妹が王太子妃になるそうですが、私の商船団まで嫁入りする予定はございません
婚約は家同士の約束でも、持っているものまで全部「家のもの」とは限りません。
婚約を譲った姉が、自分の財産とこれからの人生を切り分ける話です。
「王太子妃には、ルチアを立てることになった」
父がそう言った時、私は最初、聞き間違えたのだと思った。
朝食室には焼いたパンの匂いが残っている。
妹のルチアは蜂蜜の匙を持ったまま止まっていた。
「……私ではなく?」
「ああ」
父は目を逸らさなかった。
「王家とも話はしてある。フェリクス殿下も望んでいる」
婚約が決まったのは、私が十五歳の時だ。
それから八年。
半年後には結婚式の予定だった。
「理由を伺っても?」
「殿下とルチアが、互いに望んでいる」
「お姉様」
ルチアの声が小さくなった。
「最初から、こんなつもりではなかったの」
「二人で話したの?」
「何度か。庭園で。侍女も一緒だったわ」
責める言葉はいくらでも思いついた。
けれど今は、怒る前に順番を確かめたかった。
「殿下は、私との婚約を解消したいと?」
「そうだ」
「お父様は?」
「公爵家として受け入れる」
「陛下方も?」
「両家が同意するなら異論はないと」
そこまで進んでいるなら、私一人が拒んでも婚礼が幸せなものになるとは思えない。
八年間を急に畳まれたようで、胸の奥は重かった。
それでも私は頷いた。
「分かりました。婚約解消には同意します」
父の肩から、目に見えて力が抜けた。
それを見て、腹が立った。
私は冷めかけた紅茶を一口飲む。
「では、婚姻を前提にしていた契約も整理しましょう」
「契約?」
「母から相続した商船団です」
父の表情が止まった。
ルチアは、今度こそ匙を皿へ置いた。
◇
母は南海交易で財を成した商家の娘だった。
五年前、私が十八歳になった年に母は亡くなった。
遺言で私へ残されたのは、大型商船八隻、沿岸輸送船四隻、港湾倉庫三棟の持分。
成人した私の名で相続登記も済んでいる。
王太子との婚約が決まったのは、その三年前だ。
だから相続のあと、王家と特別な輸送契約を結んだ。
王宮向けの穀物。
冬前の塩。
外交使節や公文書の輸送。
船員の給与、保険、修繕積立を賄う程度の運賃だけを受け取り、利益はほとんど取っていない。
いずれ自分が王家へ入る。
王家の支出を抑えることは、将来の自分の家計を助けることでもある。
その頃の私は、本気でそう思っていた。
「船は公爵家の資産ではなかったのか」
父が聞いた。
「いいえ」
「母上が嫁入りの時に持ってきたものだろう」
「母の別産です」
「……そうだったな」
父はそこで言葉を止めた。
忘れていたわけではないらしい。
ただ、五年間ずっと公爵家の会計係が王家からの運賃を取りまとめていたため、いつの間にか家の資産と同じ感覚になっていたのだという。
念のため家の法務官も呼んだ。
古い相続証書と契約書を机へ広げ、三人で確認する。
「所有者はイレーネ様です」
法務官が言った。
「公爵家は、王家との契約で保証人になっているだけです」
父が深く息を吐いた。
「そこは私の認識が甘かった」
「お父様が船を取り上げようとしているとは思っていません」
「取り上げる権利もない」
「はい」
「そこは手加減してくれ」
思わず笑いそうになった。
父も苦い顔で笑った。
家族だからといって、全部を同じ財布へ入れていいわけではない。
それだけの話だった。
◇
現在の王家向け特別契約には、婚姻が成立しなかった場合の条項がある。
契約終了は通知から九十日後。
穀物船を明日から止めるようなことはできないし、するつもりもない。
「その後は、王家には貸さないの?」
ルチアが聞いた。
「必要なら貸すわ」
妹の表情が和らぐ。
「ただし、通常の条件で」
「通常?」
「今の契約より高いわ」
「どれくらい?」
「航路によるけれど、二倍強」
ルチアは目を丸くした。
「そんなに安くしていたの?」
「ええ」
「どうして?」
「王太子妃になる予定だったから」
言ってから、自分でもおかしくなった。
ずっと当然だと思っていたことを、今さら説明している。
「お姉様」
「なに?」
「私、そのこと知らなかった」
「でしょうね」
「殿下は?」
「契約が安いことは知っていると思う。でも、どうして安いかまで考えていたかは分からない」
その答えは、午後に分かった。
◇
王宮へ呼ばれると、フェリクス殿下の隣に財務長官が座っていた。
恋愛の話だけなら、財務長官は来ない。
「婚約解消には同意します」
私が言うと、殿下は露骨に安心した。
