roter monat:CRIMSON CAGE
―――――どれくらい眠っていただろうか。
張り付いた瞼を何とか開けて周囲を確認しようとするけれど、夢の中と同様に視界は依然真っ暗だった。
見上げれば、今宵も鮮やかな緋色の月が、不気味な光を撒き散らしている。
俺はあの月が嫌いだ。毒々しいほどに充血した、生き物の様だから。
そして・・・見る度にあの忌々しい記憶が心を掻き乱す。
「・・・・・・・・・」
吹き荒ぶ風に躰は凍え、吐く息は白い。
幾枚も服を着込んではいるが、継ぎ接ぎだらけで所々に穴の開いたこの襤褸では、この寒空を到底耐えれそうにない。
俺は掛け布団代わりにしていた新聞紙を、丁寧に折り畳んで懐に閉まった。
そしてもう一度、妖しく浮かぶ紅い月――ローテル・モナを睨み上げた。
噴き上がってくる激しい憎悪に、拳を握りながら。
歩き慣れた街並みは、今や悲惨に荒んでいる。
昔の、活気に溢れた豊かな港町の見る影も無い。
家屋は損壊し、辛うじて原型を留めている壁や柱には焼け焦げた跡が残り、道路には砕けた硝子や潰された車の破片が飛び散っている。
歩いていると足元に黒い粉が舞うのは、渇いて敷石にこびり付いた血が擦られ、捲れるからだろう。
鼻の奥に血臭がじんわりと拡がり、喉の奥には胃液の味が蘇る。
「っ!!」
眩暈がして、吹き飛ばされた壁の残骸に俺は崩れ折れるようにして寄り掛かった。
途端胃液が現実に迫上がってきて、道路端に吐瀉物を撒き散らす。
呼吸が苦しい。激しく動悸がする。
「くそっ・・・ここんとこ、治まってたんだけどな・・・」
あの一件以来、幾度と繰り返されるこの発作には好い加減ウンザリする。
多分、急に穢れたこの空気に肺がまだ麻痺していないんだろう。
瞳も少なからず影響を受け、色彩が半分くすんで見えるようになった。
けど、そんな事はどうだっていい。
今は今日を生き延びるだけの食糧と、安全な寝床と、寒さを凌げる布の心配をしてればいい。
腹の足しにもならない自分のプライドなんて、今この時は必要無い。
・・・でも、絶対捨てない。
「・・・っ水瓶!・・・奇跡的に無事だ。・・・他のは・・全滅か」
瓦礫の下を覗き込んで、転がっていた瓶を発見した。
一本だけ上手い具合に隙間に入り込み、割れずに残っていた。
枯葉を巻き込んだ風は、渦を巻きながら傍を通っていく。
その度に転がっている骸がカタカタと音を立て、不気味な音楽が奏でられる。
どこへ行ったんだろう。
あの高かった蒼穹は。あの濃緑の森は。あの透った水流は。あの気高い鐘の音は。あの優しい小鳥の囀りは。
賑やかな声。騒がしい市場。溢れる笑顔。美しい景色。揺れる船影。
それが今は。
水瓶の王冠を中身を零さないように慎重に開けて、三日振りの潤いを堪能する。
折角汚れ掛けていた内臓が洗浄されていくようで、其の事を僅かに悔いている自分に大きく嗤笑する。
人間なんて、何事も強制されればその型に嵌るように形を変えていく。
それこそ、鈍色の粘土のように。
一息吐いて、不意に背後で何かが動くのを眼の端で捕らえた。
反射的に物陰に隠れて様子を伺うと、大きく皹の入った鏡が片隅に置いてあった。
覗き込んだ俺の顔が、幾つも鏡面に散らばる。
俺って‥‥こんな顔だったんだ。
右眼は腫れ、肌は垢と壌汚れで不衛生な色をしている。
前髪は鼻にまで掛かり、掻き集めて重ねた服は、随分とこの国の文化とは異趣な雰囲気を出している事だろう。
鏡の皹をそっとなぞり、そこへ拳をぶつけた。
破片が地面へと鋭い音を立てて落ちた。じわじわと染み出してくる血と痛みを、俺は放心したように見詰める。
「紅い・・・血・・・・」
ふと黯然とした空を仰ぐ。
血よりも血に似た色のローテル・モナが、俺を嘲笑っている様に思えた。
‥‥やっぱり、俺は月が嫌いだ。
そして、半分壊れた筈なのに、鮮やかに紅色を脳に送るこの瞳も、嫌いだ。
ローテル・モナが現れたのは半年前。
黒雲が立ち込め、鴉達が不気味に啼き叫び、世界に紅蓮の光が射し込んだ。
一時はその魅惑の緋に人々は魅了され、歓喜した。
学者も専門家も、ローテル・モナが一体何なのか解らず終いだったが、それを前にしてそんな事はどうでもいい事だった。
一部の宗教団体がこれは神の啓示だ、などと言い出し、その勝手な推察が世の中に蔓延していった。
