深い深い森の奥
暗闇の中、前方を照らすヘッドライト。
私はただ、真っ直ぐ前だけを見ていた。
と言うか真っ直ぐ前しか見えなかった。視界の両端が狭窄でボヤけているからだ。
頭は空っぽ。
虚無、喪失、無気力、…あぁ、全部同じ意味か。
前方の道路が直線から半円型に変わる。
躊躇う事なく、アクセルに乗せた右足の踵を上げる。
アスファルトを転がっていたタイヤは摩擦どころを無くすと宙で空回りし、音が消えた。
車内では外した指輪と共に内臓が浮遊する。
重力と時間が消滅したかのよう。
ヘッドライトは真下の木々を照らし出す。
生い茂る樹冠に向かって車は頭を下げて突っ込んでいく。
構えてはいたが、大きな衝突音が響き渡り、少し苛立ちに似た感情が脳を揺らす。
痛いという言葉すら出てこない。
飛び出たエアバッグで真っ白になる視界、取り敢えず、苦しいから顔を横に向けた。
すると、目線の先には丘の上に立つ1匹の獣がいた。
狼のようなそのシルエットは、首を伸ばしてこちらを見ている。
透き通った夜空に、満月の光を受け銀色に輝く輪郭を浮かび上がらせている。
…どうぞ、私を食べて下さい。
そう願いながら、赤いフィルターが垂れ幕の如く視界を覆うと、私は目を閉じた。
—————金属を叩いたような高音が耳の奥で鳴り響いている。
窄むはずの残響はボリュームを上げて近づくのを感じ、目を覚ました。
瞼を開ける動作で頭痛がし、額を押さえると手に当たる布の感触で包帯が巻かれている事に気付いた。
体にはワンピースタイプのパジャマが着せられている。
上半身を起こし、辺りを見渡す。
キングサイズさながらの大きなベッドはゴールドの彫刻で縁取られ、掛けられた布団には細かな刺繍が施されている。
そして、背の高い天井にはシャンデリア。
ヴィクトリア調に統一されたその空間を受け入れるのに、私は少し時間が掛かってしまった。
近くには杖が置いてあり、その杖を手に取り体を支えるとベッドから立ち上がった。
「あのー、すみません」
声を出してみるも、返事はない。
辛うじて動く右足を軸に扉まで歩き、扉を開いて顔を出すと周囲を確認した。
ここはホテルなのだろうか。廊下からは同じ様な扉が連なっているのが見えた。
「すみませーん、誰かいませんかー」
声を張るが、自分の声が反響するだけで返事は返ってこない。
廊下を歩き、屋敷の中央に配置された階段に辿り着くと、一段一段慎重に降りる。
下の階のフロアには大きな振り子時計が置かれており、針は4時を指していた。
玄関と思われる観音開きの扉に近づくと、天井に設置された監視カメラの点滅する赤いライトが目に入った。
中世ヨーロッパにタイムスリップしたのかと思ったが、どうやらここは私の知る世界のようだ。
「歩けるのですね」
背後から声がして肩が跳ね上がる。振り向くとそこにはエプロンを着た女性が洗濯物を抱えて立っていた。
表情も血色も無い顔をしたその女性は、顔を逸らすと歩き出した。
「あなたが私を助けてくれたのですか?」
テーブルの上で洗濯物を畳む女性に話しかける。
「いえ、ご主人様があなたをここまで運んだんです。カイルの散歩中にあなたの事故を目撃して」
浮かせていた左足に柔らかな感触が当たり、下を見ると白い大型犬が擦り寄っていた。
フラつきながら腰を折り曲げ、カイルという名札を付けた犬の頭を撫でる。
私が見たのはこの子だったのか。
「主人、というのはこのホテルの支配人、ですか?」
「…ここはホテルでは無いですよ。ご主人様はこのお屋敷の持ち主で、私の雇い主です」
その言葉に私は返す言葉が定まらなかった。
こんなに広くて浮世離れした屋敷なのに、ホテルではないなら一軒家とでも言うのだろうか。彼女が先ほどから畳んでいる白い服は私が着ているパジャマと同じ物で、他の宿泊客の物だと思ったのだが。
「その方は今どちらに?お礼を言いたいのですが」
「今は執筆中なので誰にも会いませんよ」
「執筆?」
「はい、ご主人様は小説家で日中はお部屋に篭って作品と向き合う方なのです。夕飯時には降りてこられるので、その時にお話しすれば良いかと」
こちらを見る事なく、灰色した顔で目の前の衣服を畳む女性。その動きは何処か機械的だった。
「夕食まで屋内でお過ごし下さい。今の時期、蛇が良く出るので」
そう言うと、縦に積まれたパジャマを持って奥へと行ってしまった。
一度も目が合う事なく、彼女との淡白な会話は終了した。
1人になった私は外の様子を確認するため窓まで歩み寄る。
背の高い杉の木がずらりと並んでおり、それ以外は何も無く、見上げると灰色の分厚い雲が空を覆っていた。
ソファに腰を降ろすと、寄ってきたカイルの体を撫でる。
静かな室内で、振り子時計の規則的な音だけが鳴り響いている。
カイルの体に頭を乗せると、私はそのまま目を閉じた。
…カチャ
食器の擦れる音が耳に届く。
少しづつ意識が覚めると、そっと開いたまつ毛の隙間から人影を捉えた。
テーブルを挟んだ正面には、磨き上げられた革靴を見せつけるかのように足を組んで椅子に座り、ティーカップに口を付ける男性。
カップから唇を離すと彼は顔を上げる。
純粋な東洋人とは思えないほど端正な顔が正面を向き、私と目が合うとニコリと笑顔を見せた。
「お目覚めのようですね」




