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聖女の愛

作者: たっくん
掲載日:2026/05/10

 聖女リシェルは、誰よりも優しい少女だった。


 王都の外れにある孤児院。


 まだ十歳にも満たない頃の彼女は、いつも怪我をした子供達の隣にいた。


「痛いの、飛んでいけ」


 小さな両手を重ねる。


 すると淡い光が傷口を包み、裂けた皮膚がゆっくり塞がっていく。


 周囲の子供達が目を輝かせた。


「すごい……!」


「また治った!」


 リシェルは少し照れくさそうに笑う。


「えへへ……よかった」


 その笑顔を、少し離れた木陰から見ている少年がいた。


 黒髪。


 灰色の瞳。


 痩せた体。


 年齢は同じくらいだろうか。


 彼の名は、ノア。


 王都でも珍しい“霊媒師”の家系に生まれた少年だった。


 リシェルが振り返る。


「あ、ノア!」


 嬉しそうに駆け寄ってくる。


「また来てくれたんだ!」


「……近い」


「いいじゃん!」


 リシェルは距離感がおかしい。


 ノアの腕を掴み、ぐいぐい引っ張る。


「ほら見て! 今日ね、三人も治せたんだよ!」


「そうか」


「褒めて!」


「……頑張ったな」


 その瞬間。


 リシェルの笑顔がぱっと咲いた。


 まるで太陽みたいだ、と。


 ノアは少しだけ思った。



 数年後。


 リシェルは正式に“聖女”として認定された。


 王都中が歓喜した。


 歴代最高クラスの浄化能力。


 癒しの奇跡。


 穢れ耐性。


 神聖魔法適性。


 全てが規格外だった。


『女神の再来だ!』


『この方がいれば王国は安泰だ!』


 人々は聖女を崇めた。


 王族は祝宴を開き。


 騎士達は忠誠を誓い。


 民衆は涙を流した。


 だが。


 その熱狂の裏で。


 一人だけ、顔色を悪くしている者がいた。



「……穢れが、増えすぎてる」


 薄暗い地下室。


 ノアは大量の羊皮紙を机へ並べていた。


【聖女リシェル 浄化活動記録】


【穢れ付着量推移】


【精神汚染値】


 その数字は、異常だった。


 浄化を行うたびに、リシェルの穢れ耐性が下がっている。


 普通ではあり得ない。


「なんでだ……」


 ノアは資料を掴む。


 その時だった。


 部屋の扉がノックされた。


「ノア?」


 リシェルだった。


 ノアは慌てて資料を隠す。


「……何しに来た」


「冷たいなぁ」


 リシェルは苦笑しながら部屋へ入ってきた。


 聖女の白い衣。


 以前より少し大人びた顔。


 だが笑い方は昔と変わらない。


「また徹夜したんでしょ?」


「別に」


「はい嘘」


 リシェルは机へ近づく。


「ご飯持ってきた」


「……いらない」


「食べなさい」


 強引にパンを押し付けてくる。


 ノアはため息を吐いた。


「お前、聖女なんだからもう少し威厳持て」


「ノア相手に?」


「他の奴にもやれ」


「嫌だ」


 即答だった。


 リシェルは椅子へ座り、ノアを見つめる。


「……どうしたの?」


「何が」


「最近ずっと怖い顔してる」


 ノアは答えなかった。


 代わりに、リシェルの顔を見る。


 笑っている。


 優しい目をしている。


 誰かを救いたいと、本気で願っている顔だ。


 だからこそ。


 ノアは気付いてしまった。


 聖女の力の正体に。



 それは、古い禁書庫で見つかった記録だった。


【聖女の浄化とは、“愛”を燃料として発動する奇跡である】


 最初、意味が分からなかった。


 だが読み進めるうちに、ノアの血の気は引いていった。


【人を愛する心が強いほど、浄化は強くなる】


【だが穢れは、その愛へ惹かれる】


【聖女は愛するほど、穢れをその身へ蓄積する】


【やがて心は侵され、最後には“穢れそのもの”へ変貌する】


 歴代聖女の記録も残っていた。


 全員、最後は壊れていた。


 発狂。


 暴走。


 人格崩壊。