「ありがとう、イレーネ」
その顔を見たら、朝より腹が立った。
だから次は、できるだけ事務的に言った。
「商船団の特別契約は九十日後に終了します」
財務長官が頷いた。
「条項は確認しました。王家としても異議はありません」
殿下だけが資料へ目を落とす。
「その後はどうなる?」
「必要な航路だけ、新しく契約できます」
「同じ条件で?」
「いいえ」
私は新しい契約案を差し出した。
半年間。
王家向けの優先枠は残す。
ただし運賃は、同じ季節、同じ航路の平均価格に合わせる。
殿下の眉が寄った。
「二倍以上になるのか」
「今までが安すぎたのです」
「そこまで利益を取っていなかった?」
「ほとんど」
「なぜ」
財務長官が一瞬だけ殿下を見た。
私は答えた。
「未来の王太子妃でしたので」
殿下は黙った。
しばらくして、資料をもう一度最初から読み直す。
「契約が婚姻前提なのは知っていた。だが、運賃までその前提で決まっているとは考えていなかった」
「私も説明した覚えはありません」
「では、私だけの勘違いでもないな」
「そうですね」
それで肩の力が抜けた。
誰か一人を悪者にすれば、もっと簡単だったのかもしれない。
でも、八年も続いた慣習は、だいたい一人だけではできあがらない。
「九十日の間に、必要な航路を選び直そう」
財務長官が言った。
「王家も全てを民間船に頼る状態は改めます」
「承知しました」
「交渉相手としては、以前より厳しそうですな」
「今までは身内価格でしたので」
老人は笑った。
フェリクス殿下だけが、複雑な顔をしていた。
◇
婚約解消は一週間後に正式発表された。
ルチアとフェリクス殿下の婚約は、その一か月後に発表される。
社交界はしばらく騒いだ。
私は夜会へ行かなかった。
代わりに港へ行った。
所有者になって五年。
なのに、船倉へ入ったのは初めてだった。
最初に困ったのは、匂いだった。
潮、油、濡れた木、干した魚。
書斎の帳簿には一つも書いていない匂いが混ざっている。
「顔色が悪いですよ」
古参船長のマルセルが言った。
「平気です」
「まだ岸です」
「分かっています」
「沖へ出る話はまた今度にしましょう」
悔しいが、その方がよさそうだった。
大型船の一隻では、前檣の交換が始まっていた。
私は帳簿で『修繕中』とだけ見ていたけれど、実際には古い帆柱を抜くだけで二十人近くが動いている。
「この船、来月には使えるのよね?」
「天気がよければ」
「契約書には来月十五日から稼働可能と」
「港の天気は契約書を読みませんから」
返す言葉がなかった。
私は船主ではあっても、船のことを知っているわけではない。
その違いに、港へ来て一時間で気づいた。
「王家の仕事が減ったら、船をどこへ走らせます?」
マルセルが聞く。
「南方航路を増やそうと思っているわ」
「何隻?」
「五隻」
「今すぐなら三隻までですね」
「どうして?」
「一隻は修繕。もう一隻は南へ回すと帰り荷がありません」
「空で戻れば?」
「できますが、運賃が高くなります」
帳簿だけ見ていた時には、思いつかなかった。
私は持ってきた予定表に線を引いた。
「……先に仕事を探した方がよさそうね」
「はい」
マルセルは嬉しそうだった。
「ようやく船主らしい順番になりました」
「それ、褒めています?」
「かなり」
◇
王家との再契約は、全てではなく一部だけ成立した。
穀物輸送は継続。
塩は別の商会へ移す。
外交使節用には、王家が中古の高速帆船を一隻購入することになった。
財務長官は署名を終えると、羽根ペンを置いた。
「もっと早く、自前の輸送力を持つべきでした」
「私も、もっと早く利益を取るべきでした」
「貴女が安く貸した。こちらは便利だから使った」
「どちらも間違いではなかったと思います」
「状況が変わった?」
「はい」
「なら契約も変える。商売はそれでいい」
王宮でそんな話をしたことは、これまで一度もなかった。
婚約者だった頃の私は、王家に請求する金額を減らす話ばかりしていた。
今は、適正な金額を受け取る話をしている。
それだけで、同じ机が前とは違って見えた。
◇
空いた船の仕事を探すため、私は南海商人会へ出た。
そこでカシアン・ロート伯爵と再会した。
港湾都市を領地に持つ伯爵で、母が生きていた頃に何度か会ったことがある。
「四年ぶりですね」
「よく覚えていますね」
「貴女に契約を断られましたから」
思い出した。
十九歳の頃、彼の領地から染料を運ぶ話を持ちかけられた。
私は王家向けの予定を優先して断ったのだ。
「あの時の染料、まだ運びますか?」