美しくも怖ろしく、妖しくも生々しいその姿に人は酔い痴れていった。
まるで、催眠術にでも掛かったみたいに。
やがて紅い光は世界を覆うと、人々の心の奥の狂気を覚醒させた。
ある日突然、善良だった人間が凶暴化したのだ。
これにより各地で内乱・紛争・虐殺が起こり、急速に世界は血で染め上げられていった。
何故か俺は、そのローテル・モナの影響を受けなかった。
別段特殊な瞳をしていた訳でも、特殊な脳を持っていた訳でもない。
狂気だって、探せば俺の心にも潜んでいる筈だ。
それなのに。
街には死骸が大量に転がった。
人間も獣も全て、ごちゃ混ぜに積み上げられていた。
鴉達がそれらを美味しそうに咀嚼している。
まだ息のある人間の、地を這う低い唸りがいくつも重なって、街は一気にモルグへと変貌した。
実際はそんな綺麗なものではなかったけれど。
俺は人々が殺戮し合うようになってからずっと、家の戸棚の奥に身を潜めていた。
狂気に支配されて、今の人々は快楽殺人をする愉快犯と何ら変わりはない。
出て行けば殺される。確実に。
その内殺す人間がいなくなれば、その時は自分で自分を殺めるだろう。
死ぬ事も、感じる痛みも苦しみも虚無感も何も意味を為さない。
ただ掌に残る不思議に柔らかい感触を味わいたくて、凶器を、そして狂気を振るう。
遠くで聴こえる怒号、哀号。
狂った眼。戦慄と恐怖に塗り替えられた顔。
拳銃が咆える。剣が鬩ぎ合う冷えた金属音。
必死に懇願する聲。殺される瞬間の、口腔内でくぐもった呻き。
扉を僅かに開けた、たった2cmの隙間で行われた出来事には、今も魘される。
ただただ息を殺して、伝う汗を拭う事もできなかった。
眼を逸らすのも許されず、鼓膜には醜い悲鳴が沁み付いた。
そして、人間の血は思いの外勢いよく噴き出すのだと知った。
断末魔はあんなにも烈しく魂を揺さ振られるのだと。
目の前の標的を殺した瞬間の愉悦の微笑みは、凄絶でどこか懐かしいものなのだと。
「今夜はここで寝るか・・・」
屋根もあり、あまり荒らされていない所を見ると他に人の手が加わった事はないようだ。
適度に風も避けられ、近くのブロック塀が静かに泣く。
それにここからはローテル・モナは見えない。
ただ寝ている間だけでもあの月の下から逃れたかった。
悪足掻きにしか過ぎないと、嫌なほど解っているけれど。
親友が自分の妹に剣を突き立て、そして神父に首を絞められているのを見た。
普段の柔和な笑顔が鋭い眼光を放つ表情に変わる様を見た。
その時の何とも表し難い恐怖を思い出して、一瞬大きく身震いする。
「何で・・・何で俺だけ残ったんだ?どうして俺には影響が無い?」
不安の混ざった疑問が思わず口をつく。
だが、答えを、それどころか返答さえ聴こえてくる様子はない。
・・・本当に何故。
そろそろ食糧も見つけ難くなっていて、空腹の日々が続いていた。
水は井戸があったが既に使える状態ではなく、同様に入手が困難だ。
生き延びる為にはここを離れ、どこか新しい地へと行かなければならないだろう。
もしかすると、自分の他にも生きている人間がいるかもしれない。
「そう・・・生きたいなら・・・方法はそれしかないんだ・・・」
けれど俺は、そこまで生きたいという意志が強い訳じゃない。
逆にいつでも死んでもいいと思っていた。
人生なんて詰まらない。
特に面白い事も楽しい事もない。
苦しい事も悲しい事もない。ただ淡々と時が過ぎていく。
それだけだった。
ローテル・モナは何故俺を生かした。
こんなどうしようもなくなった世界にただ独り。
緋色の光は淡く滲みながら変わる事はない。
けれど、いつもと少し表情が違うような気がした。
些細な違和感。どこか合致しない。
これは・・・俺かあの月に何らかの変化が生じたという事・・・?
僅かに首を捻り、気を取り直して敷いた新聞紙の上に横たわる。
あぁ、今日は何だか酷く疲れた。
凄く眠い。
今夜は風もささやかで、久し振りに静かに眠れそうだ。
服がごわごわとしたが、すぐに気にしなくなった。
冷え冷えとした地面も体温を奪っていくように次第に温かくなっていく。
拳がズクズクと疼くが大した事じゃない。
そっと瞼を閉じ、俺は深く堕ちていった。
深く深く、どこまでも深く・・・
逃れられない、紅蓮の囹圄の中へと。
Fin.