 そして――処刑。


 ノアは資料を握り潰した。


「ふざけんな……」


 誰も知らない。


 民衆は聖女を称える。


 王族は奇跡を求める。


 だがその裏で。


 聖女達は、愛するほど死へ近づいていた。



「……ノア?」


 リシェルが不安そうに覗き込む。


「本当にどうしたの?」


 ノアは答えられなかった。


 もし真実を伝えたら。


 この少女はどうなる。


 きっと、それでも笑う。


『みんなを救えるなら平気だよ』


 そう言うに決まっている。


 だからこそ。


 ノアは恐怖した。


 リシェルは、自分を犠牲にできてしまう。



 数日後。


 王都で大規模浄化が行われた。


 穢れ災害。


 黒い霧が街を覆い、多くの人間が倒れていた。


 リシェルは中央広場へ立つ。


 白い法衣。


 祈りの姿勢。


 民衆が希望を見る目で彼女を見上げている。


『聖女様……!』


『お願いします……!』


 リシェルは優しく笑った。


「大丈夫です」


 その笑顔を見た瞬間。


 ノアの背筋が凍る。


 見えてしまった。


 黒い穢れが。


 人々ではなく。


 リシェルへ集まっていくのが。


 まるで。


 “愛”へ吸い寄せられるように。


「やめろ……」


 ノアは呟く。


「もう使うな……」


 だが。


 リシェルは祈りを始めた。


 眩い光が王都を包む。


 人々の穢れが消えていく。


 歓声。


 涙。


 感謝。


 だがその裏で。


 リシェルの瞳の奥へ、黒い影が沈んでいく。


 ノアは拳を握り締めた。


 理解してしまった。


 もう時間がない。


 このままでは。


 リシェルは、いつか壊れる。



 その夜。


 ノアは地下霊廟へ足を踏み入れていた。


 王国でも禁忌とされる場所。


 死霊術。


 精神干渉。


 魂の浄化。


 そして――感情祓い。


 霊媒師の中でも、最も禁忌に近い術。


 ノアは祭壇の前へ立つ。


 手が震えていた。


「……本当にこれしかないのか」


 答える者はいない。


 だが。


 ノアは知っている。


 このままなら、リシェルは死ぬ。


 いや。


 死ぬだけならまだいい。


 最後には穢れへ呑まれ、人々から怪物として恐れられながら殺される。


 そんな未来だけは。


 絶対に嫌だった。


 ノアは静かに目を閉じる。


 脳裏へ浮かぶ。


 笑うリシェル。


『ノア!』


『見て!』


『ありがとう!』


 胸が痛かった。


 それでも。


 ノアは術式陣へ手を置いた。


「……俺が祓う」


 世界を救うため。


 そして。


 誰よりも大切な少女を救うために。


 霊媒師は、禁忌へ手を伸ばした。


 術式が完成したのは、深夜だった。


 地下霊廟。


 無数の蝋燭が青白く揺れている。


 床一面へ描かれた巨大な霊術陣。


 中央には、静かに眠るリシェルの姿があった。


「……本当に、やるんだな」


 ノアは震える声で呟く。


 返事はない。


 当然だ。


 これは、誰にも相談できない禁忌だった。


 聖女の感情へ干渉する。


 しかも。


 “愛”だけを祓う。


 成功例など存在しない。


 だが。


 やらなければ、リシェルは壊れる。


 ノアは両手を術式へ置いた。


 霊力が流れ込む。


 床の紋様が光り始めた。


 その瞬間。


 リシェルの身体が苦しそうに震える。


「っ……!」


 ノアは歯を食いしばった。


 見えてしまった。


 リシェルの魂へ、無数の黒い穢れが絡みついている。


 まるで愛情へ寄生する虫みたいに。


 人々を想うほど。


 誰かを愛するほど。


 穢れは深く沈んでいく。


 ノアは術式を強めた。


「――感情分離開始」


 霊力が奔流となる。


 次の瞬間。


 リシェルが小さく呻いた。


「……ノ……ア……?」


 薄く目を開く。


 苦しそうだった。


「……なに……して……るの……?」


 ノアは答えない。


