自由の国
私の短編小説 爺の国の続編です
前作からの閲読をお勧めします
―西暦2☓☓☓年 困窮した日本国
そこで政府が目をつけたのは少子高齢化問題
※※※※
冉金島
草木が生い茂る無人島――だった島。広さにしては、北海道の大きさ程度。
一台の巨大船が島へと到着し、中からぞろぞろと老人達が降りてくる。自分の脚で歩を進める者、杖を付く者など様々。どれも皆男性だった。
ある程度進んだ所で立ち止まり、老人達はそれぞれ談笑を始める。
「わしはのう、死ぬ前にもう一度孫の顔が見たかったんじゃが……まぁ、ここに来てしまったからのう」
「俺は富士山じゃ。一度も登ったことがなくてのう。まさかこんな島に来るとは思わんかったが」
「わしは寿司じゃな。本場の江戸前寿司を腹いっぱい食いたかった」
「贅沢じゃのう!」
「「しゃっしゃっしゃ」」
老人達の笑い声が島に響く。その輪の中に一人、白髪のかつらを被り老人メイクを施した男が混じっていた。名はマイケル・ジュン・パトリック。通称マイク。アメリカのスパイだ。
任務は一つ――この島で行われている人体実験を世に暴くこと。
(やれやれ……死ぬまでにやりたい事か)
愛想笑いを浮かべながら、冷静に周囲を観察していた。任務を全うして生きて帰る。それがマイクの答えだ。少なくとも、今この瞬間は。
しかし、ここまで彼等を乗せてきた巨大船が動き出し、島から少しずつ遠ざかって行く。
ブォン!ブォン!
そこへ数台の車両が到着する。中から迷彩服を着た男達が次々と姿を現し、手には皆アサルトライフルが握られていた。
「全員動くな!」
老人達は手を頭の上に挙げ、ゆっくりと地面に伏せる。両の手に手錠をかけられ、頭に布袋を被せられ、視界は遮断された。
(予想通りだ……続きを聞かせてもらおう)
マイクは冷静に状況を記憶しながら、兵士達の指示に大人しく従った。
※※※※
真っ暗な視界の中、車で移動しながら兵士達からこの島の説明を受ける。
【爺共。お前達にはこれから命を賭けて戦ってもらう】
老人達がザワザワと音を立て始める。
事前情報では掴めなかった詳細が、今明かされていく。マイクは一言も聞き漏らすまいと耳を澄ませた。
【そして、生き残った最後の一人に与えられるのは――莫大な年金】
(年金を賭けた戦い……やはり噂は本当だったか)
【戦う気の無い者の妻には連帯責任として、年金支給の停止をさせて貰う】
再び老人達から怒号が飛び交う。しかしマイクには妻も年金も無い。ただ冷静に、この国家による狂気を記録し続ける。
(これが……この島の真実)
やがて車両は停車した。
※※※※
頭の布袋を外されると、そこは深い森の中。兵士達から配給券と書かれたカードを手渡され、説明を受ける。
「期限は三週間。他のジジイ達から奪えば、新たに三週間の猶予が追加される」
「手段は問わん。ここには法律なんか無いからな」
(弱肉強食……老人達に殺し合いをさせる、か)
説明の後、兵士達は一人ずつ老人達を連れて行く。やがてマイクの番が回ってきて、再び布の袋を頭から被せられた。
森の中にポツリと置いていかれたマイクはメモを取り出し、ここまでの内容を記録する。
(記録完了。次は配給ポイントの様子を確認しよう)
マイクは腕時計のオレンジ色のマークを頼りに歩き始める。
―ギャアアア!
