真の主
手首が引き攣る痛みで目を覚ました。
呼吸する度に鼻をくすぐる疎ましい毛先を払うため、首を横に振る。
見ると、私の両手首を痛みつけていたのは鉄製の手枷で、それに繋がれている鎖を辿ると端は壁に打ち込まれていた。
腕に掛かる圧痛を和らげる為、立ち上がる。
左足に激痛が走り、見ると紫色に腫れ上がった足首が脈打っていた。
噛まれた首から流れた血が白いパジャマを汚し、山の中を駆け回った代償が泥汚れとして全身をくすませている。
土臭さの残る石壁の部屋。
この部屋は斎藤が見ていたモニターには映っていなかった気がする。
壁に掛けられた刃物、釘が撃ち込まれた板、体を拘束するベルトが付いた起立車椅子、用途を考えたくも無いような拷問器具の数々。
全て年季が入っていて、鉄の部分は錆びて朽ちかけている物もあった。
壁には体が引き裂かれた人物や、断末魔が聞こえて来そうな恐ろしい顔をした女性の絵画が並べられている。
なんとも、悪趣味を極めた部屋。
視線を絵画から鉄格子の扉に移す。こちらに向かって来る足音が聞こえたからだ。
鉄の擦れる音と共に姿を現したのは斎藤と洋子。
「おはようございます、麻希さん」
革手袋をはめた斎藤が近づいて来る。
「君は乱暴な女性のようだ、だから拘束させてもらいましたよ」
「…乱暴?」
「洋子さんを花瓶で殴って鍵を奪い、逃走した。洋子さんが力を振り絞って私に報告してくれなかったら、危うくあなたを逃す所でした」
その言葉に、洋子を見る。
どおりで、額にガーゼを当てているわけだ。
「洋子さんは本当に良く出来た使用人です、しっかりと自分の仕事をこなしている」
洋子は返事をする事なく、すっと頭を下げる。
私は洋子の下げて来た面を見ようとしたが、彼女の目線がこちらに向く事はなかった。
だが、彼女のロングスカートが細かく揺れているのを私見逃さなかった。
この空間が怖いのか、それとも私に本当の事をバラされるのが怖いのか。
いずれにせよ、斎藤に忠誠心を見せる事で自身を安全地帯に置いてきたのだろう。
なんて哀れな女。
「それと、誤解しないでほしい、この部屋は私の趣味では無い」
テーブルの上に置かれた工具に触れながら斎藤が話す。
「この部屋は他界した父の物なんですよ。父は画家でね、良く旅人を“題材”にしていたんです」
そう言うと微笑みを私に向ける。
「私は小説家だ、人間の本質を作品に閉じ込めたいと思っている。だからこの地下にいるのは私の被験者達なんですよ」
「…兼、食料でもあるけどね」
その言葉に、全身の毛が逆立つ。
「ボロボロの君をここに運ぶ時、敢えて被験者達の前を通ったんだよ、彼女達の反応が見たくて」
棍棒を手に持つと愛おしそうに目で舐め回す。
「そして、彼女達が君の悲鳴を聞いたらどう思うだろうか、」
目を細め、列から飛び出た犬歯を覗かせながら近づいて来た。
斎藤は私の目を見ながら左足に棍棒を押し当てる。
全身が弾けるように反応し、湧き上がる悲鳴を空気と共に飲み込んで唇を噛んだ。
「…ほぉ」
そう漏らすと間髪入れず棍棒を振り下ろし、鎖がジャラリと音を立てた。
「…っぐっ…く…っ」
体が激しく震え出す。それでも私は悲鳴を上げなかった。
吐き気を催し、冷や汗が滲む。それでも私は痛いとは口にしない。
「なかなかの忍耐ですね、いつまで続くかな」
挑発を木の棒に込めるように足に当て続ける。
こいつの思い通りにさせてたまるか。
その想いで歯を食いしばった。
私は我慢強い。
厳格な家庭で生まれ育ち、父親による躾と称した暴力にも耐えてきたのだから。
私の父親は吸血鬼なんかよりも恐ろしい男だった。
根を上げない私に退屈したのか、斎藤は力を緩める。
顔を近づけ、細かな呼吸を繰り返す唇から流れる血を指で撫でるとペロリと舐めた。
「…あとは痛みの余韻を、お楽しみ下さい」
彼等が部屋を出て1人になった私は深呼吸を繰り返した。
流れる涙を落ち着かせるために。
1人で闘わなければいけないという現実を、受け入れる為に。
意識を失った私が次に目を覚ましたのは暗闇の中でだった。
地下の灯りを消したのだろう。
きっと今は昼間なのだと察しが付く。あいつは日が沈んでからでないと活動しないから。
女性の啜り泣く声が聞こえる。
そしてそれに対して嫌悪感を露わにする声も。
座ると腕が痛い、立つと足が痛い。
空腹の波も何度も味わった。
逃げ場のない状況で、すり潰されるように時間が過ぎていく。
希望を捨てたわけではない。
こんなフラストレーションを溜めたまま、死ぬ訳にはいかない。
灯りが着くと視界が白一色に塗られ、目を細めた。
近づく足音、鉄の擦れる音、そして斎藤の嬉しそうな声が響き渡った。
「麻希さん、私は大きな野ネズミを捕まえましたよ」
そう言うと、後ろ手に拘束された人物を私に見せつけるように前に押し出す。
頭に被せた麻袋を取ると、顔を見た私は目を疑った。
「…健斗…?」
「…麻希ちゃん」
「なんで…ここに…」
「ごめんね、麻希ちゃん、ごめん、謝りたくて君を探しに来たんだ、そしたら、こんな…」
斎藤は健斗のポケットに手を入れると小さな箱を取り出した。