 答えられない。


 もし今言葉を返したら、迷う。


 絶対に手を止めてしまう。


「やめ……て……」


 リシェルの目から涙が零れる。


「いや……だよ……」


 胸が引き裂かれそうだった。


 だが。


 ノアは術式を止めない。


「ごめん」


 小さく呟く。


「……お前を、死なせたくない」


 その瞬間だった。


 術式陣が眩く輝く。


 リシェルの胸元から、淡い金色の光が浮かび上がった。


 暖かい光。


 優しい光。


 まるで。


 リシェルそのものみたいな光だった。


 ノアは理解する。


 これが、“愛”。


 聖女の力の源。


 人を救いたいと願う心。


 誰かを大切に思う感情。


 その全て。


 リシェルが苦しそうに涙を流す。


「……いや……」


 光がゆっくり剥がれていく。


 まるで魂を引き裂いているみたいだった。


 ノアは唇を噛み締める。


 それでも。


 止められなかった。



 術式が終わった頃には、朝になっていた。


 地下霊廟には静寂だけが残っている。


 ノアは壁へ寄りかかり、荒い息を吐いた。


 霊力を使い過ぎた。


 全身が痛い。


 だが。


 リシェルは生きている。


 穢れ反応も急激に低下していた。


「……成功、したのか」


 ノアは震える指で、リシェルの頬へ触れる。


 熱はない。


 穢れもない。


 救えた。


 そう思った。


 その時だった。


 リシェルがゆっくり目を開く。


「……リシェル?」


 ノアは息を呑む。


 リシェルはぼんやりと天井を見つめたあと、ゆっくりノアへ視線を向けた。


「……ノア?」


「あぁ」


「……どうしたの?」


 違和感があった。


 声は同じ。


 顔も同じ。


 でも。


 何かが決定的に違う。


 以前なら。


 リシェルは目を輝かせていただろう。


『ノア!』


 そう笑っていたはずだ。


 だが今は。


 静かだった。


 まるで、他人を見るような目だった。


「……気分は」


「普通」


 淡々とした声。


「少し眠い」


 ノアの背筋が冷える。


「……俺のこと、分かるか」


「幼馴染でしょ?」


「それだけか?」


「……?」


 リシェルは不思議そうに首を傾げた。


 本当に分かっていない顔だった。


 ノアは言葉を失う。


 成功した。


 確かに穢れは消えた。


 だが。


 その代わりに。


 リシェルの“愛”も、本当に消えてしまった。



 それから数週間。


 王都では異変が起き始めていた。


『最近の聖女様、なんか怖くないか?』


『前はもっと優しかったのに……』


『笑わなくなったよな』


 噂が広がる。


 リシェルは変わった。


 以前のように民へ寄り添わない。


 感情を見せない。


 誰に対しても平等。


 だが、それは逆に冷たく見えた。


 そして何より。


 浄化能力が大きく低下していた。


 以前なら一瞬で浄化できた穢れを、今は数十分かけても完全には消せない。


 神官達が焦り始める。


『どういうことだ!?』


『聖女様の力が落ちている!?』


『あり得ない!』


 だが理由を知る者はいない。


 ノア以外。



「……これでよかったのか」


 ノアは一人、地下室で呟く。


 リシェルは生きている。


 穢れにも侵されていない。


 それなのに。


 胸が苦しかった。


 以前のリシェルは、もういない。


 笑顔も。


 温かさも。


 誰かを想う瞳も。


 全部、自分が消した。


 その時だった。


 地下室の扉が開く。


 リシェルだった。


「またここにいたんだ」


「……何か用か」


「別に」


 リシェルは机へ近づく。


「ちゃんと食事してる?」


「してる」


「嘘」


 その言い方に、ノアは少しだけ目を見開いた。


 昔と同じだった。


 だが。


 次の瞬間、違和感が走る。


「体調管理くらいしないと倒れるよ」


 声は優しい。


 でも。