「なんだ……今の声は」
後方から響き渡る高齢男性達の叫び声。マイクは護身用の拳銃を上着の内側から抜き取り、声の方へと引き返した。
※※※※
草木をかき分け、声の発生地帯に辿り着いたマイクが目にしたのは、地面に横たわる血塗れの老人達。そして、生々しい血と肉の臭いが鼻腔を突いた。
(ファック……何が起こってんだ)
ゆっくりと地面に伏せ、注意深く辺りを観察する。
パキッ
落ち葉や小枝を踏みつける不気味な音が近づいてくる。のそのそとこちらへ歩いてくる一人の老人……その顔や衣服は真っ赤に染まっている。
「おい、だいじょう……」
「おほぉ♡血……殺すのきぼぢいぃぃい!!♡」
刹那――マイクは喉を詰まらせた。
ザッ ザッ
老人はビクンと身体を震わせながら、右手に持つナイフを何度も何度も死体の腹部に突き刺し続ける。マイクは胃から内容物が迫り上がってくるのを感じ、咄嗟に口元を手で塞ぐ。
「オェッ」
だが、抑えていた喉が決壊し、掠れるような小さな声が発生する。
「ふぇっふぇっふぇ。まだおったんかいな」
死体に跨がる老人はナイフを片手にのっそりと立ち上がり、こちらへと顔を向けた。
「……おぬし、妙じゃのう」
次の瞬間、マイクは白髪のかつらを引き剥がした。老人達に紛れていた男の素顔が露わになる。明らかに高齢者ではない、引き締まった顔の男が、拳銃を前方へと向けた。
「俺はアメリカのスパイだ。この島の実態を記録してる。帰らせなければ永遠に戦い続けるハメになるぞ?俺は老人達の味方だ」
「ふぇっふぇっふぇ」
しかし老人は怯む様子も無く、悠然と歩を進める。まるで遊園地にやってきた子供のように、無邪気に、恍惚とした表情で。
パンッと乾いた音が拳銃から響き渡る。
「くそ!やっちまった……」
迫りくる老人の圧力に気圧され、マイクは銃の引き金を引いてしまった。しかし――
「無駄じゃって。わしのG級特養の前では、銃など玩具に過ぎん」
「なんだと……!?」
有り得ない。恐怖と緊張で頭の中が埋め尽くされる。視界が歪み、上下左右の感覚が消えていく。足がガクガクと震え、マイクはその場に膝をついた。
(まずい……身体が……)
「気づいたか?世界を狂わせる力。これがわしの――クレイG」
老人はうっとりとした表情でナイフを振り上げた。
その瞬間――
マイクの身体は真横へ突き飛ばされた。視線を移すと、ナイフを手にする老人の前に、一人の高齢男性の姿。
その男の頭部に毛は一切なく、ツルリと日光を反射している。それとは反対に口元には白一色な髭が胸元まで伸ばされていた。顔の皺の深さを見るに60代後半といったところだろうか。しかし、背筋は曲がっておらず、ピンと天を突くかのように伸びている。
「あ、アンタは……」
壁のように立ち塞がった老人は、森の奥へと人差し指を突き出した。
「走るんじゃ!」
マイクは一瞬躊躇した。しかし男の背中を見た瞬間、黙って立ち上がり、全力で走り去った。
※※※※
後に生還したマイクはこの時の心境を語る。
『信じられるか?ただの老人の背中がよ……
まるで、オフクロのケツみてぇにデカく見えたんだ』
※※※※
無我夢中で走り続けたマイクは、信じられない光景を目の当たりにし、脚を止めた。青々とした木々に囲まれる森の中に、民家と思われる家々が立ち並んでいる。
「なんじゃ、若いのがこんな所で」
振り向くとそこにいたのは、見たことのない老人。得体のしれぬ安心感に包まれた後、極度の疲労に襲われ、マイクの視界は暗くなった。
※※※※
目を覚ましたマイクが目にしたのは見知らぬ天井。ゆっくりと身体を起こすと、先程の老人が傍に座っていた。
「気がついたかのう?」
「……ここはどこだ」
「ダッシュ村じゃよ。わしが作った村じゃ」
「俺はマイク。アンタは何者だ?」
「わしは榎本 五郎。皆からはエコロ爺と呼ばれちょる。この村の長じゃよ」
マイクは状況を整理しながら口を開いた。
「長――もっとこの村の事を聞かせてくれないか?」
※※※※
「わしは定年までテレビ番組のプロデューサーをやっちょってのう。この村はその時番組に出ておったメンバー達と協力して造り上げたんじゃ」
エコロ爺は懐かしそうに目を細めた。
「今やこのダッシュ村は自給自足で生きられる程度には栄えてるのう。配給券を奪い合うことも無い。リーダーの城島を筆頭にメンバー達もよく頑張っちょる」
「自給自足……だと?この島で?」