「今なら量が増えています」
「では、お話を」
「再会してすぐ仕事ですか」
「商人会でしょう?」
話は三十分では終わらなかった。
染料。
葡萄酒。
南方の陶器。
帰り荷にできる北部の毛織物。
「往路と復路、両方に荷を積めれば」
「空船が減る」
「運賃を抑えられる」
「利益は増える」
二人で同時に言ってしまった。
カシアンが先に笑う。
「相変わらずですね」
「四年前の私を知っているように言わないでください」
「殿下の話より帆布の値段の話をしていたので、覚えています」
「それは忘れてください」
「無理です」
最初の契約案では、私は染料だけを運ぶつもりだった。
カシアンに帰り荷の毛織物を提案され、計算し直すと利益が大きく変わる。
悔しい。
でも、面白かった。
「伯爵は商売人ですね」
「褒め言葉として受け取ります」
「私はまだ違います」
「今日のところは」
「余計です」
彼はまた笑った。
◇
九十日の移行期間が終わる頃には、配船表は以前とは別物になっていた。
十二隻のうち、王家の穀物輸送に三隻。
南方航路に四隻。
東方商会との契約に二隻。
一隻は沿岸便。
二隻は修繕と予備。
最初に考えた南方五隻案は、マルセルに止められて消えた。
利益は以前より増えた。
仕事も増えた。
失敗も増えた。
最初の南方便では、積荷の陶器を詰めすぎて船倉の積み直しに半日かかった。
私は荷役主任から「帳簿の余白と船倉の余白は別物です」と叱られた。
翌週、予定表の余白にその言葉を書いた。
少なくとも、同じ失敗はしないつもりだ。
◇
そんな頃、ルチアが港の事務所へ訪ねてきた。
婚約発表以来、二人きりで話すのは初めてだった。
「忙しそうね」
「かなり」
「楽しそう」
私は伝票を置いた。
「……そう見える?」
「うん」
ルチアは窓の外の帆柱を見た。
「怒ってないの?」
「怒ったわ」
妹の顔が曇る。
「悲しかったし、腹も立った」
「ごめんなさい」
「でも、それと船は別」
「船?」
「婚約を失ったから、腹いせに取り返したわけじゃない。最初から私のものだっただけ」
「分かってる」
「本当に?」
「今は」
その答えは、意外だった。
「最初は?」
「お父様と同じ。お姉様が王家へ持っていくものだから、王家のものになるんだと思ってた」
「私も、半分くらいそう思っていたのかもしれない」
「お姉様も?」
「だから五年間、ほとんど利益を取らなかったのよ」
ルチアは考えてから笑った。
「それは、お姉様らしい」
「褒めてないでしょう」
「半分くらい」
しばらく、港の鐘の音だけが聞こえた。
「お姉様」
「なに?」
「許してくれる?」
私はすぐには答えなかった。
「その返事は、もう少し後で」
「今じゃだめ?」
「今だと、許したふりをしそうだから」
ルチアは泣かなかった。
「分かった」
その方が助かった。
◇
冬の終わり。
カシアンの領地との定期航路が正式に始まった。
初便を見送るため、私は朝から港にいた。
風が強く、書類を押さえていないと頁が勝手にめくれる。
「手袋は?」
隣でカシアンが聞く。
「持っています」
「していない」
「紙をめくりにくいので」
「四年前から変わりませんね」
「またその話ですか」
鐘が鳴る。
船員が最後の綱を外し、船がゆっくり岸を離れた。
最初の計画より一週間遅い出港だった。
北から届く毛織物が雪で遅れたせいだ。
予定どおりにはいかない。
最近は、それにも慣れてきた。
「イレーネ」
「はい」
「次の契約の話をしても?」
「航路ですか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「夕食でもしながら」
私は彼を見る。
「商談ですか?」
「最初は、それで構いません」
断る理由を考えた。
明日の会議。
積荷の確認。
修繕中の船の見積もり。
いくつか思いついたけれど、どれも夕食を断るほどではなかった。
「では、港を出る前に店を決めてください」
「条件があるんですね」
「あります」
「聞きましょう」
私は書類を閉じた。
沖へ向かう船の予定は、帰ってからまた直せばいい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、婚約に付随して当然のように使われていたものが、実は本人の財産だったら、というところから作りました。
婚約と家族と所有権を切り分けたあと、自分の名前で商売を始める女性の話です。
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空席あり