 そこに“感情”がない。


 まるで。


 誰かにそう言うべきだから言っているみたいな。


 ノアは視線を逸らした。


 リシェルが首を傾げる。


「……ノア?」


「なんでもない」


「変なの」


 リシェルは少し考え込む。


 そして、不思議そうに呟いた。


「最近、よく分からないの」


「何が」


「みんなの気持ち」


 ノアの心臓が止まりそうになる。


 リシェルは窓の外を見る。


「前はね」


「誰かが悲しいとか、苦しいとか、嬉しいとか」


「見てるだけで分かったの」


 静かな声だった。


「でも今は、よく分からない」


 ノアは拳を握る。


 リシェルは続けた。


「泣いてる人を見ても、何も感じないの」


 その言葉は、あまりにも痛かった。


「なのに」


 リシェルは小さく笑った。


「みんな、“聖女様は冷たくなった”って言うんだよね」


 ノアは何も言えない。


 言えるわけがない。


 お前から愛を奪ったのは、自分だなんて。



 数日後。


 王宮会議。


 重苦しい空気が流れていた。


「……限界だな」


 宰相が低く呟く。


「民衆の支持率も低下している」


「浄化能力も以前ほどではない」


「最近では“氷の聖女”などと呼ばれているそうです」


 王族達の顔は険しい。


「本当に同一人物なのか?」


「偽物では?」


「呪われている可能性は?」


 誰もが疑い始めていた。


 かつて“女神の再来”と呼ばれた聖女を。


 そして。


 会議室の隅で、その全てを聞いていたノアは静かに目を閉じた。


 分かっていた。


 こうなることは。


 愛を失った聖女は。


 もう、人々から愛されない。


 聖女リシェルが王都から追放されたのは、雪の降る日だった。


『偽物の聖女』


『感情の無い化け物』


『女神に見放された女』


 民衆は口々に罵声を浴びせる。


 かつて“女神の再来”と呼ばれた少女へ向ける言葉とは思えなかった。


 だが。


 リシェルは怒りもしなかった。


 悲しみもしなかった。


 ただ静かに、その全てを受け入れていた。


 白い息を吐きながら、馬車へ乗り込む。


 その姿を、遠くからノアが見つめていた。


 胸が痛い。


 だが。


 リシェルは生きている。


 穢れにも侵されていない。


 なら。


 これでよかったはずだった。



 追放から数ヶ月後。


 王都では再び穢れ災害が発生していた。


 黒い霧。


 魔物の暴走。


 病の蔓延。


 神官達は必死に浄化を行う。


 だが。


 足りない。


『浄化が追いつかない!』


『穢れ濃度が高すぎる!』


『聖女様がいた頃なら……!』


 人々はようやく理解し始めていた。


 リシェルがどれほど異常な存在だったのかを。



 一方。


 辺境の小さな村。


 リシェルは静かに暮らしていた。


 古い木造の家。


 小さな畑。


 山に囲まれた静かな土地。


 村人達は、彼女が元聖女だと知らない。


 ただ、“少し綺麗な無口の女性”として接していた。


「おはよう、リシェルさん」


「……おはようございます」


 感情は薄い。


 だが彼女は、最低限の会話はする。


 村の子供が転ぶ。


 膝から血が流れる。


 リシェルは静かにしゃがみ込んだ。


 淡い光。


 傷が塞がる。


 子供が目を丸くする。


「すごい!」


「……よかったね」


 そう言って微笑む。


 以前ほど暖かい笑顔ではない。


 だが。


 確かにそこには、穏やかな優しさが残っていた。



 その日の夜。


 村へ、一人の男が訪れた。


 黒髪。


 灰色の瞳。


 リシェルが静かに目を見開く。


「……ノア」


「久しぶりだな」


 数ヶ月ぶりだった。


 ノアは以前より痩せていた。


 目の下には隈。


 顔色も悪い。


 リシェルは少し首を傾げる。


「体調悪そう」


「……誰のせいだと思ってる」


「?」


 本気で分かっていない顔だった。