「わしの能力のお陰もあるがのう。しゃっしゃっしゃ」
「だが、戦わないとアンタらの妻の年金は――」
「女の心配なら無用じゃ。わしゃ、金なら腐って捨てるほど稼いだ。年金などハナから当てにしとらんのよ。この村にいるのはそんな奴らばかりじゃ。まあ、ただの薄情者もおるじゃろうが、誰も気にしちょらん」
そして、もう一つマイクが聞きたかったのは、森で遭遇した――銃の効かない老人について。
「森に放り出されて最初に遭遇したのがあの爺だ……奴は一体何者なんだ?」
先程までの陽気な態度から一変、エコロ爺は神妙な面持ちを浮かべ口を閉ざした。数秒の沈黙の後、重々しく口が開かれる。
「そやつの名は呉山 春信。クレイ爺と呼ばれる男じゃ」
「クレイジー……」
マイクは口の中でその名を転がした。あの姿を思い起こせば、二つ名に違わぬ狂いっぷり。
「銃が効かなかったのは奴の力によるものじゃ。この島には特養と呼ばれる丸薬が隠されておってな……それを喰えば信じられぬ力を得ることができる。B級、A級、S級……もっとも恐ろしい物はGの名を冠する特養――っと」
話の途中でエコロ爺の目は入り口の方へと向けられた。マイクがその視線を追うと――
先程、クレイ爺に襲われた自分を救ってくれた老人が立っていた。白い肌着は真っ赤に染まり、見える肌にはいくつもの切傷がつけられている。
「しゃっしゃっしゃ。健作さんや、派手にやられたのう」
「すまんが、またこの村に泊まらせてもらうぞ」
「アンタならいくらおってもらっても構わんよ」
男は頭を軽く下げ、その場を後にした。
「あの人は……俺を助けてくれた男だ!何者なんだ?」
「あやつは匡野 健作。この島に来た際、連れがおったようじゃが……今は一人でこの島を渡り歩いておる。頑固者で何を考えてるか分からんとこがあるが、悪いやつじゃ無い事だけは保証するぞい」
「わしゃ、健作さんと話すことがあるんでのう。おぬしは好きなだけゆっくりしてくれ」
エコロ爺はマイクを残し、その場を後にした。
※※※※
その夜――
「健作さんやい。包帯を持ってきてやったぞい」
布を抱えるエコロ爺が、石の上で薬草を擦る健作に声をかけた。
「榎本さん、いつもすまんの。奴が……この村に迫ってきてるようじゃ」
「しゃっしゃっしゃ。構わんよ。村などまた作ればいいだけじゃ。いざとなったら捨てて逃げるわい」
「逃げるか。もう何度目じゃろうな」
「なに、奴から逃げ延びられるのは健作さんくらいのもんじゃ。じゃが、武の達人の健作さんと言えどもアレを仕留めるのは不可能じゃて」
「ああ、奴には不動が通じぬ」
二人の会話を、マイクは離れた場所から黙って聞いていた。
(仕留めるのは不可能……か)
※※※※
それから数日が経った。
マイクは村に留まりながら、島での生き方を少しずつ覚えていった。食料の調達、村人達との会話。
それを余すこと無く記録していく。
そして、たびたび健作とも顔を合わせる機会があった。言葉数は少なく、愛想も無い。しかし、この男の傍にいると妙に落ち着く。
「この村の老人達は皆凄いが、ケンゾーさんは特段動けますね。何か健康の秘訣でもあるんですか?」
「さあな」
「……ケンゾーさんは村の人達と違って、今も配給券と年金を賭けて戦い続けてると聞きました。なんの為に戦いを?」
「妻に……いや、わしには年金が必要なんじゃ」
寡黙な健作が言いかけた言葉に、マイクは口を閉ざし、それ以上聞かなかった。
※※※※
翌朝、ダッシュ村はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。井戸から水を汲む老人、畑を耕すメンバー達、遠くから聞こえる城島の号令。マイクはその光景を眺めながら、村の外周を静かに歩いていた。
(悪くない村だ……)
任務のことを考えれば、ここに留まり続けるのは得策ではない。しかし、もう少しだけ内部の情報を集める必要があった。
ふと、マイクは思う。
「……静かすぎる」
鳥の声が聞こえない。虫の音も消えている。昨日まであれほど賑やかだった森の気配が、いつの間にかすっぽりと抜け落ちていた。
マイクが立ち止まった、その時――
「……来よる」
井戸の傍らで腰を下ろしていたエコロ爺が、静かに目を細めた。
「皆、奥へ入れ。今すぐじゃ!」
有無を言わさぬ声に、村人達は足早に家々へと駆け込んでいく。
「おい!何が起きてんだ!?」
