身体をバッと抱き締め、もうひとつの現実を確かめるようにその頭を撫でる。
たくさん失ったけど、私にはまだ守らなきゃいけないものがある。お姉ちゃんだから、この子を守らなきゃいけない。
「おねえちゃん……?」
「ごめ、んね。稲荷くん……。お姉ちゃん……頑張、るから」
あの異形の男が突然屋敷に現れ火喰鳥を襲い始めた時、私は聖火姉さんに、稲荷くんは依凪姉さんに助けられた。
2人の命と引き換えに――――。
目の前で血を分けた実姉2人が丸呑みにされる光景に呆然としていた私は、次に自分にその殺意が向けられて初めて身体の硬直が解け、稲荷を連れて空へ逃げた。
高く、高く昇った。
そして上空からそれの全容を見た。
里全体に広がったどろどろとした黒い何かに、そこにあった全てが沈み込み呑み込まれていく光景を――――。
「行こう……稲荷、くん……」
稲荷くんを抱擁から解放すると、その手を引いて寝床にしていた大樹の木陰から朝の弱い日射しの下に出る。
「探さ、なきゃ……」
皆の仇を取る。
私の力じゃ皆を守れなかった。私1人の力じゃ誰1人守ることができなかった。
火喰鳥でも歯が立たなかった。
「久遠おねえちゃん。どこにいくの?」
「黄泉烏様、の……おっしゃってた人、探さなきゃ……だから……」
――――その人ならきっと、私たちを助けてくれる、と。
今から2日前――。
時間軸の上では火喰鳥の里が襲撃された翌日のことだ。
霧の森の端に隠れていた私と稲荷くんの元に、“あの世とこの世を渡る渡り鴉の怪異”黄泉烏様が現れた。
あのどろどろと接触したのか、傷付き血のような黒々とした液体を全身から流していたが、黄泉烏様は大丈夫だと言った。
「火喰鳥の娘、久遠。シャルロット=D=グラーフアイゼンという旧き理を背負う者を探し出せ。あの娘には貸しがある故、きっと助けてくれるであろう」
「貸し……で、すか……?」
「あの娘、こともあろうにこの妾から――否、妾が神杖を貸してやった娘よ」
「……あの、奇跡を……で、すか……?」
「色々とあったのさ」
“黒き流星”の姿を取っていた黄泉烏様はザザッと蟲が這い回るような音をさざめかせながら地上に――樹木の根元に降りた。
そして黒衣の礼装に身を包んだ壮齢の女性に姿形を変え、木の幹を背にして座り込むと、空を仰ぎながら息を吐いた。
「黄泉烏様……!」
ただでさえ白い肌は殊更に青ざめ、何処か窶れているような印象さえ覚えた。
「これしきのことでいちいち騒ぐでない、小娘。妾は死なぬわ。気にする暇があればもっとはっきりと喋れ。火喰鳥の誇りを心得よ」
厳かな声で黄泉烏様にそう叱責され、私は思わずびくっと身を竦めた。
「よみがらすさま。だいじょうぶ?」
稲荷くんが私の陰に隠れながら、黄泉烏に恐る恐るといった表情で問いかけた。
自分より圧倒して上位の存在の発する気に当てられているはずなのに、やっぱりこの子は人一倍優しい。
「お前は稲荷、だったかね。久遠が頼りない故、久遠のことを頼めるか」
「……うん」
そこはできれば否定して欲しい所だった。お姉ちゃんとしては複雑です。
「なれば早く逃げよ。黒き悪魔の森に飛び、あの旧き理を背負う者を探せ。この黄泉烏からの遣いと伝えればきっとわかるはず」
「シュヴァルツ、ヴァルト……って、何処、に……あるん、ですか……?」
「まったく、世間知らずにも程がある……。終夜も教育を怠ったか。稲荷、お前も知らないのかい?」
稲荷くんの方を見遣ると、稲荷くんはちらっと私の方を見て首を小さく縦に振った。そして私の着物の裾をぎゅっと握る。
「まずはヴァニパルに行くがいい。ヴァニパルならばわかるであろ」
ヴァニパル共和国。
時々薬がなくなる度に、依凪姉さんがヴァニパルへ出かけていたから、少しだけなら話を聞いたことがあるけれど、確かこの森から西南西に丸2日飛んだところにある国、だった覚えがある。
「ヴァニパルより北北西へまっすぐ海を渡ると、テオドールという国があり、そこまで行けば空から大きな森が見えるはず。そこが黒き悪魔の森である」
「でも、わ……私、人……が苦手、で……。自信、が……なくて……」
「何処まで駄目なんだい、お前は」
ぐさりと心臓以外の部分に何かが刺さった気がして、思わず胸を押さえる。
「黄泉烏様、は……来て、下さらないの……です、か……?」
「妾は旧き時代、ある者によってこの森に縛られた。それはお前もわかっているであろうに、久遠。あまりこの黄泉烏を困らせるな。ただでさえ火喰鳥の後見人など妾の双肩には重すぎると言うに。妾には願うことしかできぬのだから」
黄泉烏はふっと微笑むと、立ち上がる。
バキバキと何かが砕けるような音がしてその腕が変化してそこに黒い翼が現れ、黄泉烏の全身から黒々とした炎のような揺らめきが噴き出し始めた。
「――なればこそ、妾はこの世を憎んで生きてゆく」
チリーン……と透き通るような鈴の音を残し、黄泉烏は飛び上がった。
轟ッ!
直後、燃え上がるように現れた黒き流星は瞬く間に天へと駆け上ると、
「今は逃げるがよい、火喰鳥。神の末裔よ」
二重に重なったようなしわがれた静かな声を不自然なほどに響かせた。
そして黄泉烏は空を穿つように、空気を切り裂くように、大気を分かつように頭上を駆け、森の上空を再び屋敷の方に消えていった。
その後、私と稲荷くんは霧の森を出て、休み休みで2日間。
(少し遅れ気味だけど、今日にはヴァニパルに着く……。そこから海を越えて……)
これからの行程を反芻しつつ、私は稲荷くんを抱き上げながら背中の翼を広げた。