「彼はこれを持って来たようですよ」
箱を開けると中には指輪が入っていた。
健斗は悔しそうに顔を歪め、それを見た私は目を逸らす。
「ごめんね、今更だよね、他の子に目がいってしまったのは魔が刺したとしか言えない。君はいつもクールで僕は普通の恋愛をしてみたかったんだ。でも気付いたよ、僕は君じゃ無いとダメなんだ」
「…もう、遅いよ」
「ごめん、でも一生を掛けて償わせてほしい…返事を、聞かせてくれないかな…」
こんな状態なのに、それなのに私は健斗の顔を見て安堵していた。
私はまだ、彼に期待していたんだ。
「素晴らしい、なんて感動的なんだ」
斎藤が手を叩きながら白々しくリアクションする。
「でも、彼女は返事しましたよ?もう遅いって」
そう言いながら健斗の背後に回ると彼の頭を抑えた。
「だめ…やめてっ!」
斎藤が何をしようとしているのか察した私は声を張る。だが斎藤は歯を剥き出すと健斗の首筋に噛み付いた。
「健斗!」
健斗の顔からは見る見る赤みが消え、喉を絞められているかのように狭まった気道から空気を漏らした。
あっという間に健斗は崩れ落ち、力無く床に横たわる。
「けん、と…」
私は膝を着け、がくりと頭を倒す。
親には恵まれず、ぶりっ子で成り上がって来たような後輩に男を取られ、プライドをズタズタにされた私の人生は、ここで終わるのか。
斎藤は揚々とした気分を隠す素振りも見せず、私の顔を覗き込むとくくくと笑い出す。
「やっと見れた、君のその絶望した顔、最高だよ!」
項垂れた頭をゆっくりと上げると、私は斎藤を見た。
そして柔らかく目を細め、笑顔を作る。
斎藤は気が触れたとでも思ったのだろう、怪訝な顔を私に向ける。
そんな顔をされても私はお構いなしに彼の唇に飛びついた。
拒絶されると思っていたが斎藤は戸惑いながらも私を受け入れた。
だから試しに舌を入れ、口の中を探った。
すると斎藤も返して来たので、私は拘束された手を握り締めた。
噛みちぎる勢いで舌を歯で挟むと、そこから滴る血を、私は吸い込んだ。
慌てた斎藤は私を押し退け、地べたを這って後退する。
「き、気は確かか!?」
流れる血を手で拭いながら彼は取り乱す。
口の端から垂れた血を、舌を尖らせて舐め取る。
「クソまず」
そう言いながらも私の口角は上がっていた。
心臓が、激しく揺れ出す。
それに伴い、肺も大きく伸縮する。
体中に漲るものを感じ、熱くなっていく。
傷口が塞ぎ、痛みが消えていく。
私は立ち上がると手首に繋がれた鎖を張らせる。
いとも簡単に壁から引き抜かれた鎖は、波を打ちながら床に叩きつけられた。
まるで、鞭を振った時のよう。
体が自由になった私は、ジャラジャラと鎖を引きずりながら歩き出した。
向かったのは健斗の所、側に落ちている箱を手に取ると中身を確認した。
「…ティファニーかよ、しょぼ」
「…すみ、ません…」
健斗は虫の息で声を絞り出す。
「普通の女に飽きたからって戻ってくるとか、都合良過ぎんだよっ」
そう言うと健斗の胸を踏みつけた。
「…うっ…はい…すみません…」
髪を掴み、顔を上げさせる。
「ありがとうございます、だろ?」
「…ありがとう…ございます…」
「ふふ、いい子だね」
そう言うと私は吸い込まれるように彼の首元に噛み付いた。
最後の一滴まで飲み干す勢いで、魂を吸い取る。
粘り気を帯びた血が口の中に流れ込むと、それは甘く、体の中に落ちると、熱く、高揚感をもたらした。
あぁ、癖になりそう…
あんたは本当に良い子だよ。日時指定で出した手紙を頼りに良くここまで来てくれた。私の腐乱死体を発見させて一生負う傷を付けてやろうと思ったけど、予定変更だね、あんたは私の、
「食料…」
自分で言っときながらゾクっとする。
人間が食料。
そのキーワードを聞いて私の脳は痺れた。別にカニバリズムに興味があるわけでは無い。
食物連鎖の頂点にある人間、更にその上がある。
その場所に私も座りたい。そう思ったの。
健斗も嬉しいよね。私の糧になったんだもの。
いつも言ってたじゃない、僕を好きにしてって。
世の中にうんざりしていた、だから死を選んだ。
あの時私は食べられる事を願った。
でも知ってしまったんだ、私は捕食側に行けるんだって。
冷たくなった健斗を放ると立ち上がり、部屋を見渡した。古臭い拷問部屋、別角度から見て見たかったんだよね。
部屋の隅の影に隠れて震えている洋子を見つけた。
居たのか、存在消し過ぎでしょ。家主に見つかったゴキブリみたい。
そして、四つん這いの情けない姿の斎藤と目が合い、私は彼に近づいた。
「久しぶりに血が騒いだわ」
斎藤は理解が追いつかないといった顔で私を見ている。
「あんたは主って感じじゃない、その顔は支配される側なのよ、今日から私が飼ってあげる」
「真の主はこの私」
斎藤の顎を掴むとその白く美しい顔を覗き込み、くくくと彼の笑い方を真似をしてみた。
「あんたのその絶望した顔、最高だな!」
斎藤の表情は固まったままだ。
だが、何故だろう。頰が僅かに上がっている。
…こいつ、なんで嬉しそうなんだ?