マイクが駆け寄ろうとした、その時――
「ふぇっふぇっふぇ」
森の奥から、あの笑い声が聞こえてきた。
木々の間からのそりと姿を現したクレイ爺は、血塗れのまま、子供のように無邪気な顔で村を見渡した。
「ほぉ……こんな所に爺共の巣があったんかいな」
「呉山!」
エコロ爺が一歩前へ出た。その声は穏やかだったが、有無を言わさぬ重みがあった。
「久しぶりじゃのう……呉山」
クレイ爺の歩みが、ほんの一瞬止まった。
「……誰じゃったかのう」
すぐに笑みが戻る。エコロ爺は静かに目を閉じ、両手を地面へと向けた。
―エコロG
直後――村を囲む草木が音を立てて動き出した。根が地を這い、蔦が伸び、クレイ爺の足元へと絡みつこうとする。
「おほぉ♡」
しかしクレイ爺は恍惚とした表情のまま、掌から異様な気配を滲ませた。エコロ爺の視界が歪む。
「な……んじゃ」
感覚が狂い始める。伸ばしていた根の感触が消え、草木の声が聞こえなくなる。制御を失った能力が暴走し、村の草木が不規則に揺れ始めた。エコロ爺は膝から崩れ落ちる。
「誤算じゃった……クレイGの力……ここまでの効果とは」
「おい!しっかりしろ!」
マイクが駆け寄り、倒れ込むエコロ爺を抱き留めた。
「ふぇっふぇっふぇ。次はおぬしの番じゃ」
クレイ爺がゆっくりとこちらへ歩み寄る。マイクは舌打ちをしながら拳銃を構えた。効かないとわかっていても、他に手が無い。
「くたばりやがれ!!」
マイクは引き金を引き、ありったけの弾丸を撃ち込む。しかし、弾丸はクレイ爺を捕らえることなく、頬と身体を掠め、背後の木にめり込んだ。
じりじりと間合いを詰められ、マイクは後退するしかない。エコロ爺を抱えたまま下がり続け、背中が木の幹にぶつかった。
(まずい……)
クレイ爺のナイフが閃いた瞬間――
ドンッ
森の奥で、地面を強く鳴らす音がした。
クレイ爺の動きが止まり、マイクも息を呑む。
木々の間から、歩いてくる一人の男。
白い肌着。鍛え上げられた身体。肌にはいくつもの傷跡。その目はただ静かに、クレイ爺だけを捉えていた。
「ケンゾーさん!」
健作はクレイ爺を見据え、歩を進める。すれ違いざま、横目でチラリとマイク達の無事を確認した。
「退っておれ」
その言葉にマイクはえもいわれぬ安心感を覚えた。男の背中を見た瞬間、黙って後退する。それから小さく呟いた。
「……頼みましたよ、ケンゾーさん!」
健作はクレイ爺との間合いを静かに詰めた。
「今日で終わりにするぞ」
「ふぇっふぇっふぇ。何度目じゃ?その台詞」
クレイ爺は手を前方に翳し、世界を歪める
―クレイG
空気が――地面が――揺れる。
健作の視界がじわりと乱れ始めた。
やがて、健作の感覚も狂い始める。上下左右の感覚が消え、自分の拳がどこにあるのかわからなくなる。不動の構えを取ろうとするが、自分の身体の自由も効かない。
これまでと同じ。絶対の自信を誇ってきた武が、この老人の前では全く機能しない。それ故――逃げるほか無かった。
クレイ爺のナイフがギラリと光る。そして振り下ろされた刃を健作は辛うじて身を捻って交わす。しかし、脇腹を浅く切り裂かれた。
「ふぇっふぇっふぇ。感覚が狂うじゃろう?不動とやらが無ければ、おぬしもただの老人じゃ」
健作は膝と手を地面につき、傷口が開かないよう荒い息を整える。
(身体を上手く動かせん……やはり……)
その時――
「危ない!!」
クレイ爺のナイフが健作の頭部を狙った瞬間、マイクが飛び込んだ。刃はマイクの脇腹をブスリと突き刺し、致命の一撃を与えた。
「……へっ。これで……貸し借り……なしですよ。ケンゾー……」
「マイク!!」
健作の呼びかけに答えること無く、マイクはそのまま地面に崩れ落ちた。拳銃が手から滑り落ち、乾いた音を立てる。
「ふぇっふぇっふぇ。若いのが老人の為に命を落とすとは。勿体無い真似をするのう」
健作はマイクを抱えた。意識を失い動かなくなった身体を。名前程度しか知らぬ男だった。この島に来たばかりの、見ず知らずの若者だった。
それでも――庇った。
感覚が狂い続ける中で、ためらわず飛び込んだ。
(狂っておる……)
健作はゆっくりと立ち上がる。
(狂った世界の中でも……あやつは動いた。理屈や計算じゃない。ただ……狂ったように)
その時、遠い記憶が蘇った。
―師匠
〜
『ああん?不動が通用しなかったら?』
『やはり、耐えるのにも限度がありますよ……』