 ノアは苦笑する。


 昔なら、きっともっと慌てていた。


『大丈夫!?』


 そう言っていただろう。


 でも今のリシェルには、それがない。


 ノアは視線を落とした。


「……少し話せるか」



 夜。


 雪が降っていた。


 二人は家の外、古いベンチへ座っていた。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて。


 リシェルが小さく口を開いた。


「王都、酷いことになってるんでしょ」


「……知ってたのか」


「なんとなく」


 静かな声だった。


「最近、穢れの流れが変だから」


 ノアは少し驚く。


 愛を失っても、聖女としての感覚は残っているらしい。


「戻って来いって言いに来た?」


「違う」


 即答だった。


 ノアは拳を握る。


「……戻る必要なんかない」


 リシェルは静かにノアを見る。


「ノア」


「なんだ」


「なんで泣きそうなの?」


 ノアの呼吸が止まる。


 リシェルは本当に分からない顔をしていた。


「昔から思ってた」


「ノアって、時々すごく苦しそうな顔するよね」


 ノアは視線を逸らした。


 限界だった。


 ずっと隠してきた。


 全部。


 でも。


 もう無理だった。


「……俺が」


 声が震える。


「お前の愛を祓った」


 雪が静かに降る。


 リシェルは黙っていた。


 ノアは続ける。


「お前は、このままだと壊れてた」


「穢れに呑まれて、最後には処刑されるはずだった」


「だから俺は……」


 言葉が詰まる。


「お前を救いたくて……」


 ずっと後悔していた。


 本当に正しかったのか。


 リシェルの笑顔を奪ってまで、生かす意味はあったのか。


 分からなかった。


 ノアは震える声で呟く。


「……恨んでるなら、それでいい」


 リシェルは静かに雪空を見上げる。


 しばらく考えるように目を閉じて。


 そして、小さく呟いた。


「……そっか」


 怒りはなかった。


 憎しみも。


 ただ。


 少しだけ寂しそうだった。


「だから私」


「誰のことも、好きって思えなくなったんだ」


 ノアの胸が痛む。


 リシェルは続けた。


「でもね」


 雪が肩へ積もる。


「一つだけ、分からないことがあるの」


「……何だ」


 リシェルはゆっくりノアを見る。


 その瞳は静かだった。


 でも。


 どこか、ほんの少しだけ揺れていた。


「どうして、ノアのことを見てると苦しくなるんだろう」


 ノアが息を呑む。


 リシェルは胸元へ手を当てる。


「ここ、変なの」


「苦しいのに」


「嫌じゃないの」


 雪が静かに降り続ける。


 ノアの目から、涙が零れた。


 祓ったはずだった。


 確かに、愛は消えた。


 それでも。


 魂の奥底に残った想いまでは、消えなかった。


 ノアは震える声で笑った。


「……なんだよ、それ」


「私にも分かんない」


 リシェルは少し困ったように笑う。


 ぎこちない笑顔だった。


 でも。


 ノアは思った。


 あぁ。


 この顔が見たかったんだ、と。



 春。


 辺境の村には花が咲いていた。


 リシェルは今日も小さな怪我を治している。


 子供達が笑う。


 村人達が感謝する。


 世界を救うような奇跡ではない。


 誰かに崇められることもない。


 でも。


 それでよかった。


 遠くから、その光景を見守るノアへ。


 リシェルが小さく手を振る。


「ノア」


「なんだ」


「……ありがとう」


 その意味を。


 ノアは聞かなかった。


 ただ静かに笑う。


 春風が吹く。


 暖かな光の中で。


 かつて聖女だった少女は、ようやく穏やかに笑っていた。


 霊媒師が祓ったのは、聖女の愛でした。


 けれど。


 最後まで消えなかった想いが、確かにそこに残っていた。

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