『前にも言った筈だぞ。不動は基礎の中の基礎であり、全ての根幹なんだ。いいか?基礎って言うのはそれ以上削ぐことの出来ない理の結晶なんだよ。それがブレるって事はお前がまだ未熟なだけさ』
『……そんなのただの根性論じゃないですか』
『研ぎ澄ますんだ。お前の中にある武を。狂ったように――』
〜
「そうじゃ……そうじゃったんだ!」
健作は目を閉じた。
膝を軽く曲げ、両の拳を体側へと構える。それから全身の筋と腱がミリミリと収縮し始めた。
「ふぇっふぇっふぇ。無駄じゃって。不動はわしには通用せん」
クレイ爺がナイフを振り上げ、躊躇なく健作の胸に振り下ろす。しかし――
―不動 破の型 強固なること地核の如し
「なんじゃとぉお!?」
クレイ爺の笑みが、初めて揺らいだ。
手に握られたナイフは皮膚を裂くことなく刃を折られ、狂わせた筈の健作は2足の脚で立ったまま。
「ば、馬鹿な……ありえん……ありえん!!」
クレイ爺は懐から新たなナイフを取り出し、健作の身体へと無我夢中で突き立てる。だが、健作はそこに在り続ける。山のように。地核のように。何者にも侵されず、ただそこに在り続ける。
〜
『ああん?不可能だと?』
『動く相手に正確な打撃を放つなど、人間業じゃありませんよ……』
『ったく。お前は不器用な奴だな。出来るようになるまで飯抜きだ』
『そんなぁ……』
〜
―乱打 侵略すること火の如く
息をつかせぬ拳の連打がクレイ爺に襲いかかる。寸分の狂いも無く相手の急所を狙った打撃は、カウンターの隙すら与えない。
その一撃一撃が致命の拳。クレイ爺は膝から崩れ落ちた。
「ぉ゙……ぉ゙ぉ゙……何故じゃ、何故動ける」
「マイクのお陰で気づけたんじゃ」
健作はクレイ爺を見下ろし、言葉を繋げる。
「クレイGの弱点は狂うこと――武というのは途方もない繰り返し。日に20時間を越える鍛錬。それを来る日も来る日も。そしてその先にあるものが不動の境地。どうじゃ、狂っておるじゃろ?」
それに――
〜
『ああん?結婚しろだ?』
『はい!俺が勝ったら…ずっと一緒に居てください。師匠――いや、茜さん』
『お前……私の事をそんな目で見てたのかよ。ちょっと引くわ』
『お願いします!』
『ふふ。勝てたらな』
〜
「それに……あんな凶暴な女を嫁に貰うんじゃ。おぬしよりわしの方が狂っておった。それだけじゃ」
クレイ爺は地面に倒れた。
視界が揺れる。身体の感覚が遠のいていく。それでも、意識だけはまだそこにあった。
〜
『お父さん、今日はどこに行ってたんだ?』
『ありゃ、どこじゃったかのぉ?』
『また一人でふらふらと……転んだらどうするんだよ』
息子の声だ。あの子はいくつになったんだろうか。もう自立したのか。それとも、まだ家にいたか。
『春信さん晩ごはんですよ』
妻の声だ。台所から良い匂いがしてくる。飯はまだじゃったか。味噌汁が好きだった。大根がたっぷり入った、少し甘めの。
(そうじゃ……今日は)
今日は何の日じゃったか。どこかに行かなければならなかった気がする。でも、どこだったか。誰と行くんだったか。
靄がかかる。靄の向こうに、誰かがいる。
手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。
(……あれは)
靄の中に、見慣れない男が立っていた。頭の禿げた、背筋の伸びた男。
「……ふぇっふぇっふぇ。クレ…イ…ジー…じゃな」
※※※※
静寂が戻った村で、健作はゆっくりと構えを解いた。傷口から血が滲む。膝が笑っている。それでも倒れなかった。
健作は倒れたマイクの傍らに膝をつき、その顔を見た。浅い呼吸がある。生きている。
「……馬鹿者が」
生まれも知らぬ。どこの誰かも知らぬ。
この一言しか出てこなかった。
健作はただ空を見上げ、目を細めた。
その視線の先に何が見えていたのかは、誰にもわからない。
※※※※
―その頃
島の深部。閑散とした木々の奥に、場違いなほど整然とした一室があった。
「それって、おぬしの感想じゃよね?」
天才 弘行――爺ニアスと呼ばれる男は、対面に座る人物を一瞥し、静かに口を開いた。
「何故じゃ。天才とまで言われたおぬしが、何故わしを拒む」
「ふはは。健作さんを見て気づくことがあってのう。たまには凡人のように、馬鹿みたいに生きるのも悪くない……とな」
沈黙が落ちた。
「やはりおぬしは――」
――NGじゃ




